『茜色の出会い』


 青くなりたい。そう願っていた。
 理由は? と問われると少し言葉に詰まる。自分の中にある消えない霞。桜の花の匂いを常に香らせているその感覚に私は名前を付けられていない。
 でも、しばらく霞に身体をゆだねていれば、この「青」への思いに名前はなくとも中学三年の両親の離婚に理由があるとたどり着く。
 中学最後の新学期が始まろうとしていた四月。いつの間にか離婚を決めていて、どちらについていくかと言ってきた両親の顔を見ずに、私は庭の桜の樹を見ていた。
 小さい頃からそこにあって、家族皆でお花見をした、樹を。
 そして室内だから香るはずもないのに、春の花の気配は鼻腔をくすぐった。その時、答えは自然と決まった。
 結局、祖父母に引き取られることを望んだ私を共にため息をついて見てきた両親。親権は母親にあるけれど、二人とも私が大学を卒業するまでのお金は祖父母たちに払うようだ。逆を言えば、大学を出た瞬間、父と母の役割は終わるのだと私は理解した。もう、触れ合うことはおそらくない。
 庭の桜の木の下へ集まることは、もう二度とない。
 だからこそ良い大学に入って良い会社に就職して、一人で生きていけるようにと勉強だけに集中した。
 その時から私の中には全てが青に染まった空が広がっていた。
 青くなりたい。
 その意味は分からない。正確な言葉に出来るのは、そんな抽象的な言葉。
 現実の今は、夕暮れの茜色に染まっている――
「そんなに勉強してて疲れない?」
「疲れるわよ」
 意識して出た言葉ではなかった。実際、相手が絶句する気配に気づいて振り向いてから初めて声の主を認識したんだから。
 自分が何を言って、相手はどうして口を半開きにしたままで私を見ているのだろうか、想像も出来ない。しばらく動かなかったけれど、声の主は座っている私のすぐ横へとやってきた。隣の机に腰をかけて、私を見下ろしてくる。
「まさか咲坂さんが冗談を言うとは」
「何よ? 私、面白いこと言った?」
 私に話し掛けてきた男子――水島直人だったかは少し童顔で、他の女子には可愛いと人気があった。私の趣味範囲に入っているかは微妙だ。外見には童顔という以外特徴は無いけど、勉強や運動では時々光るところを見せる。それがギャップとして好まれるのか、高校二年までで十人ほど隣にいる女子が変わっていた。
 そんな男子と夕焼けが差し込む教室に二人でいると言うのは、一体どういうことなんだろうか。
「それよりも。どうして水島君がここにいるの?」
「ここは学校だろうさ。そして俺は二年C組の生徒。いてもおかしくないだろ?」
「……それもそうだけれど」
 私は開いていたノートを閉じた。英単語が並んでいたそれを眺めていた水島君は「ああぁ」と残念そうに口の中で呟く。明日の宿題を見せて欲しかったってことだろうか。違ったら謝るだけだと割り切って、私は少しだけ落胆を見せた水島君に言った。
「自分で宿題ってするものでしょ。それに、自分で努力してやったのを他人に五分で写されるのって凄い萎えるの」
「うん。そうだね」
 言うと同時に椅子から立って窓際へと向かう。その時に、水島君の顔が見えた。結構な頻度で浮かべている笑顔とはまた違った印象を受ける笑みがそこにあって、私はわけも分からず動悸が早まる。彼の視線を振り払うように早足で窓際に立ち、空を見上げた。今までの勉強で固まった身体を伸ばしながら。
 夕焼けが差し込んでいるから空全体が茜色になっているのかと思ったけれど、太陽が沈んでいく方向と逆方向はまだ青が残っていた。青というよりも空色と言った方がいいんだろうか?
 それでも、あの空の色こそ私の中では青だった。
 青くなりたい。あの空のように、透き通った青色に染まりたい。
 どうしてそう願うのか、私はもしかしたら分かっているのかもしれない。きっかけが分かるのだから、きっと理由も。
 ただ、形にならないだけで。
「咲坂さん、女子から浮いてるの分かる気がするよ」
 言葉に驚いて身体が恥ずかしいくらいに跳ねた。自分でも彼がいたことを忘れていたらしい。空を見るといつも、自分の中がすっかり洗われてリセットされた気分になる。
 驚きが収まると共に、今度は発言の内容が染み渡る。そのことはもう枕を濡らすくらいまで気にすることはないけれど、ちくりと胸が痛む。
「自分で思うのはいいけれど、他人に言われると結構腹立つ。殴るよ」
 私の言葉はきっと棘があっただろう。まるで針でも飲み込んだというように顔をしかめて、水島君は喉に両手を添えた。
「あ、あの……そういうキャラなの? 咲坂さんって」
 私は棘を飛ばすのと一緒に持ち上げていた椅子を下ろした。そういうキャラってどういうキャラなのか聞きたかったけれど、予想できたからため息で答える。動かした痕跡が残らないように持ち上げる前の状態に椅子を戻してから、水島君へと近づいていく。一言遅ければ椅子が直撃するかもしれなかった恐怖からか水島君は少しだけ後ろに下がった。
「大丈夫よ」
「……そう?」
「うん。いくらなんでも素手だと気絶するくらいまでは無理だから」
「でもそこまでいかないなら結構痛くできるって言いたげだよね」
 傍まで近づいて拳を振り上げたところで、私は冗談を止めた。確かに彼の思ってる通り、私は勉強出来るだけのお嬢さんじゃない。料理も一人暮らしに困らないレベルだし、運動神経もいい線だ。漫画とかにいる完璧超人、とまではいかないにしろ、その劣化版だという自信はある。
 きっと完璧超人はここで相手をノックアウトできるんだろうけれど、私は握力も筋力もそこそこしかないし、人を殴ったことも無いからこっちのほうが痛くなるはずだ。
「ごめん。不用意なことを言ったの謝るよ」
 私が黙りこくったのを見てさっきの発言に傷ついたとでも思ったんだろう。どこか一歩引いたような印象を持った言葉使いから、真摯に謝ってるところが伺えた。そんな態度に久しぶりに、私は好感を持てた。
「いいよ。事実だもんね。やっぱり男子の中で噂になってるの?」
「……いや。確かにみんな知ってるけれど、特に関係ないって感じかな。咲坂さん、男子からも女子からも距離取ってるから話題の持ち上げようがないというか」
「本当、はっきり言うわね」
 私の言葉に慌てる水島君に、私は少しずつ好意を持ち始めていた。最近はみんな表面でしか話してない気がして、自分も似たようなものだと思っていた私は自分でも気づかないうちに距離をとるようになっていた。性格の問題もあったんだろうけど。
「でも、咲坂さんが離れてる理由も分かった気がしたよ。さっきの会話で」
 水島君は机に腰掛けて足をぶらぶらさせながら言う。私もそれに習う形で彼の向かいにある机に腰をおろして、真正面から見つめた。
「確かに、自分がせこせこやってきた宿題を何も気にしないで見せてーって腹立つよね。俺も不注意だったよ。でも……」
 今まではっきりと言ってきた水島君が言いよどんだことがとても珍しいことのように思えた。そう思うほど私は彼と付き合いがあるわけじゃないのに。
「……でも、それは対価を望まない友達がいないからじゃ、ないかな」
 その言葉は中心に突き刺さった。身体が震えて、自分を支えていられない。前に倒れそうになった私を、水島君は身体全体で受け止めた。
 ――つまり、私は彼に抱きとめられてる形になる。
 さっき言いよどんだのは、私はこうなることを分かっていたからじゃないだろうかとまで思うほど、彼の抱きとめるタイミングは絶妙だった。恥ずかしいけど、体の力はまだ戻らない。
 もし、私がこんな風になると予想していたのなら、その真意はどこにあるんだろう?
 急に怖くなって、今、身体を震わせてるものとは別の震えが私を襲った。抱きとめてくれている腕が汚らわしく思えて、思わず前にある水島君の胸板を突き飛ばす。
「って」
 彼からしてみれば突然の衝撃だったのに、少し後退しただけで止まる。いつの間にか夕焼けが教室のほとんどを覆っていて、彼の顔も橙色だ。赤と橙色が混じった唇が開く。
「今日、声かけたのはさ。一緒のクラスになってからどうも心配だったからなんだ」
「……何が?」
「咲坂さんさ、どこかに消えてしまいそうな気がして」
 え、と声が口の中にこもる。その言葉が私の心の中にある霞を一箇所に集めていく。ぼんやりとしていたものに、形が生まれようとする。
「まだ新しい学年になって二週間だけどさ、空とか見てる咲坂さんはさ、そのまま空に溶け込んでいってしまいそうでさ。なんかこう……落ち着かなくなるんだ」
 凝縮していく霞は、ある物を形作る。大きな、大きな樹。あの、桜の樹を。
 でもそれは全て灰色で、合っているのは香りだけ。
 強く、強く。喉の奥を香りが突き刺してくる。
 そうか――――
「青……くなりたかった」
「え?」
 ようやく形になった、私の思い。青くなりたいという想いに。
 名前が、ついた。
「空の色になって、私は消えてしまいたかった。溶けてしまいたかったんだ」
 はっきりと形になった感情は、もう意識せずにはいられなかった。両親が離婚した時から生まれた「青」への想い。
 それは何のことは無い、自殺願望だったんだ。私はただ、消えてしまいたかったんだ。
 私が祖父母のところに行くと言った時、どちらも自分について行けと主張しなかった。その時、想った。
「私は、いらないんだって、想った……ずっと想ってた」
 だから、空にあこがれた。
 空は綺麗だし、私のような存在も、溶け込ませてくれるかもしれないと。
 でも、やっぱり私には青に染まることは出来ない。いくら青を塗っても、汚さは消えない。
「憎くて……たまらなかったんだ」
 自分を勝手に捨てた両親が、たまらなく憎かった。
 だから必死に勉強して、いい大学に入って就職して。
 両親の役目が終わった瞬間に、死んでやろうと思った。あの桜の樹で首を吊って。幸せだった頃の残滓がある、あの桜の樹で。
 そこまでだった。私はこみ上げてくる嗚咽を抑えるのに必死で、床に膝をついた。しゃくりあげる度に肺が苦しくて。
 多分、水島君には分からないだろう。何を自分がしゃべったのか分からないけれど、おそらくは断片的なもので会話にはならなかったはずだ。
 それでも、彼は話し掛けてきてくれた。
「えと……何があったのか分からないけれど」
 声だけが聞こえて、俯いていた私の視界にハンカチが見えた。これで涙を拭けってことだろう。
「何を憎んでいるのか分からないし、どうしていらないって想ったのか知らないけれど……いるいらないを決めるのって、自分だけだよ」
 水島君の手が私の両肩を掴む。触れるのではなくしっかりと掴んで。
「きっと、自分の中で決着をつけないことなんだろうけれど、一つだけおせっかい言わせて?」
 徐々に落ち着いてきて、彼の言葉が理解できる。私は少しだけ首を前に折った。
「もう少しだけさ、周りを見たら、いいよ。今まで見れなかったのかもしれない。でも……今なら、見えるんじゃないかな?」
 その言葉をゆっくりと身体に馴染ませる間に、水島君の手が私から離れる。そのまま足も離れていく。
 教室の扉を開ける音が聞こえて、ゆっくりと閉められた。
 おそらく今日はもう戻ってこないだろう。それはつまり、今は思い切り泣いて、明日にはハンカチを返せと言うことだ。
 もう少しだけ周りを見る、私になって。
「……ありがとう」
 胸が詰まって小さかったけれど、確かに呟くことが出来た。
 私の中の想いを感じ取って話し掛けてくれた、初めての人。
 幼い容姿からはあまり想像できない違う鋭さ。そのギャップは、私も少しだけ惹かれたのかもしれない。
 立ち上がって外を見ると、茜色に染まった桜が見えた。でも、息を吸い込んでも香りはしない。私の中にあった、霞が消えかけているからだろうか。
 まだ霞は消えない。名前が付いたことで、その霞で出来た桜の樹はまだしばらくは存在感を保ちそうだ。
 でも、その樹へと向かうことも、空へと昇ることもないと確信できる。
 今、私は心の中までこのクラスのように夕焼けに染まってるんだろう。
 根拠はない。でも、そう思える。




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