『曖昧ミー地雷』





「戦だ」

 静かに呟く袴田正志の視界には道路を挟んで立ち並ぶ八件の家が見えていた。自分の瞳

を信じるならば確かに八件。別に近眼で少し離れたところにある家がぼやけて二重に見え

ているわけでもなく、保護色で周囲に溶け込んだ家があるわけでもない。

 ただ単純に、そこには八件の家があった。

 白いロングコートに身を包み、毛糸の帽子を被った正志の姿は一見すれば高校生には見

えない。だが、顔は高校生男子特有の幼さと大人の風格が半々に浮かんでいる。太目の眉

毛に少し細い瞳。少し厚めの唇は一文字に引き締められている。

 成城市東二丁目。それが彼の戦場の場。

 彼の、恋の合戦場である。

 正志は手元にあるメモと、自分の前に立つ住所が書かれた立て札を見比べた。同じ数字

が書かれ、間違いなく目的地だと確認したところで正志は溜息をつく。

「なんで同じ苗字が三つ固まってるんだ……」

 正志は傍目から見て分かるほど肩を落とした。肩だけじゃなく、膝も。どうせならば五

体投地したかったが、まだ雪が残る道に身を沈めたくはない。

 脱力した手からメモが落ちる。雪に触れて徐々に濡れていくそれを、慌てて取り上げた。

 浸食は少しだけで、紙の端が少し色が変わったくらい。ほっとした正志はとりあえず目

の前の道を歩くことにした。

 日曜の朝八時だけに、八軒ある家はどこも生活は始まっていないようだった。雪を踏む

音が静かな区画に響くように思える。不自然にならないように表札へと視線をめぐらせて、

正志は最初に自分がいた場所から反対までたどり着いた。

 事実を確認して、やはりへこむ。

「……でなおすほうがいいか?」

 自問自答。

 コートのポケットに手を入れてゆっくりと抜き出すと、一通の手紙が握られていた。ピ

ンクの便箋に簡素な封シール。表には『伊藤美咲様』と非常に丁寧な文字。裏には『袴田

正志』という自らの名前が申し訳程度に書かれている。

 表の文字は彼が正に命を削って書いたものだ。本文は一週間。名前は前日の十二時から

六時間かけて何度も書き直したもの。駄目にした便箋は三桁にも昇った。

 書き上げた時のあまりの嬉しさにいても立ってもいられず、正志は今、ここにいる。

(いや、今引き上げたら……多分告白しない。今、やるしかない!)

 正志は手紙を持っていない左手を握り締め、自分を奮い立たせる。だが、現在の問題点

が解決するわけもなく、少し距離を取って打開策を見つけることにした。ちょうど傍には

町内会の連絡板が立っており、そこに体を預けて腕を組む。考え事をする時にいつもする

ように、正志は目を閉じた。

 徐々に春へと近づいていく中のある日曜日。

 空気が澄み切った中にいると、自分もまた澄み渡り、細胞一つ一つが活性化していくよ

うな気がする。内から力が溢れ出てくる――ような気がする。

 自己暗示を終えたところで、正志は問題を整理し始めた。

(まず、問題なのは伊藤さんが三軒あること)

 最初に正志が驚いたのは目的地である『伊藤美咲』が住む伊藤家が、この区域内に三つ

あることだった。番地を確認できればもう少し対処法があるかもしれないが、美咲と親し

い男友達を拝み倒して手に入れた住所にはそこまで書かれていなかった。おそらくその男

もこの事態は想定外だっただろう。

 伊藤家の配置は正志が入ってきた道の入り口付近一軒と、ちょうど中央に二軒。中央の

どちらかだとしたら、ややこしい事この上ない。

(次の問題は、『伊藤』さんのどれかは知ってる女の子だってことだ)

 正志の脳裏にぼんやりと中学時代のことが思い出される。

 彼が中学の時に好きになった女生徒の苗字も『伊藤』といい、この近辺に住んでいたの

た。元から興味がないもの、なくなったものに対して記憶が曖昧になる正志は、一度だけ

来たことがあるこの場所をたどり着いた時点でぼんやり思い出していた。何故家に行った

のかも、その女の子の名前も顔も曖昧だったが。

(確か、中央のどちらかの家が……あいつの家だ)

 脳みそを思い切り絞ったからか生暖かい汗が額を流れる。まるで脳みそから吹き出たよ

うに。思い出せたのはよりにもよってややこしい中央の二軒。正解を選べばまだしも、失

敗したら後世に残る傷を残す気がする。そして、もう一軒も正解だという保証はない。

(こういう時は……情報を、一つ一つ確認してみることか)

 正志は今まで得た美咲に関する情報を羅列していった。

 一・毛先が外側に反っていて、可愛い。

 二・目が大きくて微笑むと片えくぼが出来て可愛い。

 三・制服の上からでも分かる『ぼん・きゅっ・ぼん』が可愛い。

(……駄目だ)

 一度目を開けて連絡板に頭を打ち付ける。顔に昇った血が今度は下半身へと集まってい

く。脳が短時間でも睡眠したと錯覚したのだろうかと首をひねり、息子の位置をずらす。

 気を取りなおして美咲の情報を記憶の引出しから取り出した。

 一・犬を飼っている。

 二・中一の妹がいる。

 三・大学生の兄がいる。

(…………)

 自分の持つ情報の少なさに、正志は溜息をついた。結局、遠くから見ているだけで周辺

の情報も他のファンに聞いたくらい。何しろ意中の彼女の名前さえもファンから聞いたく

らいなのだ。曖昧なことこの上ない。今、この状況を打開しうる確実なものは、犬がいる

かいないかしかなかった。

 しかし、正志は視界に紛れ込んできた人影を見て、思わず連絡板から離れた。もう少し

よく見るために区画に再接近する。道に入る寸前で傍の家の壁へと身を潜め、顔だけを出

して観察する。

 その人物は最も離れた場所にある伊藤家から出てきた。ぼさぼさの髪に眼鏡。上下とも

赤いジャージ姿。顔などは遠すぎて正志からは良く見えない。だから髪の長さから女性と

だけしか分からない。

 誰も見てないと思ってるからか、女は大きなあくびを掌で隠さないまま郵便受けを覗い

ていた。

 正志がいるところとは反対方向の入り口傍の伊藤家から出てきた人物。

 彼女を見て、正志は神様を少しだけ信じた。

(あんな女が美咲さんの妹、あるいは母親なわけはない!)

 正志の中で脳内イメージが爆発。単純な消去法が一瞬で行われた。

「これで、残りはあやつの家か……美咲さんの家か」

 名前さえ覚えていない、前にふられた女の子と美咲。中央で隣り合った家のどちらかに、

ターゲットはいる。そう考えると正志はハンターにでもなった気分で鼻歌を歌いながら歩

き出した。もちろん、家に犬がいないかを確認するためだ。

「はっは〜ん、ふっふ〜ん、みょめちょめんちょめ〜♪」

 一つ邪魔者が消えたことは正志の気持ちを軽くした。

 三択と二択は全然違う。

 三割三分と五割は雨の水たまりと水道水ほど違う。

 そう確信して疑わないような正志の笑顔。やがて伊藤家の一つの前を通り過ぎつつ横目

で観察した。小さい庭に、赤い屋根の犬小屋があった。中ではゴールデンレトリバーがじ

っと正志を見ているが、行動を起こそうとはせずにじっとしている。おそらく「こいつだ

れ?」と脳内で思考しているに違いない。正志があっさりと家の前を通り過ぎたのを見て、

犬は何事も無かったように浮かせた顔を地につけた。

 次の家の前を通ると、小さな庭に犬小屋はない。外に面した一階の広間の窓はカーテン

に覆われていて中は見えない。もし座敷犬だったならば犬小屋はいらないだろう。

「座敷犬……座敷犬〜♪」

 不自然にならぬよう鼻歌に犬を交えつつ、正志は二つ目の伊藤家を過ぎた。特に目新し

い発見は無かった。

 一軒目の伊藤家には犬がいること。

 二軒目の伊藤家には犬小屋が無いこと。

 確実に犬がいるのは一軒目だが、二軒目も犬がいないことの証明ではない。

 これで二往復。時間は八時二十分をさしている。そろそろ不審者扱いされても仕方が無

いだろう。郵便受けは、二軒目の家は周りを囲んでいる壁についているからそこに投函す

ればいい。犬がいる家には玄関まで行って投函するしかなかった。

(あとは、もうちょい記憶を探るしかない)

 正志は再び脳みそを絞った。絞りすぎてちぎれそうになるほど絞った。脳に刻まれた皺

から光を放ちそうなほど正志は集中し、以前のふられた記憶を掘り起こす。

 掘って掘って掘り起こす。

 えっちらおっちら掘り起こす。

 そして、記憶をえぐっていたスコップが硬い物を捕らえた。

(そうか! 『あいつ』の家にいた座敷犬に吠えられたんだ)

 掘り出したのは以前好きだった伊藤の苗字を持つ女の子に手紙を出しに行った時……ち

ょうど、今の状況と酷似している記憶だった。そして記憶の中の自分は、女の子と鉢合わ

せしてしまった際に傍にいたポメラニアンに吠えられた。あまりに怒りをたたえて吠える

ものだから、正志は怖くて逃げ帰ってしまった。

 それが、以前の恋が終わった原因だった。

 正志は曖昧だった記憶が戻ってきたことをガッツポーズで示し、その落胆を頭を垂れる

ことで示した。正反対の感情で作られるオブジェ。気を取り直して正志は姿勢を正した。 

「これで肢は一つのみ」

 自分を勇気付けるように呟き、最後の歩みを開始する正志。

 目指すは犬小屋が庭にある家。甦った記憶から、また犬に吠えられて泣きながら帰るの

かもしれないと思うと進めている足が震える。

 しかし、彼の思いは砕けなかった。もう一度手紙を見る。

 手紙の表に書かれた『伊藤美咲』

 この文字は自分の彼女に対する思いを全て込めている。メールが全盛のこの時代に、自

らの手で、一文字一文字魂を込めて書いたつもりなのだ。ここで諦めてしまうほど、安い

決意ではなかった。

「俺は、負けない」

 必要なのは少しだけの勇気。

 成功や失敗なんかじゃない。大事なのは、想いを伝えること。

 あなたを好きですという、熱い想いを届けることなのだ。

 目的の家、壁の内側へとゆっくりと歩む。犬が顔を上げ、異様な闘気を発している正志

を見て戦闘体勢を作った。妙な真似をすればいつでも吠えられるぞと、彼あるいは彼女は

身体で語っている。

(大丈夫だ。お前のご主人に害は加えない)

 今、自分は魂で語れる。だから犬にも言葉が届く。

 そんな曖昧な思いに支配されながら正志はとうとう玄関の前に立った。手に持った手紙

をゆっくりと自分の顔の高さに上げる。最後に自分の想いを更に込め、いよいよ郵便を入

れる口へと近づけた、その時――

「…………え」

 目に入ったのは表札だった。

 外の壁には『伊藤』という名だけだったが、玄関先には家族全員の名前が入った表札が

付けられている。

 伊藤三郎

 伊藤花実

 伊藤大介

 伊藤美凪

 伊藤はるか

 最後にマジックペンで『轟天丸』

 正志はきびすを返してその場から去った。轟天丸が走り去る背中を射抜くように吠える。

やましいことがあったから逃げ出したのだと判断したのだろうか、と正志は心の片隅で思

ったが、もうどうでもいいことだった。

 走りながら正志は彼女の条件を並べる。

 一・犬を飼っている。

 二・中一の妹がいる。

 三・大学生の兄がいる。

 表札の並びから見て……犬を飼っていた。

 中一、とは分からないが妹がいた。

 大学生、とは分からないが兄もいた。

 そして、伊藤美凪がいた。

(うわぁああああ!)

 伊藤美咲と伊藤美凪。

 情報や名前さえもファンから聞いた結果、曖昧になった名前。

 名前の漢字も輪郭をぼんやりとしか思い出せず、結局最後はフィーリングで付けた。そ

の結果の『伊藤美咲』

 一文字の差は、あまりに大きい差なのだった。

(俺の馬鹿野郎っ!)

 心の叫びは体内に残ったまま、実に一週間の間、出口無く正志の中をぐるぐると回り続

けたのだった。





* * * * *
 袴田正志の戦。  ほとんどの事実が曖昧で、確証の少ない恋の戦。  一つだけ確実なこと。  正志は、最初からこの戦には敗北していたのだ。


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