『油公』



「おい、アブラハム。花壇にちゃんと水やっておけよな」
「うん」
 公二は俯きながら、よどみなく答えた。少しでも言い辛そうにするなら人間的なのに、まるで機械のように無表情な声を出して僕たちに背を向ける。命令を下した鞠男(まりお)は、そんな公二を凄く汚い物を見てるような目で見てから歩き出した。後ろをついていく、同じ班の僕等。
「それにしてもなんで花なんか育てるんだろうなー。あんなん、踏んだら枯れるじゃんよ」
「そうだよねー」
「うざいよね」
 正平も幹夫も、鞠男に逆らったら公二みたいにいじめられるって分かってるから逆らわない。言われたことには「そうだね」としか言わないし、僕が同じ班になってしまってから二人が「違うよ」と言った記憶はない。
「クッパはどうよ?」
 話は振られたくなかったけれど、振られないわけがなかった。鞠男は僕の名前が『邦彦』だからってクッパと名前を呼ぶようなやつだ。自分の名前がゲームの主人公だからか、敵役の大魔王のあだ名を誰かにつけたがっていた。そのいけにえが僕なわけで。
 最初が『く』ってだけなのに。繋げられる神経が信じられない。
「なあ、どうよ? 花なんて育てるよりも食いもん育てたほうが良いよな」
「んー、どっちでもいいかなー。花は確かに興味ないね」
 真面目に相手をするのも疲れるから、僕は当り障りなく答えておく。鞠男はとにかく否定されなければ文句は言ってこないから、曖昧な答えには何もこない。そして決まってその後には公二の話題になる。
「それにしても公二の野郎、また太ったんじゃないか?」
「そ、そうだね! あれじゃあ豚だよ豚」
「今度はブーブー太郎とでも呼ぶかい?」
 他の二人もけなしやすい公二の話題になると目を輝かせる。人を馬鹿にして笑えるなんてどんな神経してるんだろう?
「ちげーよ! あいつはアブラハムでいいんだよ!」
 自分が命名したあだ名を否定されそうになって、鞠男は殴ると同時に声を出した。すぐ手を出すところも子供だ。
「アブラハム。いい感じだろう?」
「そそそ、そうだね!」
「いい感じだね!」
 調子に乗った二人が謝り、鞠男が鼻を鳴らして優越感を見せる。僕はそんな奴等を一歩引いて見ながら悟られないようにため息をついた。
 そんな奴等と歩いている自分が汚れていく気がして、吐き気がする。
「あ、忘れ物したみたい。戻るから先帰ってて」
 僕は何度か使ってる手で、三人から離れた。鞠男が何か言いたそうだったけれど、走っていく僕の背中に「また明日な」という言葉以外は聞こえなかった。
 ……本当、なんであんなのがいるんだろう?
 もう小学校五年生なのに、どうして一年生みたいな幼稚な行動しか取れないんだろう?
 人の悪口で生きていくような男が、それでクラスの中心になろうとする。あんなやつこそ、いじめられて学校に来なくなれば良いのに。
 考えつつ走っていたら、学校にはすぐ着いた。忘れ物はもちろん嘘だから、僕はそのまま花壇へと向かう。グラウンドを抜けて花壇があるところまで走る。少し前で止まって息を整えながら歩いていって、覗き込める場所に身体を寄せてまた休む。
(一……二の……三)
 心の中で呟いて、心臓を落ちつかせる。
 それからそっと覗いてみると、公二は花壇に水をやり終えた後だった。もう少しでもっと赤くなる太陽の光が、花の表面に落ちた水滴を光らせている。それはとても綺麗だった。公二も満足しているのか肉が多い頬を緩ませていた。
 じょうろを置いて、額を空いているほうの手で拭う。水を撒くって動作だけだったはずなのに息が上がって汗が溢れていた。
 公二は小五にしては肥満気味で、少し動いただけでも汗が出ていた。
 そんな公二に鞠男は目をつけて、アブラハム――油公とあだ名をつけた。世界史にそんな名前の人が出てきたらしいけれど、僕らは習ってない。鞠男によればネットで調べたと言うことだ。
 先生に知られないまま、そのあだ名はクラスに広がり、鞠男とつるむ正平達以外も公二を見るたび使っては笑ってる。
 でも僕は、人をそうやって馬鹿にするのは許せなかった。汚いと思った。
 人を見下すなんて人間として最低のことだってお父さんも言ってたし。
 だから僕は、アブラハムと自分から呼んだ事はない。鞠男達にあわせて一回だけ言ったこともあったけれど。
 ……それにしても。改めて見ても、公二は太い。あんな体型だからアブラハムなんて言われるんだよな。きっとご飯の食べ方が間違ってるんだ。かわいそうだなぁ。
 そんなことを思いつつ、僕は公二の背中に声をかけた。
「おい、公二〜」
 じょうろを片付けようとした公二は、僕の声で動きを止めた。おそるおそる僕のほうを見る。
(――?)
 何かが違う気がして、僕は足を止めた。でも何が違ったのか分からないし、すぐに公二も「高山君」と笑いかけてきたからその『違い』は結局分からないままだった。
「どうしたの? 帰ったんじゃなかったの?」
「うん。忘れ物してさ、取ってきた帰り。それに先生に言う時にもう一人いたほうがいいだろ?」
 花壇に水をやってから、帰り際に先生に報告するのはいつものことだった。鞠男達は公二と同じ班になってからはずっとサボっている。今回のように帰るのは少ないけれど、大体は公二ひとりだけにやらせて僕を含めた四人でじゃんけんとかで遊んでる。
「ありがとう。嬉しいよ」
 公二は肉に潰されて細くなった目を更に細めて、笑った。この顔が僕は二番目に好きだった。心から感謝されてるような気がして。いや、お人よしの公二のことだからきっと心から感謝してるんだろう。そう考えるとたまらなく嬉しくなる。
 僕等は先生に報告するために校舎の方へと歩き出した。
「まあ、当然のことだろ? 押し付けるなんてだめだよ、やっぱり」
「そうだよね……」
 そうだよね、の後に公二が何か呟いた気がしたけれど、聞き取れなかった。何となく気になって聞こうとした時、僕等が歩いていく方向から先生がスカートを気にしながら駆け足でやってきた。
「あ、花壇の水遣りご苦労様」
 まだ新任の瑞希先生は僕等二人に微笑んだ。眼鏡の奥にある丸い瞳が歩染まって、僕が一番好きな笑みが現れる。公二なんかにも見せるんじゃなくて、僕だけに見せて欲しいけれど仕方がない。
「じょうろを戻したら気をつけて帰ってね?」
『はーい』
 同時に出る返事。先生は満足げに頬を緩ませて、また走り去っていった。どうしてあんなに急いでいるのかを気にするよりも、僕は公二が僕の声の邪魔をしたように思えて腹が立った。
「戻しに行こう」
「――ああ」
 急に不機嫌になった僕に公二は驚いたようだけれど、何も言わずに歩き出した。
 普通に歩くのも辛そうに、公二は「ふっふっふ」と息を小刻みに吐きながら歩く。そんな声と後姿を見ていると、さらに腹が立ってくる。
 瑞希先生に声をかけるのも邪魔した公二に。
 そして、アブラハムと言われてるままになってる公二に。
 鞠男も僕も公二もただの小学五年生なのに、どうして鞠男は公二をあそこまでけなすんだろう。指があんなに太ってる割に器用な指先で家庭科で作ったエプロンは男子の中じゃ一番上手かったとか、勉強で学年一番をずっと取ってるとか、そんなところへの嫉妬もあるんだろうな。
 でも一番の原因は、二つ返事で言われた通りにしてる公二なんだと思う。
 そこまで考えて、ふと思いついた。
 もしかしたら全部解決するかもしれない。
「なあ、公二」
「なんだい?」
 歩きながら、公二の背中を見たまま話し掛ける。公二も僕の顔を見ないで――歩いたままで返してくる。もし面と向かって言っていたら、なんか恥ずかしくて言えなかったかもしれないから好都合だった。
「何でお前さ、鞠男に言われた通りにしてるの? アブラハムなんてめっちゃ変なあだ名だし、こんなことされてるのもいじめだろ? なんで先生に言わないの?」
 正直、鞠男のことも公二のこともどうでも良かった。でも鞠男がアブラハムアブラハムうるさいのは嫌だったし、ここで先生に公二がいじめのことを言って先生が解決して、僕が背中を押してあげたと知ったなら、きっと先生はもっと僕の事を見てくれると思った。
 いじめも解決するし、嫌な鞠男も大人しくなるだろうし、先生に褒められるしいい事尽くしだ。
「明日にでも先生に言いなよ、今日のこと」
 僕の頭の中は嬉しさに埋まっていたから、次の公二からの言葉を最初、理解できなかった。
「あんなヘボ教師に何が出来るんだ? 自分の生徒がアブラハムとか言われてることにも気づけない、クズ教師に。あと、鞠男みたいなゴミにいちいち腹立てるのもめんどい」
「――へ?」
 あまりにも、間の抜けた声だったと思う。一瞬で途切れた会話。僕の耳に聞こえてくるのは僕等が歩く靴音だけ。そのまま何も言えなくて、じょうろを置く場所までついた。公二はじょうろを元の場所に戻して僕のほうを向く。
「俺をいじめてもあいつがアホなことは事実さ。あいつ、このまえのテストが学年で最下位だったって威張ってたけど、その時は笑いを堪えるの大変だったね。自分の恥部をそこまでさらけ出すようなボケと同じ空気吸いたくなかったよ。あのね、高山君。人間は頭がよければ最終的には勝つんだよ。人をいじめることで満たされてるような最低人間と、僕を同じように見ないでくれよ」
「あほ? ……最低、人間……」
「高山君もばかだなぁ。まだ理解できないの?」
 混乱していた頭に公二の冷たい言葉がかけられた。そして、本当に水をかけられていた。
 公二がさっき置いたはずのじょうろを持って、僕の頭の上から残っていた水をかけていた。
 前髪を伝って雫が落ちてくる。その向こうから、公二が言葉を続ける。
「頭冷やしてよく聞けよ。まあ、冷やしてもお前の頭じゃ半分ほどしか入らないだろうけどな。あのな、僕は高校になったらここから離れた頭がいい高校に行くんだ。そして東大に入って科学者になって、新しい機械を発明して日本の役に立つんだ。お前等がせこせこと何ヶ月もかかって稼ぐお金を僕はぽん、と一瞬でもらえるんだよ。この頭で。だからそれまでにちゃんと勉強しておかなくちゃならない。そして、そのためにはアホに構ってる暇はない。あんな、へこへこしてれば自分が上なんだと勝手に騙されてるヘタレのことなんてアウトオブ眼中だよ」
「アウト……オブ?」
 それからずっと、公二は僕に対して鞠男の事やクラスの他の人のことを言い続けた。赤井は口が臭いとか伊藤は顔が気持ち悪いのに男に愛想を振り撒くとか上田は鼻くそをほじって食べているとか。一人一人、どこが駄目だというのを三十人分。休みなしに続く言葉は僕の頭を熱くさせていった。
 そして最後に、公二は僕のことを言った。
「最後に高山君。偽善者ぶるの、かっこ悪いよ。君だけアブラハムって僕のこと言ってないようだけど、今日で確信したよ。君は他の人と違うことをしてるってことに酔ってるだけなんだ。僕のためじゃなくて自分のために、いいかっこをするために僕を利用してただけなんだ」
 脳が入ってくる言葉に耐え切れなくなって沸騰したみたいだった。そんなわけで、ふらふらになっていた僕には咄嗟に反応できなかった。
 気づけばお腹に公二の拳が入っていて、痛さにうずくまってしまう。
「かっ……ううう……」
 更に頭の後ろを靴の裏で押さえつけられて、身動きできなくなる。見えないところで公二が「ふん」と鼻で笑った。
「お前みたいな奴が一番最低なんだよ。鞠男よりもな」
 その言葉を最後に、公二は僕から離れていった。でも僕は寒くて、でも身体の中は熱くて、よく分からないままに震えていた。
 額に滲む汗は、いつもよりもネバネバしている気がする。
「一番、最低……」
 少し落ち着いてきて、最後に言われた言葉が甦る。
『お前見たいな奴が一番最低なんだよ』
 ――違う。
『僕は、アブラハムと心の底から呼んだ事はない。鞠男達にあわせて一回だけ言ったこともあったけれど』
 優越感――違う。
『あんな体型だからアブラハムなんて言われるんだ。きっとご飯の食べ方が間違ってるんだ。かわいそうだなぁ』
 哀れみ――違う!
『正直、鞠男のことも公二のこともどうでも良かった。でも鞠男がアブラハムアブラハムうるさいのは嫌だったし、ここで先生に公二がいじめのことを言って先生が解決して、僕が背中を押してあげたと知ったなら、きっと先生はもっと僕の事を見てくれると思った』
 自分のために、公二を利用――ちが……わない……。
「僕が、最低なんだ」
 辛くて、怖くて涙が溢れた。
 これから先、僕は公二に心の中で馬鹿にされ続ける。あいつを見るたびに、今日のことを思い出してしまう。皆にアブラハムと言われてののしられている弱い存在であったはずの公二に。
 どんなにクラスの中で扱いが低いとしても、公二からすればそれはほんの些細なことで。
 あいつを馬鹿にしてると思ってた奴等が、思い切り馬鹿にされていたんだ。
 それが嫌だからっていじめたなら、僕は最低のまま。
 関わっても最低。関わらなくても……最低。
 何も、出来ない。
 
「ううあ……うあああああ……」
 辛くて、怖くて、悲しくて、涙が止まらなかった。体が動かなかった。



 次の日から、僕は学校を休んだ。
 長い長い休みの始まりだった。




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