ベンチには雪が積もっていた。 俺はゆっくりとそこに近づいて、雪を払う。 人一人が座れるスペースを作ると俺はそこに腰を落ち着けた。 濡れている文字盤を拭うと、夜の十時を指している。 雪はすでに降るのを止めているために、逆に気温は下がっていた。 誰もいない公園。 誰も座った形跡のないベンチ。 この場所に立つ自分が部外者のような気がして、自然と笑みが零れる。 公園にいくつか立っている照明灯の中、一つの灯りに軽い眩しさを感じながら、俺は眼を閉じた。 暗闇に生まれる残像。 さっきまで見ていた灯りだ。 そこに新しい顔が浮かび上がる。 亜麻色の髪を後ろで結んだ少女。 元気が良くて、行動的で。 女性としての綺麗さよりも、内面の綺麗さが際立っていた少女。 もう一度会いたい。 淡い粉雪のように俺の前から消えてしまった少女。 数日前に消えてしまった少女の名を、俺は眼を閉じながら呟いていた。 「望……」 「呼んだ?」 俺は目を開けた。まず映ったのは靴。 俺が買ってあげた靴だ。そして紺の靴下。 視線を上げていくと茶色のコートが入ってきて、そのまま一気に視線を上げる。 頂点には、目蓋の裏に映っていた顔があった。 猫のような瞳を輝かせて、彼女は俺を見ている。この場にいることが至極当然だというように。 「一人で、夜のベンチに座って何をしてるの?」 「待ってたんだよ」 「ん? 誰を?」 わざとやっているのかと思ったが、少女――望(のぞむ)は本気で聞いているようだった。 俺は顔が熱くなるのを感じながら言った。 「望を待っていたんだ」 「私を?」 望は心底驚いているようだった。俺は怒りがふつふつと心の内から浮かび上がってきて――すぐに消えた。 いいじゃないか。彼女を見つけることが出来たんだから。 ついさっきまでの落胆が嘘のように俺の心は晴れていく。 「私はね、ここに来たかったんだ」 望は空を見上げて呟いた。 俺もつられて見上げると、粉雪が降り始めている。 「最後に、この場所に来たかったんだ」 その言葉は俺の心に突き刺さってきた。 望は俺へと視線を向け、数日前と同じように悲しげな表情を浮かべた。 「お別れ、だよ」 それは終わりの合図。 この冬の、かけがえのない体験の終わりの。 彼女との出会い、一月前。 そこから、俺達の物語の幕が明けた―― 俺は走っていた。 昨日の初雪が嬉しくて遅くまで眺めていたから、寝坊してしまった。 朝食を抜いた腹は精一杯空腹を訴えてくるがそれを聞き入るわけには行かない。 眩暈を強引に押さえ込んで走り続ける。 「あー、皆勤賞がなくなる!」 何とか小学生から続けてきた記録。 大好きな雪を眺めていたせいで途切れさせるわけには行かない! と、視界に公園が映った。確か向こう側の道まで突き抜けているはずだ。 「近道!」 俺は方向を転じて公園の中に入った。 流石に昨日ちらほらと降っただけの雪は積もってはいない。 雪が積もるまでにはもう少しかかるだろう。 (……?) 何となく、俺は公園の中心まで来て足を止めてしまった。 最初に視界に入ったのはベンチ。 昨日の雪が融けたのか、上が少し濡れている。 時計を見ると少しだけ時間があった。 俺は吸い寄せられるようにベンチに近づいた。 (なんだろう?) 何故か、やけにそのベンチが気になった。 特に何か特徴があるベンチではない。強いて言えば、ベンチらしいベンチだった。 公園のベンチという物がどういう条件でそう呼ばれるのか知らないが、頑丈そうだが数箇所ほど壊れていて、塗装が少し剥がれ落ち、錆びた場所もあるこのベンチは間違いなく公園のベンチだ。 立派に公園のベンチを何年間も続けてきた証拠だろう。 子供の頃にここで遊んだ記憶は――無かった。 (ない――はずだよな?) あまり自信はなかったがそのはずだ。 たとえ遊んだ事があったとしてもかなり幼い時に違いない。 小学校の頃は学校の校庭でしか遊んでいないし、中学以降はそんな事はしてない。 そこまで考えて、ふと時計を見た。 「――やべっ!?」 時刻はすでに危険な時間を指していた。 俺は再び走り、公園の出口に着くともう一度そのベンチを見る。 一瞬、誰かが座っているようにも見えたが、錯覚だったのか誰も見えない。 不思議に思いながらも俺は雪で滑りやすくなった道路を走っていった。 「ぎりぎりセーフだったなぁ。高階(たかしな)」 「……まあ、な」 話し掛けてきた干場に俺が何とか発したのはそれだけだった。同時に息が切れて机に突っ伏す。 さっきまで残り数秒のデットヒートを担任と繰り広げたのだ。 タッチの差で俺は教室に辿り着き、皆勤賞への道を繋いだのだった。 「でも、お前も懲りない奴だなぁ。小・中と皆勤賞もらって、高校でも貰う気かよ」 「何言ってんだよ干場。これが達成されれば快挙だぞ。新聞載るぞ」 「載るかよ」 「高階望(たかしなのぞむ)〜」 「はい!」 担任が名前を呼んで生徒達を確認していく。ここで答えなければ間に合っていても遅刻だ。 この先生はかなり辛い。 「最大の障壁、あの加賀先生の一年間を乗り切れば、俺の未来は明るい。あと約三ヶ月の辛抱だ」 「そうかそうか……お前は皆勤賞を狙うならば発作に苦しんで倒れている老人をも見捨てるのな」 「その通り」 「おいおい……」 「干場昭彦(ほしばあきひこ)ー」 「はーい」 その後数名の名前を呼んで加賀は生徒名簿を閉じた。 いつもながら早すぎる出欠だ。 「えー。昨日初雪が降りましたね。もうそろそろ本格的に雪が降りますから、皆さんも道には十分注意してください」 『はーい』 気のない返事が四十人分。 加賀も特に言わなくても分かっているのだろうと、気にせず連絡事項だけを伝えてくる。 あと一月もすれば冬休み。 期末テストも二期制になった現在では二月終わりだ。すでに生徒は冬休みをどう過ごそうかと考えている頃だろう。 加賀が去り、次の授業の準備をしているとまた干場が話し掛けてくる。 「お前、今度の冬休みはどうするんだ?」 「んーあ? 特に何も決めてないけど」 次の授業は『眠りの高田』の古典だ。 早速眠る準備をしているのにどうして邪魔をしてくる……。 「今年こそは彼女いない歴をおさらばしてバラ色のクリスマスを過ごしたいぜ」 「がんばれがんばれ」 わざわざ拳を作って気合を入れている干場を気にせずに俺は机に突っ伏した。 しかしすぐに頭を叩かれて安眠を邪魔される。 「何だよ。寝坊の上に走ってきて疲れてるんだ。寝かせてくれ」 「お前! 余裕こきやがって……。お前は彼女がいた事があるからいない奴の気持ちが分からないんだ〜!」 「別に分からんわけじゃないが、興味ないし」 俺は再び机に突っ伏した。気配で干場が俺を叩こうとしているのが分かったが扉が開く音がして高田先生が入ってくる。 そのまま干場は前を向いた。 俺は俺で高田のハスキーボイスと共に眠気が訪れる。 いつもながら気の抜ける声だ。 この声のおかげで眠気を我慢している真面目な生徒が止めを刺されていく。 授業は分かりやすくて人気が高いんだが、このおかげでいつもテスト前は生徒が殺到するほどだ。 (彼女か……そんなのもいたよなぁ) 懐かしい顔を思い出しつつ、俺は眠りについた。 「……ふあぁああああ〜。ようやく終わったか」 「今日は疲れる一日だよ」 干場と俺は六時間目終了のチャイムが鳴ると同時に欠伸をして背を伸ばした。 一限目で充分な睡眠をとれたおかげで次からの授業は何とかなった。 だがやはり全体的な睡眠不足は否めない。六時間目終了の時点でかなり疲労が襲ってきた。 「もう帰りたいぜ」 「でもその前に掃除だろ?」 「二人ともサボらないでね」 俺達の会話に割り込む声。 途端に干場が顔を赤らめて声のしたほうを向く。 声の主は分かっていた。 「あ、赤嶺! 分かってるよ」 「顔を赤くしてまで怒る事ないでしょ」 赤嶺舞(あかみねまい)。学級委員長なんてめんどくさい役職を快く引き受けている女だ。 バレー部のエースだけあって全体的に無駄のない肉付き。そして顔は美人。 かなり人気が高くてファンクラブまであるくらいだ。本人には非公認だけど。 癖になっているんだろう、短い髪を掻き揚げる仕草をしてため息をついている。 干場は泡を食って否定しようとした。 「これは怒ってるんじゃなくてなぁ……」 「まあ、どうでもいいから、掃除お願いね」 そのまま赤嶺は去っていく。干場は目に見える落胆振りで机に突っ伏した。 「ああ……赤嶺……」 「そんなもんだよ」 俺の慰めに干場は顔を上げた。なんだか少し怒っているようにも見える。 「お前さ。流石に傷ついたぞ。もう少しいい慰めの言葉はないんかい」 「他人に慰められるのを期待するなよ」 「……それもそうだけどなぁ」 加賀が入ってきたので会話は打ち切りになった。干場はまだぶつぶつ言っている。 俺は少しだけ心が痛んだ。 いつか感じた心の痛み。でも、それを思い出すには時間が無さ過ぎた。 どこで感じたんだろうか? 同じ痛みを。 ホームルームが終わり掃除が始まって、いつの間にかその痛みを忘れてしまった。 学校から出ると雪が降り始めていた。 俺は自然と鼻歌を歌いながら歩き出す。学校前のバス停に並んでいる生徒達は口々にこの雪に対して愚痴を言っている。濡れるのを嫌がっているんだろう。 でも俺はそれを苦だとは思わなかった。完全な雪の吹雪の中で傘を差さずに歩いている生徒が、今時期の雪に対して文句を言う。 完全な雪だろうと氷に近い雪だろうと、同じ雪で濡れるのは同じだというのに。 俺は雪が好きだった。 雪を見るだけで何かとても嬉しい、楽しい事が起こる気がする。 どうしてかは自分でも分からなかった。たまに友達に訊かれるほどに、俺は異常なまでに雪が好きだった。 (どうして、か。今まで何度となく考えたけど……) 結局、答えは出なかった。 いつも何かが自分の思考を邪魔するのだ。 思い出してはいけないような、あるいは思い出さなければいけないような。 正反対の予感に俺は不快な気持ちになってしまう。 雪が少し強くなったのに気付いた時、俺は朝通った公園に来ていた。 そこに足を踏み入れる事にしたのはどうしてなのか分からない。 朝に感じた何かを求めて入ったのかもしれない。 あるいは単なる気まぐれなのかもしれない。 少し積もった雪に足跡をつけながら進んでいく。そして俺はあのベンチに座っている人影に気付いた。 (こんな時間に? 一人で?) 最初は学校帰りの女子高生かと思ったが、どうもそうではないらしい。 私服を着て、ぼーっと自分の靴の先の地面を見ている少女。この近辺に私服の高校はない。しかもコートは冬用だったが靴は夏用で外を出歩くには少々不便と言わざるを得ない。 着替えてきたとしてもここでぼーっとしている理由などないはずだ。 待ち合わせにしても何か不自然だし。 徐々に少女と俺の距離が近づいていく。何となく、俺は歩を遅くした。 理由なんてない。ただ、何となくだ。 (何となく、が多いな) この公園に入ったのも何となく。そして歩くのを遅くしたのも何となく。 まるで誰かに動かされているような気がする。 そんな馬鹿げた妄想が途切れて少女と最も接近した時、少女の顔がこちらを向いた。 綺麗な少女だと思った。 表面だけなら赤嶺のほうが綺麗だろうが、この娘は赤嶺よりも綺麗だと思った。 亜麻色の髪を後ろで束ねていて、微かに雪が積もっている。 目は猫の目のように少しつり上がっていて、こちらを見ている様子が捨てられた猫の印象を俺にもたらした。 しばらく無言で見つめ合った俺達。 口を開いたのは相手が先だった。 「お腹空いた」 「……え?」 少女は立ち上がって俺に向かって歩いてくる。俺は何故か動けなかった。まるで蛇に睨まれた蛙――いや、猫に睨まれた鼠、か。 その間に少女は眼の前に立った。俺は思わず息を飲む。しかし次の瞬間、少女は俺に寄りかかるようにして意識を失った。 「……なんなんだよ」 納得はいかないが、とりあえずこのままここに残しておくのは危険だろう。 しょうがないので俺は少女を背中に背負った。 微かに香る、少女の匂い。甘い、心が休まる匂い。 (何を考えているんだ? 何もしないぞ……) 自分にそう言い聞かせているのがなんとなく惨めに思えた。 |