ススム | モクジ

● SkyDrive! --- 第一話 ●

 その姿を見た時から、心は決まっていたのかもしれない。
 コートを駆け抜けてシャトルを追う姿はしなやかな豹を感じさせる。シャトルへ迫るスピードに打つ瞬間に打ち分ける多彩なラケットワーク。相手のデッドスポットへと打ち込む判断力。
 全てが高い次元で整っていた。あれだけ打てるのはどんなに楽しいだろうかと高羽隼人(たかばはやと)は思う。
 自分のプレイといえば、何も華も無く、相手を分析して打ち分けるくらいしか出来ない。それも全てが上回る相手には最後にスマッシュなど力で押し切られる。ショットに関する武器がない自分の限界が見えたところで、中学のバドミントンは終了したのだ。
 そんな自分の心の中で、燃え上がる炎。
 それは、試合が終わった後に彼女に浮かんだ笑顔によって更に大きく広がったのだ。


 * * * * *


 さかのぼること、三時間前。

(眠い)

 隼人は閉じそうになる瞳を必死で開こうとしていた。今日の最後の授業を乗り切ろうとしていた。高校に入学して一週間が経ち、生活サイクルも中学時代のものから更新されていく。その過程の途中での、眠気。更には、中学時代は制服を着ることも少なくもっぱら学校指定のジャージで過ごしていたことで制服を着慣れていないということもある。隼人は新品の黒い制服を見下ろした。上下共に黒のオーソドックスなもの。学生服と言われたら誰もが思い浮かべるような、悪く言えばセンスがなく。よく言えば高校生だと分かりやすい。
 三年間着れば、少しは着やすくなるのかと思いながら視線をクラスに戻す。次に見たのは女子のセーラー服。入学したての時期はまだ黒い上着もまだ黒い。これから夏になると白になるのだろう。オーソドックスなセーラー服。その、飾り気がない制服が余計に物足りなさを助長しているようだった。

(物足りないって思うのも、あと少しすれば気にならなくなるのかな)

 中学時代は、勉強の後でもう少しやることがあった。
 六時間授業なら、部活という七時間目。ラケットを振る感触はまだ残っている。何しろ春休みには運動不足に陥らないようにほぼ毎日市民体育館で友達と打っていたのだから。
 隼人の髪形も、運動の邪魔にならないようにスポーツ刈りで短くしていた。髪の毛が特に短い項部分をなんとなく掻く。

(なんだかなー。まさか高校に部活がないなんて)

 高校に男子バドミントン部が無い。その事実を知ったのは、入学後に入部届を書こうと担任に聞いた時だった。正確には、昨年のインターハイが終わるまではあったらしい。しかし、二年生も一年生も部員がいなかったためにインターハイ予選に出場した三年生が全て引退した後に休部となっていたのだ。再開には五人以上部員を集めなければいけないらしい。

(まあ、いいけど)

 何度そう思ったのか。
 思うたびに、バドミントンへの思いは薄れていく。
 中学時代の最後に、自分は何かを無くしたのかもと深刻に思う事もあったが、それさえも遠い過去のように思えた。
 今の自分にはバドミントンはそれほど大事なこともでない。だからこそ、休部になったと聞いてもあっさり引き下がれた。
 ならば他の部活はどうか、と運動系に目を向ける。
 隼人が入学した栄水第一高校は公立ながら運動系にも力を入れ始め、ここ数年は大学も東大合格者が数名いるだけではなく、運動系も全国大会に名前を見せ始めている。
 正に文武両道を地に行く高校だ。
 神奈川でも高いほうの偏差値であるため、人気が高い。隼人も風評と校風を盾に、出来るだけ近場を選ぶために栄水第一に入った。何か楽しめることがあれば完璧だっただろう。

(別に、バドミントンだけが楽しいって分けじゃないけど。なんだかな)

 運動系を諦めるならば、文科系かと思考を変える。

(将棋は好きだったけど、小学校以来やってないし。中途半端だな)

 親や友達を初め、隼人は将棋で負けたことは無い。
 相手の思考を読み取り、かつ相手もまた隼人の思考を読んで手をさして来る。互いの隙を探しつつ、見つけたところで一気に攻め込む。その時の快感は小学生ながら隼人を勝負事の世界へと引っ張り込んだ。バドミントンに本格的にのめり込んだことで自然と将棋を指すことはなくなったが、それもバドミントンに同じ快感を見いだせたからだ。
 バドミントンも将棋と同じく、相手の隙を探してつけ込むというところがある。そこに惹かれたのだ。やはり文科系もいまいちだと結論付ける。

(結局、バドミントンが好きなんじゃないか。でも無いものは仕方が無い。焦らず数ヶ月くらい帰宅部でいるか)

 もしバドミントンをやるとしたなら、バドミントン部を作るしかない。
 自分にはそこまでの熱意は無いことだけは真実。
 まだ長い高校生活。その始まり。
 焦らず行けばいいと結論付けたところで、終業のチャイムが鳴った。

「起立。礼。着席」

 日直になった女子が綺麗な声で言った。授業が終わり、これから放課後ということで自然とざわつく教室の中。そこに、隼人は一人ぽつんと残された。
 運悪く仲良かった友達と別クラスになり、隼人は現在クラスに気軽に話せる友達はいないのだった。

(前言撤回。よし……卓球にしよう)

 身の置き場のなさを何とかしようと、やはり部活に入ったほうがよさそうだと隼人は考えなおす。
 思いついたのは、中学時代もよく同じサイクルで体育館を使っていた卓球部だった。他の学校の人に聞いても、やはりバドミントン部と卓球部は一セットらしい。だからこそ、隼人の脳裏にすんなりと浮かんだのかもしれなかった。

(今日、ちょうど卓球と女子バド部だっけ。見てみるかな)

 担任の教師が教室に入ってきたところで、隼人は考えることを止めた。帰りのホームルームが終われば、掃除をやり、その後に部活見学だった。

(まずは目の前に集中するか)

 一つ一つ障害をクリアしていくのは、やはり楽しいと隼人は思った。
 帰宅部よりも何かをやるほうが、自分には向いている。
 バドミントン部がないならば、他の部に入るべきなんだろう。たとえレベルが高く、試合に出られないようなことになっても、そんな逆境からレギュラーを目指すと言うのは面白いかもしれない。高校三年間を費やすに十分なものが得られるかもしれない。
 ホームルームが終わり、掃除を終わらせるまでに思いついた卓球部へと入る意志を固める。最後の机を片付けたところで鞄を手に取り、足は体育館へと向かっていた。
 ちょうど廊下の曲がり角に来たところで、隼人は軽い衝撃を受けた。

「きゃ!」

 隼人は一歩だけ後ろに下がる。逆に相手はバランスを崩して倒れてしまった。痛みを堪えながら立とうとする相手に隼人は自然と手を貸していた。

「ごめん。急いでたんで」
「ううん。こっちこそごめんねって、高羽君」
「あ、えーと……井上だっけ」

 まだ一週間しか経っていないために、自分のクラスの生徒は同じ学校出身の友達しか分からない。その中でも数少ない例外が、目の前で不服そうに立っている井上亜里菜(ありな)だった。
 上半身は学校指定の紺色ジャージ。下半身は同様に紺色のハーフパンツ。
 セミロングの髪を今は後ろで一つに束ね、動きの邪魔にならないようにしていた。普段は眼鏡をしていたはずだが、今は外していた。

(コンタクトか……なんか印象変わるんだな)

 クラスで見るのと少し異なる印象に黙っていると、井上は不服な気配を更に強めた。自分の名前をすぐに言えなかったことに対して膨れているのかと気づき、隼人はもう一つ謝罪した。

「マジごめん。てか、それ、大丈夫だった?」
「あ、ラケットのこと? とりあえず大丈夫みたい」

 倒れた拍子に背中の下敷きになったように見えた、ラケットバック。
 それは中学校の頃に見慣れたバドミントンラケットを入れるバッグだ。井上がバドミントン部だと初めて知った驚きは心の内にしまいこみ、隼人は先を急ごうとする。

「どこいくの?」
「あ、卓球部を見学しに行こうと思って」
「えー。高羽君。バドミントン部入らないの? って、男子いないか」
「なんで俺がバドミントンだって?」
「中学の時、県でベスト8に入るくらいだもん。名前くらいは知ってるよ。実物をちゃんと見たのは同じ保健委員になってからだけど」

 数少ない例外になった理由。
 初日に勝手に決められた役職で隼人が一緒になったのが井上だった。多少話して見知ったと隼人は思っているが、それでも分からないことはある。覚え方が甘かったために、隼人は眼鏡とコンタクトの違いだけで一瞬、誰だか分からなかったのだ。
 井上がバドミントン部に入ったことも。

「井上もバド部だったんだ」
「私はあまり強くなかったけどね。あ、じゃあ行くね」
「おう。頑張れ」

 井上は笑顔で手を振り、去っていった。
 そして自分もその後をついていく形になるのだと気づく。

(まあいいか。とりあえず行こう)

 隼人はため息をつきつつ、歩き出した。
 井上の背中を視界に納めつつ、隼人は体育館へと向かう。急いでいるようだが、その足取りはどこか余裕がある。ラケットバッグが邪魔になっているのだろうが、実際は、まだまだ新一年生で入りたての部員がコートを使えるような状況ではないのだろう。急いでいる風を見せていれば、遅れてもさほど咎められない。

(そうだとは思うけれど)

 角を曲がった背中を見てからしばらくして、自分もその角を曲がる。
 そこにはもう、井上の背中は見えなかった。あるのは、体育館に入るための扉があるだけ。

(ここか)

 鉄製の引き戸。かすかに体育館の中を動き回るシューズが、床を噛む音が聞こえる。バドミントン部か卓球部か、どちらかが体育館の半分でも使ってフットワークでもしているのだろう。ダッシュからの踏み込みで動きを止め、すぐ後ろに下がる。バドミントンは体力と技術が必要だが、動きの急制動というのは特に必要なものの一つ。すぐさま逆方向に動くなどはよくあることだ。

(って、なんでバドのこと考えてるんだろう)

 元々、卓球部を見学に来たというのに。結局はバドミントンを考えている。今までやってきたことだから、そう思っても仕方が無い。
 自分に言い聞かせて一つ、深呼吸をする。中から大勢が動く音が途切れたところを見計らって、隼人はゆっくりと扉を開いた。
 見ると顧問の教師らしき女性が部員を自分のところに集めて話をしていた。男子は一人もいない。

(やっぱり、女子だけなんだ)

 一瞬だけ目線をやったが、すぐに今度は卓球部を探す。すぐそば、体育館のステージ上に顧問の教師が立っており、打ち合っていたり準備運動をしている部員たちを眺めていた。
 隼人は部員たちの集中を崩さないようにゆっくりと歩いていき、教師の傍に寄る。

「あの、すみません。練習見学したいんですけど」
「お、一年か。いいよ、見ていってくれ。俺は何も出来ないけど」
「はぁ……はい」

 どうやら専門外の顧問らしい。もう一度部員たちを見ると、部長らしき男が男子にも女子にも何か声をかけていた。

(へぇ。なんか凄い)

 既に入っている一年や他部員たちをてきぱきと配置していき、練習を開始させる。卓球は専門外だが、何を指示しているのかは分かる。効率的に練習を進めるような組み立てをしているようだ。

(卓球部なら、何かと面白そう)

 心の天秤の片方の皿に卓球部という選択肢が乗る。その重みに天秤が倒れそうになった時、動きが止まった。
 隼人の視線の先。
 卓球部の打ち合いの先に見えた、一人の女子の立ち姿に、隼人は背筋から悪寒が昇っていった。
 別に、その人物は何かをしていたわけじゃない。
 ただその場に立ち、相手とじゃんけんをして試合を始めようとしていただけだ。勝ってシャトルを受け取り、サーブの姿勢をとる。
 それだけでもまるで完成された絵のように綺麗な立ち姿。力を十分シャトルへと伝えられるようなフォーム。その姿に隼人はただ、呟いた。

「綺麗だな……」

 サーブで打ち上げられたシャトル。相手の女子が早速スマッシュを打ち込むが、その人物は一歩で追いつき、バックハンドでクロスに返していた。シャトルがキラキラと光の雫を落としていくような気がして隼人は目をこする。無論、そんなことはない。シャトルは誰が打とうとも同じシャトル。そんな光ることなどは無い。
 そう錯覚するほどに、整ったフォーム。全てのシャトルを余裕を持って返し、相手を追い詰めていく。

(凄い。的確に四隅を狙って、相手のフットワークの隙を作り出してるんだ)

 やがて相手が「あっ!」と短い悲鳴をあげた。シャトルも一緒にネット前へふらふらと上がる。そこを逃さずにスマッシュを叩きつけていた。
 その後も、次々と得点を重ねていく。相手の女子には悪いが、何も相手にはなっていない。あれだけ打てる人が高校にはいるのだ。
 コートを駆け抜けてシャトルを追う姿はしなやかな豹を感じさせる。シャトルへ迫るスピードに打つ瞬間に打ち分ける多彩なラケットワーク。相手のデッドスポットへと打ち込む判断力。
 全てが高い次元で整っていた。あれだけ打てるのはどんなに楽しいだろうかと隼人は思う。
 自分のプレイといえば、何も華も無く、相手を分析して打ち分けるくらいしか出来なかった。
 それも全てが上回る相手には最後にスマッシュなど力で押し切られる。ショットに関する武器がない自分の限界が見えたところで、中学のバドミントンは終了したのだ。
 そんな隼人の心の中で、燃え上がる炎。
 それは、試合が終わった後に彼女に浮かんだ笑顔によって更に大きく広がったのだ。

(帰ろう)

 もう卓球部の見学など出来る状態ではなかった。過去の自分のバドミントンを思い出し、熱を帯びさせるには十分なプレイ。一息つかなければ勢いに支配されてしまいそうだった。
 顧問の教師に帰ることを告げて、そそくさと立ち去る。体育館と廊下を隔てる扉を閉めてようやく落ち着いた。

「……頭冷やそう」

 勢いではろくなことにはならない。高校で他の事をやるという気持ちはまだ変わっていないが、それでも少し時間が欲しかった。
 ちゃんと、自分の意志で道を決めるために。

「おい!」

 帰ろうと足を踏み出して数歩。振り向くと、隼人よりも十センチは背が高い男子生徒が立っていた。唖然としている隼人に向かい、男子生徒は言った。

「一緒にバドミントン、やらないか!?」

 それが隼人と、井波真比呂(いなみまひろ)との出会いだった。
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