Little Wing

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第一話「中学最初の一年の終わりの日」

『母親の言いなりなの?』

 その言葉を聞いた時、少女はそれほどショックを受けていなかった。
 受けていなかったと言うよりも、激戦を繰り広げた試合の直後で疲れていて、話半分でしか聞けていなかったというのが本当のこと。
 試合に臨み、ファイナルゲームまでもつれ込む展開になって、最後の最後まで精神力の削りあいを演じた。北海道という広い大地の中で、自分よりも強い者はこれまでいなかった。しかし、初めて肉迫してきた相手との試合は、鍛えているはずの体力をほとんど削り取られていた。
 そのために、話しかけられた言葉に対しては反応するだけが精一杯。
 口を開こうとして急に周りが光りに包まれる。
 そこまできてようやく、少女はこれが夢だと分かった。

 * * *

 デジタル時計の電子音がピピピ……と一定の音を立てていた。
 ベッドの主は布団にくるまっていた体を起こし、両腕を高く掲げて背筋を伸ばす。十秒ほど体を伸ばしたまま唸って、一気に脱力する。座った状態のまま前に体を投げ出して十秒ほど動かずにいたが、やがて再び体を起こして目覚ましを止めた。
 時刻は朝の六時。少女の年齢――十三歳ということを考えると少し早い。
 目覚ましを止めてからまた十秒ほど動きを止める。自分が何かの夢を見ていたことは分かったが、内容までは思い出せなかった。いい夢なのか悪い夢なのかさえも、体やあたまに残った感覚からは読みとれない。いくら考えても思い出せないことに一度区切りを付けて、少女は動き出す。

「ふわ……」

 あくびで大きくなる口を右手で押さえつつ立ち上がり、窓を覆っていたカーテンを開ける。目の前に広がる朝の光に一瞬瞼を閉じたが、ゆっくりと開いて朝を目一杯に感じる。

「今日もいい天気」

 少女は一言呟いてパジャマを脱ぎ、すぐに準備を始めた。ブラジャーは着けておらず、脱いでしまえばショーツ一枚だけ。そのまま壁に掛けてある姿見の前に立ち、自分の姿を視界に納めた。
 自分でも気に入っている瑞々しい黒髪のショートカット。同世代から見ると少し大きめの目に、小柄な顔。上半身から下半身にかけてのボディラインは無駄な肉は付いておらず、日頃の適切な練習結果が現れているのが良く分かった。ただ、一点を除いては自分の体が好きだった。

「これで胸がもう少しあればいいのに」

 同年代よりも小さい胸を両手で包み込む。体育の時にブラジャーがいらないのではないかと言われてしまう小振りな胸。しかし、少女のプレイスタイルからすれば、大きな胸は邪魔になるし、150に行くか行かないかという小さな身長にはサイズ的にはちょうどいいかもしれない。

「さてっと」

 日課にしているボディラインのチェックが終わったところで、少女は着替え始めた。いつも着ている運動用のTシャツ。下にスポーツブラを着けようかと迷って、着けないまま被る。すぐ上に学校指定のジャージを羽織り、チャックを閉める。下も同様にジャージズボン。黒を基調として白いラインが走っているシンプルなデザインだ。
 クローゼットに掛けてあるタオルを一枚手に取り、机の上からMP3プレイヤーを取って準備は完了。静かに扉を開けて階下へと降りていく。
 玄関に行く前に今の前を通った時に、台所から一声がかかった。

「凛。おはよう」
「おはよう、母さん。ランニング行ってきます」
「気をつけてね」

 短い会話の中でも自分への気遣いを感じて、凛は少しだけ心が温かくなる。
 外に出ると三月終わりとはいえまだまだ肌寒い。準備運動をたっぷりと行い、体がうっすらと汗をかいてから走り出した。
 君長凛(きみながりん)。
 現時点で中学バドミントン界では日本最強のシングルスプレイヤーに数えられる。少なくとも、一度は同年代の少女達の頂点に立っていた。
 知らない者が見ればとても強そうには見えない彼女は、好きな女性ボーカルを聴きながらいつも通りのペースで走り出していた。
 彼女の住んでいる函館の気候は、明日から四月になるということで、ところどころに雪が残っているものの穏やかな日光に包まれてほのかに暖かい。
 風が吹けばまだ冷たく、基本的に気温は低い。それでも、体を存分に暖めればランニングに支障がない程度の気候だ。北海道の北や中央はまだまだ雪に覆われているところがあるようだが、南端にある函館は海の傍ということもあり元々雪は少ない。それだけにほんの少しだが他の土地よりも春を感じ取れるのが早かった。
 凛は少しゆったりしたペースで日課のコースを走る。学校に行く前は簡易的に四キロ程度の長さを選んでいるが、春休みの今は倍の長さを想定して、脳内にルートを思い浮かべる。もう何年も走っているコースは完全に再現できた。人や車がこなければ目を閉じていても走りきれる自信はあった。

(明日から二年生なんだよね。実感、湧かないな)

 年度が変われば自分も変わる。ついこの前、中学に入学したばかりだと思っていたのに、もう一年が過ぎて、進級する。自分の目の前にあるバドミントンに集中していたらそれ以外がどこか遠くに行ってしまったような気がする。
 寂しくないかと言われれば嘘になる。
 友達ともっと遊びたいと思ったことはあるし、ドラマの話をしている輪に入れずに寂しかったこともある。歌番組はたまに見て、気に入ったアーティストを音楽プレイヤーに入れて走りながら流す程度。周りは親同伴とはいえライブに行ったこともあるという子がちらほらいて、生身のアーティストとの交流に興奮する様子を羨ましくも思った。

(お母さんは、行くような人じゃないよね)

 それでも諦められるのは、自分と、母親のことがあるからだ。
 母親のことを思い浮かべるとほんの少し笑みが漏れた。
 バドミントン選手として少しだけ有名だった母。高校三年生の時に足の怪我をしたことで選手生命を断たれ、オリンピック出場や実業団の選手を含めた国内のビッグタイトルを獲得することはなかったが、旧姓含めて『水島美智子』という名前を言えば、親の世代は分かるらしい。少なくとも、惜しまれるくらいの輝きを持っていた。
 母親は足を痛めてからは教育大に入って中学教師になった。今は凛とは別の中学の教師で、バドミントン部の顧問として精力的に活動している。自分の中学の教師と顧問と、自分の家族のために家事を行うような母にはライブに行くような余裕はないだろう。

(……だから、私もバドミントン強くなれたんだけどね)

 体が慣れてきたことで徐々に速度を上げる。他のことを考える余裕があるのは、体力に余裕があるから。そして余裕がある時はたいてい、身に付いていない。体に負荷がかかり、苦しさや痛さを感じるようになったところで体はようやく成長すると教わってきた。
 母の教え通りに、体に負荷をかけ始める。

「はっ……はっ……はっ……」

 呼吸が一定になるようにして速度を上げていく。自分が走ることで起こる向かい風が心地よくなり、凛は風に乗るようにして速度を上げる。
 自分が動くことで起こる風は好きだった。バドミントンのコートの上でも、足を使ってシャトルを追う時に肌で感じる風は心地よかった。風によっていくらでも動くことができた。
 思考の海に浸かりながら足を動かしていると、目の前に見覚えのある後ろ姿が見えてきた。朝の六時はたまに犬の散歩をしている年輩の人達に遭遇したりするが、今回は自分と同じくらいの年齢の背中。自分よりも先に走っていた相手に対して、凛はペースを乱すことなく追いつく。

「おはよー」
「おう、おはよう」

 声をかけた相手が挨拶とともに振り向いた時、凛は目を丸くした。自分が知っている髪型と違っていて印象が異なったために。

「どうしたの、その頭」
「……コーチとの賭に負けたんだよ。この前の試合で負けたら坊主にするってよ。でも坊主は許してくださいって言ったらこんな感じに」

 男子はすっきりした頭に手を乗せてさする。ほとんど地肌が見えるように短くされた髪の毛。だが、凛は自分の髪の毛と見比べてから率直な感想を言った。

「いいじゃない。バドミントンしやすいよ。私も邪魔だから切りたい」
「……その髪は切らない方がいいぞ」
「え。なんで?」

 男子は一度、凛から視線を外して考え込んでいるようだった。しかし、意を決したように大きく頷くと、凛に赤くなった顔を向けた。

「あの、な……その髪、綺麗だからさ。もったいねぇなって思ってよ。あと君長に似合ってる」
「そう? ありがとう。稲田」

 髪を誉められて嬉しくなり、凛は礼を言う。それだけで別の中学のバドミントン仲間――稲田隼人は顔を更に真っ赤にして走るペースを落とした。下がっていく稲田にどうしたのか声をかけようとしたが、すぐそこにいつも右に曲がっている場所が迫っている。稲田がその道をまっすぐ進むことは何度かランニングで一緒になっていることから、凛は知っていた。

「あ、じゃあまたね」

 稲田へと軽く手を振ってから凛は角を曲がった。そのまま後ろは振り向かずにまた速度を上げる。ここからは誰も自分と併走はしない。追い抜くか、すれ違うだけ。
 凛の中のギアが切り替わる。トップギアへと切り替えられて、最大速度で道を駆け抜けていった。

 * * *

 早朝のランニングを終えて朝食を食べた後は、母親の美智子と共に市民体育館に凛は移動する。春休みで部活もちょうど休みであり、空いている時間を利用して美智子から指導を受けるためだ。たっぷりと六時間の練習時間を取り、普段の部活と同等、それ以上の練習量を重ねる。そのことに対して特に疑問はなかった。

「もっともっと、早くよ!」

 ネット前中央からシャトルを八方向に向けてギリギリの位置に落ちるように打っていく美智子。対してシャトルを、的確に捉えて向こう側のコートへと返していく凛。常人なら取れずにコートに落ちるであろう軌道でも、凛の人並み外れたフットワークはシャトルへ追いつき、拾い続ける。
 動き続けることで足に負荷がかかるが、痛みを越えて体は先に行き、シャトルをとらえる。走っている時と同じように自分が巻き起こす風を抜けて、シャトルを返していく。
 小気味良い「ラスト!」という声と共に放たれたシャトルも、凛は的確にロブを上げていた。

「はい、ストップ。いいわよ、凛」
「あり、がと、お母……さん」

 一分連続で少しインターバルを挟んだ上での十セット。
 さすがに息は切れてしまい、呼吸をする合間をぬって美智子に礼を言う。流れてくる汗を拭うためにコートの外に出てからタオルに顔を埋めていると、傍に美智子が近付いてきた。

「調子、いいみたいね」
「うん。ラケットも靴も新しいのはフィットしてるよ」

 最近発売された新作のラケットとバドミントンシューズを、美智子は凛の為に購入していた。今まで愛用にしていたシューズから履き換えると微かにだが軽い気もする。フットワークが武器の凛にとっては、負荷軽減のために靴選びは重要だ。
 それも、すべて美智子の管理にあるため、特に不安はない。

(お母さんが選んでくれるから、ね)

 それでも、胸にちくりと針が刺さったような痛みが走る時があった。実体があるわけではないことは理解している。あくまでも、精神的なもの。
 小学生の時から自分のバドミントンに力を貸してくれた母親に身を委ねていた凛だが、最近、少し胸が苦しくなることが増えた。今までバドミントンをする自分を疑うことも、母親を疑うこともなく過ごしてきたが、一年生最後の大会を終えた後で、ほんの小さなしこりが生まれた。
 函館の春の中、雪はほとんど溶けてしまっても、日陰に僅かに残っている雪のように、凛の中から溶けない。

「じゃあ、もう少ししたらラリーの練習を続けるわよ」
「ん。分かった」

 美智子は離れてシャトルを拾い集める。凛はその様子を見ながら自分の心に問いかけた。
 どうして雪は溶けないのか。風に乗って進んでいても、なにが自分の重りになっているのかを。

『母親の言いなりなの?』

 脳に突然響く声。物理的な痛みは何もなかったが、凛は思わず顔をしかめる。一瞬だけ聞いた声は、聞き間違うはずのない先輩の声。同じ中学ではないが、全国大会に挑んだことで知り合った、格好良いと思える女性だ。
 憧れる先輩に言われたからこそ、気になっているのかもしれない。

(お母さんの言いなり、か)

 ラリー練習の準備をしてくれている美智子の姿。凛に対してバドミントンの技術を注ぎ込む情熱は凄まじいものがあるのは確かだ。しかし、強制されているかと言われるとそうでもない。自分からランニングをしているし、自分から教えを受けている。美智子は凛の要求に応えてくれているのだ。更にアドバイスをもらうことで、実践している。
 アドバイスに対して一度も否定したことがないのは確かだ。しかしそれは、自分にとって的確だと思ったからだ。中学一年の自分には美智子のアドバイスを否定する知識も経験もないのだから。

(だから言いなりなんてことは、ないです)

 見えない誰かに弁解してるように思えて、凛はくすりと笑う。一通り顔や腕の汗をふき取ってからコートに戻り、軽くフットワークを展開する。小学生の時から磨きあげてきた自分の足裁き。もう少し身長があれば別のスタイルになったかもしれないが、スポーツ選手として小柄な凛にはこうして動きをよくすることがよいと、美智子が早いうちからフットワークを仕込んだ。結果として、小学校六年の頃には全国に到達し、中学一年で頂点を掴むことができた。自分に合った武器を見つけてくれた母親を、凛には否定できない。

「はい。じゃあ、やるわよ!」
「お願いします!」

 美智子の声に凛が応える。ほんの少しだけ母と娘ではなく、コーチと選手の関係になり、シャトルを追っていく。
 そこでは雑念は消え失せて、練習に集中していく。

 三月三十一日。
 君長凛にとって、中学最初の一年の終わりの日。
 特別なことはなくいつも通りの一日。

 そして、次の日から始まる新年度で凛は二年生となる。
 新たな年度の始まりは、新しい凛の始まりでもあった。
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