Fly Up! 76

モドル | ススム | モクジ
 阿部の言葉には力強さがあった。過度の緊張や気負いはなく、普段見せている余裕と同居した理想的な状態だ。武の視線は自然と阿部の試合へと吸い寄せられていく。
 
「阿部さん! ファイトです!」

 武は自分の思いに素直になり、身体の向きを阿部のほうへと向けた。金田達と阿部。どちらも気になるのは仕方がない。しかし、阿部はけして倒されるために試合に行くわけではないのだ。応援して支援しなければ勝てるものも勝てなくなる。

(そうだ。阿部さんが絶対勝てないわけじゃない。可能性はゼロじゃないんだ)

 阿部は特に周りを気にすることもなく、握手をしてじゃんけんに繋げる。サーブ権を取得してシャトルの羽部分を整えている間もほとんど人々は視線を向けておらず、金田達の試合を見入っていた。相手チームもシングルスは消化試合だと思っているのだと武は分かった。結果が分かっている勝負に意味はなく、次の武と吉田とのダブルスが団体戦の勝ち負けを決めると思っている。

「スリーゲームマッチ、ラブオールプレイ!」

 審判のコールと同時に阿部がサーブを放った。それは真下からではなく斜め下。『腰から上の位置で打ってはいけない』というルールをぎりぎり守るラインから放たれたシャトルは、鋭く相手の左肩を抜けていく。
 それに反応してラケットを咄嗟に突き出しただけ、相手の力量の凄さを武は感じた。でもシャトルはふわりとネット前に上がり、阿部はジャンプしてラケットを振り下ろしていた。相手コートにシャトルが突き刺さり、軽い音が弾けた。

「ポイント。ワンラブ(1対0)」

 阿部はポイントにも特に雄叫びを上げることなくサービスラインへと下がる。相手がシャトルを返すと、落ちてくるシャトルを空中ですくうようにしてラケットの上に乗せた。

「一本」

 阿部の声は静かに紡がれ、サーブの体勢で止まる。今度は落下させたシャトルを下から上空に発射させた。伸び上がり、頂点を迎えると相手の真下に落ちてくる。絶好のスマッシュ球を相手はしかし強打せずに前に落とした。阿部は前につめてストレートにヘアピンを返す。そこには予測ずみだったのか相手がつめていた。

「らっ!」

 気合を入れた声と共に前に足を踏み出し、強打を意識させておいてからのクロスヘアピン。武から見て、それは確実に決まったと思えるショットだった。大胆な踏み込みで相手を後ろに引かせつつ、勢いは完全に殺して相手から遠のいていくシャトルがまるで止まった時の中を進んでいくように武には見えた。
 だが、動けたのはシャトルだけではなかった。
 それを阿部は易々とラケットを伸ばして捉えていた。相手が驚愕の顔を見せるのと、ヘアピンがネットを越えるのは同じ。明らかに余裕がなかったが、ロブを高く上げたのはさすがだと武は思う。
 本当ならば今のでサービスオーバーになっていたはずだった。だが、実際は阿部が主導権を握っている。一番初めのサーブ。そして今のネット際のやり取り。けして相手に引けを取っていない。

「阿部さん! ファイト!」

 かけられた声に呼応するように阿部はスマッシュを打ち、ネットに当てていた。

「サービスオーバー。ラブワン(0対1)」
「どんまいです!」

 武は自分の声が集中を乱してしまったのかと、声をかけたから口を紡ぐことを決めた。しかし、すぐに阿部の顔に違和感を覚える。全く焦燥感を持っていない。むしろ楽しそうな雰囲気をかもし出していた。

(なんだろ。阿部さんの考えが読めない)

 自分でさえこれならば、相手はどうなのだろうと視線を向ける。ポーカーフェイスを保っていてこちらも内心が読み取れない。阿部の様子をどう捉えているのか。

(でもどうだろうと、折角のチャンスを潰したのは痛いな)

 スマッシュの失敗にショックを受けていないことを装っているのかもしれないが、実際にこのミスが後でどう響いてくるのか。

(あれ?)

 その時、武の中で何かがつっかえた。このまま思考を続けるのは、間違ってしまうような気がする。もしもこれが相手も同じことを思っているとするならば、罠に嵌るかもしれない。

(阿部さんの作戦なのか? ミスしたのが?)

 サーブ権が移り、最初のサーブは高く舞うロングサーブ。阿部はゆっくりと下に移動し、シャトルに狙いをつけた。
 力を込めるように構えたまま動かない。

(まだ、打たない?)

 武ならば、練習で対峙していた阿部ならば打つだろう場所をシャトルが過ぎてもラケットは動かない。何をしているのかと思った瞬間、阿部の身体が少しだけ沈み、ラケットが振り切られる。それはオーバーヘッドストロークから放たれたショットとは思えないほどネットと水平に突き進んでいた。
 シャトルはそのままアウトになりそうな勢いだったが、コートの端に近づいたところで収束し、ラインぎりぎりに落ちていった。

「サービスオーバー。ワンラブ(1対0)」

 阿部は左手で小さくガッツポーズを取るだけ。先ほどまでと異なる気合の出し方。阿部のプレイスタイルがつかめない。どれだけの戦力を秘めているのか探るための序盤だが、武はもし自分が対戦相手ならばスタイルを読み取れている自信がなかった。まるで霞の奥にいるかのように阿部の姿が見えない。

(意図的に隠しているっていうのが妥当か。思い切りかき乱すつもり、なのか)

 実力が劣るからこそ、頭を使って勝つ。その思考に至ると掴めなかった阿部の気配が少しだけ読み取れた。

「一本!」

 勢いよく言って、ショートサーブ。シングルスではあまり使う者がいないからこそ、簡単には強打を打てない。相手も下からロブを上げるしかない。高く上げてスマッシュを待つようにして構えた。
 変則的な攻撃を仕掛けて来る阿部に対して、あえてスマッシュを打てるようなシャトルを放る。始めの様な奇襲はもう通用しないとでも言いたげな構えだった。

(この試合……もしかして凄くなるかも)

 一方的と思われている試合が、混戦になる。そんな気が武にはしていた。
 相手の期待を裏切らず、阿部はスマッシュを打ち込んだ。相手の胸元へと突き進むストレートスマッシュ。威力はそれほどなかったが、身体に近いほどラケットを使いづらくなるため、相手は遠くには飛ばせない――はずだった。
 だからこそ、シャトルを完璧に阿部のコート奥へと返されたことに驚いた。

(あれをあそこまで返すんだ)

 阿部はそのことに動揺している様子もなくシャトルを追いかけると、ドロップでネット前に落とし、自身も前につめていく。

「あれがこの地区の実質二位だ」

 試合に見入っていると傍から庄司の声が届く。声色は落ち着いている。金田と共に阿部に玉砕して来いと雰囲気で語ったにも関わらず。

「阿部はただじゃ負けないな」
「確かに。俺は、勝つと思います」

 庄司に挑むように返す武。視線は阿部へと向けたまま。見えない場所から肩に置かれた手は大きく、優しかった。

「ああ。よく見ておけ。格上の相手との戦い方を」

 握った掌が汗で滲むのを武は感じた。



 十五点のうち、五点目を始めに取ったのは阿部だった。ロブを上げようという強さで振られたラケットが、瞬間的に減速してシャトルを捉える。ふわりと浮いたシャトルはネットを越えてすぐ下に落ち、相手が前につめてロブを上げたがネットに引っかかって跳ね返されていた。

「ポイント。ファイブフォー(5対4)」
「鮫島さん! ストップです!」

 シャトルを拾って阿部へと戻す相手にかけられる激励。間違いなく相手の名前なのだろう。そして声をかけたのは後輩だ。レシーブ位置に戻るまでに手を上げて自分が大丈夫だということをアピールして鮫島は構えた。その顔に気負いは全くない。阿部を格下と見下しているということもなく、現状に対して焦りも感じていない。十五点のうち五点に過ぎない。

「あの相手は簡単には崩れない。阿部はどうするかな」
「一本です! 阿部さん!」

 武の激と同時に放たれるサーブ。シャトルが中空を翔けて、鮫島のコート中央へと進む。アウトかインか迷いが生じるような一打。しかし鮫島は躊躇する様子もなくスマッシュを阿部の真正面へと放った。バックハンドで前に落とす阿部だったが、そこにすでにつめてきた鮫島がプッシュで更に阿部の身体へと打ち込む。
 そこで阿部は身体をかがめ、更に左側に倒れてからラケットでシャトルを打った。真正面に来たシャトルを横で捉えて返す。お世辞にも格好良いとは言えないが、返されたシャトルを鮫島はネットに引っ掛けていた。阿部のアクロバットな動きに動揺でもしたのか、顔は平静を装っていてもプレイにはにじみ出ている。地区二位の実力では考えられないような単純なミスが目立っていた。

「鮫島も少しずつおかしいと思ってるようだな」
「それは俺も同じです」

 武の言葉に庄司の顔が向く。武はそのまま先を続けた。

「鮫島、さんは特に調子がおかしいとかはないと思います。あと、多少のかく乱に惑わされるほど修羅場を通ってないとは思えないし……」

 阿部のサーブは、今度は左奥へと飛んでいく。シャトルの行方を気にした鮫島は、落ちてきたところで見極める必要もなくインであるシャトルを下から打ち返す。不完全な体勢から打ったことで弾道は低く、前につめた阿部はクロスに小さくヘアピンを放ち、コートへと落とす。

「ポイント。シックスフォー(6対4)」

 阿部が優勢のまま試合が進んでいく。ヘアピンとドロップの上手さは武も分かっていた。ダブルスで磨き上げた二つの技は格上の相手にも十分通じると。しかし、決定打であるスマッシュはやはり遅く、エースになることはない。必然的にラリーは長くなり、試合時間も遅くなる。
 阿部が十点目を取った時、金田達のコートから咆哮が噴出した。武が視線を向けると金田と笠井が手を打ち合い、喜びを存分に表していた。

「金田さん達、勝ったんだ」
「ああ。お前が阿部さんの試合に集中してる間にな」

 吉田も勝利の余韻に浸って笑っている。それは同時に、武達の戦いが始まることを示していた。スコアを見ると、二ゲーム目は十五対三と圧倒的大差。最高のスタートとなったことになる。そこまでの差があったとは武には思えなかったが、金田達が波にのり、相手のバドミントンをさせなかったということなのだろう。
 分析をする前に自分の出番がある。試合のためにジャージを脱いで、ユニフォームとハーフパンツ姿になる武と吉田。そこに庄司が声をかけた。

「いいか。阿部がどういう結果になろうと、お前達が勝つんだ。人に頼るなよ」
「はい!」

 肩を軽く叩かれながらの言葉に武も精一杯答えた。力強く頷いて金田達が試合をしていたコートへと入る。ちょうどコートを出る金田達とすれ違い、その時にも肩を叩かれた。

「任せたぜ」

 金田の声ににじむ疲労を武は感じ取る。南地区の大会では見ることがなかったこと。最初の試合に関わらず、金田達は全力を尽くした。そして阿部はどうすれば勝てるのかを模索し続けながら長期戦を覚悟しているように進めている。
 ならば、自分達もまた捨てなければならないだろう。

「吉田」
「なんだ?」

 吉田の問いかけに無言で手を上げることで答える。言わなくとも、行動が示していた。武の意思を。そして、吉田の意思もまた伝わる。
 乾いた音と「しゃ!」という叫び。武と吉田の鋭い気迫が周囲を貫いた。

「絶対、勝つ!」
「おう!」

 足を前に踏み出すごとに心臓の鼓動が気にならなくなっていく。コートに入った直後は聞こえていた周囲の雑音も消え、意識が目の前の相手に向かっていくのが分かった。第二ダブルスとはいえ、今の武達よりは強いだろう。その相手に対してどう戦うのか。思考は既に戦い始めている。

「第三試合。吉田・相沢対鈴池・菊池」
『宜しくお願いします!』

 そして武の全地区での初試合が始まった。
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