Fly Up! 55

ススム | モクジ
 春の陽気がカーテン越しに部屋へと入る。外はまだ春が訪れたばかりで残雪が点在していたが、陽光はすでに季節相応の暖かさを広げる。
 その暖気が一方向へと逃げていく。向かう先は開かれた扉。ゆっくりと隙間から室内に身体を滑り込ませてきたのは、川崎由奈だった。足音を最小限に抑えてベッドの上で眠る人影へと歩いていく。表情には笑みが浮かび、これから起こすことに対する期待が現れていた。

「……ぅ」

 ベッドに収まっている人物が寝返りを打ち、声が漏れ出た。眠りから覚めたのかと足を止めたが、大丈夫だったようだ。少しだけ息を吐いて歩みを進める。ベッドサイドまでたどり着き見下ろして見えたのは部屋の主、相沢武だった。心地よい夢を見ているのか顔には幸福が浮かび、まだまだ現実には帰還しないと他者を拒絶する力を発散していた。だからこそ、由奈は息を吸い込み叫んだ。

「武! 学校に遅刻するよ!」
「は、はい!?」

 叫びに呼応して起き上がる身体。何事かと周りを数回首を振って見回してから、最後に由奈へと視線を固定した。それまでそこにいることを起き抜けの脳が理解していなかった。

「えー、えーとー。由奈、さん?」
「なんでしょう? 武さん?」

 武の口調を真似して応える由奈の顔には、怒りとも笑みとも分からない表情が浮かんでいた。状況を楽しんでいるとも、焦っているとも見える。

(焦り?)

 そこまで来て武の中にもようやく焦りの感情が生まれる。ベッドサイドに置いてあった目覚まし時計は、七時半を指していた。

「……もうこんな時間!?」
「そうよ。早く着替えてご飯食べないと遅刻するよ!」
「分かった。着替えるから部屋から出てて」
「早くね」

 言い残して由奈は武の部屋から出て行った。すぐにパジャマを脱いで学生服へと着替えるべくクローゼットを開ける。身体は身支度をしつつも思考は別のことに向かっていた。

(今日から、二年生か……)

 制服を着込み、首に付けてある学年バッチへと手を伸ばす。
 一年の証。それを、外す。
 空いた穴を埋める新たな証は今日配られる予定だった。新たな学年生活の始まり。そして、新たなバドミントンの始まり。

「よっし。行くか!」

 机の上に置いておいた鞄を掴み、武は勢い良く部屋を飛び出した。一階に駆け下り、母親が作っていてテーブルの上に出していた朝食に手をつける。
 武が朝ごはんを食べる間にも由奈は居間で朝のニュースを見ていた。天気予報を伝えるアナウンサーを見て笑っている。

(そういえば、最近好きになった人いたんだっけ)

 顔も洗って準備を整えた武は由奈の後姿を見る。正確にはソファに遮られていない頭部。髪の毛の間に微かに見え隠れする耳を見て、武は急に顔へと血が昇る。
 気恥ずかしさを避けるように食器を水に浸けて洗面所で歯を磨き、髪形を整える。スポーツ刈りだけに寝癖はすぐ直すことが出来たため、歯を磨き終えてから武は由奈へと言った。

「が、学校遅れるぞ」
「おー。そうだね。いこっか」

 テレビを消してから玄関へと向かう由奈。しかし武がついてこないことに気づき振り向く。

「どうしたの?」
「ん、ああ。いや」
「変な武」

 そう言葉を残して由奈は居間から消えた。一人、立って頬を指でこする。二人きりというシチュエーションをやけに意識してしまい、一人で空回るということは春休みの間にも何度も経験してきただけに、学習しない自分を責める。

(そうなんだよな。付き合ったわけじゃないのに何を意識してるんだか)
「武ー。早くー」
「おー」

 頭を振って気持ちを切り替えて玄関に向かう。すでに由奈は靴を履いて扉を開いていた。外は春の日差しが十分行き渡り、心地よさを予想させる。

「春だな」
「うん。あ、そうだ」

 玄関から出て自転車にまたがる。そんな武に後ろからかけられた由奈の声は、少しだけ上機嫌だった。

「クラス一緒になれるといいね」

 武は高鳴る心臓を意識せずにはいられず、勢い良く自転車ごと振り向いてペダルをこぎ出した。由奈も併走し、二台の自転車が通学路を駆ける。風に吹かれて頭も冷えたのか、再び思考は由奈との事へと戻る。

(付き合って、ないんだよな俺達)

 その事実は武をある時点へと呼び戻す。
 一年の最後の大会、学年別。その帰り道に武は由奈と手を繋いで帰った。結局、別れる際に挨拶を交わすまでそのままだった。
 次の日からの距離感も今までのままだった。変わったこともあるが。

(さっきみたいにやけに素直に感情表されると、照れる)

 少しだけ由奈の顔を見て、また前に視線を戻す。決して嫌われているわけではない。むしろ好かれているだろう。それでも、恋人ではない。
 友達以上恋人未満。中途半端だが、とても暖かい。

(まぁ、ここで落ち着くのもいいかもな)

 武は春休みを越えて少しだけ恋愛に関して余裕を持てるようになった。
 淡い想いは春風に溶けていく。前日も部活のために通った道は、全く新しいものに武には見えた。今までとこれから。何が違うかといえば学校へ着いてから入る教室が変わること。後輩が出来ること。それくらいのはずだというのに。

(それ以上の何か、あるのかな?)

 そんなことを考えている間に、自転車は校舎が見える位置へとたどり着く。由奈は武のほうを一瞥すると「それ!」と掛け声をかけて立ちこぎし、武との差を広げていった。サドルにまたがったまま徐々に足に力を込めて後を追う。他人から見れば他愛も無い競争。当人達もそこまで強い意味合いを持っているわけではない。それでも弾んだ気分になるのは何故だろうと武は考える。

(これから二年になる。春が訪れる。そういう雰囲気が楽しいんだろうな。子供くさいけど)

 春に喜ぶなんておもちゃをもらって喜ぶ子供のようだと思う。しかし、浮かれる心は止められない。一気に自転車置き場まで走りきり、ラケットバッグを肩にかけなおしてから、武と由奈は玄関へと向かった。そこには特製のクラス表が載っている。二年五組まで。一組から順に自分の居場所を探す。

「あ、あったよ武!」

 由奈の声に視線は導かれ、四組に武は名前を見つけた。よく見つけたと由奈に言おうとして、彼女が自分のクラスを探していることに気づいた。

(自分の名前より先に俺の名前を探してるって嬉しいな)

 素直に思うと照れも収まる。由奈はしかし、すぐに武と同じ組に名前を見つけていた。更に。

「あ、橋本と早さんも一緒だ」
「なに?」

 五十音を追いかけていき、早坂と橋本の名前を確認する。バドミントン部四人がそろうこと自体は珍しくは無いだろう。だが、小学校の時の仲間が固まるというのはありえないことが起きたという驚きを武へと与えた。

「二年の初めから面白いな」

 本当に楽しそうな橋本の声が後ろから聞こえ、武は笑いながら振り向いた。案の定、満面の笑みを浮かべた橋本の顔。少し離れた場所には不服そうに顔をしかめた早坂の姿もあった。

(二年が始まったんだな……)

 これまでとは違う今日。初めて、武は二年生になるということを実感していた。


 * * *


 始業式とホームルーム。その間に行われる入学式は、武の眠気を誘うには十分だった。春休みに鈍った脳はなかなか通常授業用のモードに切り替わらない。武だけではなくクラスに集った生徒達の大半が。

「今日は良いが、明日からはちゃんと起きろよ」

 そう言って担任である庄司直樹はため息混じりに呟いた。
 そこでちょうど鳴るチャイム。放課後の始まりに、武は閉じかけていたまぶたを開き、前に両手を伸ばして身体の硬さをほぐす。

「さって、部活だ!」
「その前にお前は掃除だ。相沢」

 武の勇み足に教室中が笑いに包まれる。春ゆえの淀みに満ちていた空間にそよ風が吹きぬけた。新しい一年の始まりと、今日の拘束時間の終わり。礼をして机を下げると各々が自分の時間へと進んでいく。
 武はその前に、教室掃除が待っていた。

「早く部活したいのに」
「まだ入学式の片付けとかやってるだろうし、間に合うって」

 橋本がそう言いながら箒でゴミを教室の後ろへと持って行く。埃が少なくなった床を早坂と由奈がモップで吹いていった。

「でも、この班って明らかに先生の意図だよな」

 武は窓際で黒板消しを叩き合わせながら言った。舞い散る白いチョークの欠片を吸い込まないよう顔を背け、教室に入らないようにできるだけ外に腕を伸ばす。
 廊下へと向けていた視線は同じバドミントン部の面々を捕らえていた。杉田に大地。林や吉田。女子部員もちらほら。見えない者達はおそらく武よりも若い番号の組だろう。些細なことが次々と武の環境が変わっていることを伝える。

(早く部活したいな……)

 新しい自分を最も良く表すことが出来るのは、バドミントンだと武は思う。学年別から春休みの間。たまに遊びに出かけるなどしたが、ほとんどは体育館と家の往復だった。一日の半分をバドミントンに費やしていた日々から、学校の授業が加わる。またリズムが変わるという事実に、ようやく頭が回った。

「よっし。さっさとすませて部活いこうぜ!」
「いきなり仕切るかよー」

 笑いながら言う橋本に頷いて、武は黒板消しを置くと机を元の位置に戻し始めた。


 * * *


 掃除を終えて体育館についた頃には、入学式の名残は消えていた。始業式もそうだったが、周りにつけられていた赤い幕もどこかにしまわれてなくなっている。いつも見ていた光景が広がっていた。

「よし、今日からまたがんばるか!」

 武はそう言って自分に気合を入れると勢いよく上半身を下に落とす。掌を床まで一気につけてまた離す。柔軟運動をする間に身体は温まり、式典やホームルームで椅子に座っていて固くなった身体がほぐされる。すでに吉田達他の部員は準備運動を終えて雑談をしていた。
 武の全く知らない男と。

(あれ? もしかして)

 予想は確信に変わる。今、この場にいる部員以外ならば武に考えられるのは一つしかなかった。

「新入部員?」

 腕を頭の後ろで伸ばしながら、武は話の輪に近づく。すると中心にいた身長が低い男は武を見て顔をほころばせた。

「こんちわ! 俺、竹内元気って言います! よろしくおねがいっしまーす!」

 名前のように叫ぶ竹内に武は少しだけ気押された。自分が試合で気合を前面に押し出す反面、普段は煩い相手が苦手なこともある。武の中で部活のモードに切り替わらない限り、それは変わらない。

「学年別、見てました! ダブルスでの優勝、凄かったです。俺も目標はダブルスで一位をとることなんすよ!」
「……へぇ。そうなんだ」

 武の中に生まれる懐かしい感触。記憶を辿ることなどせずとも、その正体は知れた。過去の自分。目の前にいたのは、一年前に金田や中学のバドミントンに憧れた自分だった。ただ、入りたての頃は憧れよりも入っていくことへの恐怖が大きかったが。

(あんな自身たっぷりになりたいもんだ)

 最初から一位を取る、と言える竹内を武はうらやましく思った。自分は半年以上部活を続けてきてようやく自身をつけられたというのに。
 おそらく小学生の時の実績ならば竹内のほうが上だろう。そう思うと嫉妬にも似た感情が生まれる。

「よし! 部活始めるぞ!」

 金田の号令が雑談を打ち切る。武も内に抱いた思いを隠して、金田を中心とする円に入っていった。
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