Fly Up! 347
ゆっくりとコートに足を踏み入れる時、清水は自分を取り巻く世界の空気ががらりと変わった気がした。
コートの外と中は同じ空間にあるはずなのに全く異なる。
それは第三者と当事者の違い。
試合の熱気を自らの体で受け止めることになる場所と、外から間接的に受け取っていた場所。
自分が改めて立つことになった場所を踏みしめていると、後ろから声がかかった。
「清水。藤田」
振り向くと武が真剣な顔を向けてきていた。試合を終えた吉田へと声をかけていたところから自分達へと向けた顔は、いつも見ているよりも凛々しく、心臓が少し跳ねる。
「何とか、俺と早坂に回してくれ」
武の言葉に反応したのか早坂も椅子から立って武の隣に立つ。
「回してくれたら、絶対に勝つから」
同じ部活の中で、早坂も武もその姿をずっと見ていた。
二人は試合会場では違ったオーラを出していて、並いる強敵を次々と打ち破ってきた。早坂は主にシングルスで。武は吉田とのダブルスで。
どちらも間違いなく全国クラスで、同じ中学にいるのにここまでの差がどうしてできるのかと思うほどだ。遠くにいってしまったと感じるが、それに対して悔しささえ覚えないレベル。
そんな二人が自分達に託せと告げている。清水は自然と言葉を紡いでいた。
「うん。できるだけのことはやるよ。だから、後は頼むね」
清水は二人に背を向けてコートを進んでいく。空気が変わったことには変わりないが、圧迫感が減って肩の重さも軽くなる。後ろからついてくる藤田にラケットで軽く肩を叩かれて振り返ると笑顔が待っていた。
「かっこいいこと言うじゃない」
「あそこで早さんや相沢に悲観的なこと言えないでしょ」
藤田へと返す口調は軽い。おそらく、何も声をかけられずに入っていれば震えていたに違いなかった。自分の調子がいつものように感じられるのはこの正念場ではありがたい。
ラケットを軽く振っても、硬直も力が抜けるようなこともなかった。
「私達ができることって、何だと思う?」
「そうだね。多分いくつもないから、無理しないでいこうか」
ネットの向かいには既に相手が立って談笑している。
宇佐美沙耶と岬恵理子。
どちらもセミロングの髪を首筋で縛って邪魔にならないようにしている。
身長はそこまで高くはなく清水と同じくらいで、藤田が頭一つ大きい。
事前に分かっている情報は不得意なショットも得意なショットもそこまでないような、オールラウンドのダブルス。
これと言って特徴がないということは、そこまで抜きんでた選手ではないと思いたいが全国を舞台にした大会でその可能性は低い。
清水は、一点だけ吉田コーチに聞かされていたことを思い出した。
(宇佐美さん……宇佐美の、バックハンド側か)
全道大会での数少ない試合のデータから、宇佐美がバックハンドに弱いというのは分かっていた。
バックハンドは清水も得意と言うほどではない。スマッシュを打ち返す時にバックハンドにすることは多いが、バック側に来たスマッシュを上手く遠くまで返せたことはない。
中途半端に返すか、ドライブ気味に打ち返すかという程度で、実力のある相手ならばインターセプトされてしまう。
(それでも、やれることをやるしかない)
審判がネット前にきてお互いに握手をするように求める。
清水と藤田は前に出て、それぞれ宇佐美と岬に向かい合った。
握手した手から伝わる熱さは、自分達で試合を決めるという気合いがこもっている。
北北海道の面々にも、自分達は他の選手より一歩劣ると見えているのだろう。事実、その通りで清水は特に反論もない。腹も立たず、ただ相手の姿を視界に収めている。
「じゃんけん」
「ぽん」
ファーストサーバーの宇佐美に合わせて手を出すと、勝ちを拾った。
清水は迷いなくサーブ権を取り、宇佐美はコートの変更は指定しない。それぞれの位置に立ったところで審判が試合開始を告げた。
「フィフティーンポイント、スリーゲームマッチ。ラブオールプレイ」
『お願いします!』
試合開始と共に宇佐美と岬は気合い全開に吼えて身構える。あまりの咆哮に清水と藤田は呆気にとられて声を出し損ねてしまった。ひとまずワンテンポ遅れて同じように「お願いします」と呟き、身構える。
(うわ……凄い)
サーブ体勢を整えて相手を見ると、何としてでもプッシュを打ってやるというプレッシャーが強く吹きつけてくる。
清水の目からはネット前の大気が歪んでいるようにも見えた。目の錯覚ということは理解していても、実際に映る光景が歪んでいるのだから意思の力を思い知る。
(こんなところにショートサーブは打てないよね)
清水はしかし、相手から来る圧力をサラリと躱してロングサーブを打っていた。前に出てプッシュを打つ気満々だった宇佐美は一瞬だけ虚を突かれたが、すぐに後方へと追っていき、真下に入ってスマッシュを打ってくる。
元々ダブルスでのロングサーブは飛距離も短くチャンスに繋げやすい。だが、清水はボディに飛び込んできたシャトルを無理せずネット前に落とし、岬がヘアピンで返してきたシャトルをしっかりと上空へと飛ばした。
シャトルはきれいな弧を描いて後方へと落ちていく。宇佐美は再びラケットを構えてスマッシュを放つが、清水は再びロブを上げる。
何度もスマッシュが打ち込まれ、何度も弾き返す。
二人の間に繰り広げられる攻撃と防御。攻守が後退しないまま流れていく。そして――
「やあっ!」
宇佐美が放ったシャトルはネットに当たって自分達のほうへと跳ね返っていた。
「ポイント。ワンラブ(1対0)」
「ほっ」
清水はラリーを無事に終えて息を吐く。一回目のラリーでシャトルを既に何回も触れている。一つ一つにしっかりとロブをあげることだけを考えた結果、競り勝った。
(私のできること)
サーブ位置についてから一度後ろを振り向いて藤田と視線を交わす。
清水がやろうとしていることを理解したのか、藤田は力強く頷いた。
視線が後押ししているかのように感じられて、清水はほっとして笑みを浮かべる。意図をどう受け取ったのか、サーブを受ける側の岬が不機嫌そうに顔を歪めた。清水は心の中で謝りつつ、シャトルをラケット面の前に乗せる。
「一本!」
力強く言ってから清水は躊躇いなくロングサーブを放っていた。
宇佐美ほどではないが、ショートサーブが来ると考えて前傾姿勢になっていた分、後ろに勢いよく体を倒して飛ぶようにシャトルを追っていく。ロングサーブは飛距離が短いためすぐに追いつき、岬はラケットを振りかぶる。宇佐美と同じようにスマッシュを叩き込んできたが、今度は藤田がロブをしっかりと奥へと上げた。
スマッシュを打った岬がそのまま後衛に入り、宇佐美は前に出て腰を落とす。岬のスマッシュを、藤田か清水がヘアピンで返したところをプッシュするという作戦だろうと清水はあたりをつけた。
だが、岬がスマッシュを何度か続けても藤田はロブを上げ続ける。
徐々に宇佐美の顔に疑問が浮かんでくるのが清水には見てとれた。感情の動きが陽から陰へ。歯牙にもかけないというわけではなかっただろうが、もう少し簡単に主導権を握らせてもらえるだろうと思っていた相手が、想定とは全く異なる展開に持ち込んできていることに、不安を隠せないのだろう。
「やあっ!」
岬はストレートで藤田に向けてスマッシュで押し続けていたが、急きょ方向転換して清水へとクロスに打ち込んできた。
しばらく一人を狙って打っていたシャトルをいきなりもう一方へと変更されれば誰もが一瞬でも驚き、動きが硬直する。そうなればラケットの振り出しが遅れてチャンス球を上げてしまうだろう。
そう考えたと思われるショットを、清水はしっかりと逆サイドへと打ち返していた。
「岬!」
「はい!」
コートの後ろを左右一気に駆けていく岬は左手を掲げて飛び上がり、シャトルをより高い位置から打ちこんだ。
武には劣るであろうがれっきとしたジャンピングスマッシュ。速度に乗ったシャトルに清水はラケットを前に出して真っすぐ打ち返す。
だが、弾道が低かったために宇佐美が横っ跳びでラケットを伸ばしてインターセプトした。
「あっ……」
前に出ようとする足が止まってしまう。自分の思考を越えた動きはできず、シャトルが床に落ちるのを黙ってみているしかない。
「アウト。ポイント。ツーラブ(2対0)」
「ちっ」
清水達にとっては幸運でしかなく、二人は同時にほっとしていた。
宇佐美は舌打ちをしてからシャトルを拾い上げると、清水に向けて放ってきた。
抑えているが怒りが体の内側に満ちているのは明白で、考えると背筋に悪寒が走る。
「清水。ナイスショット」
「多分、もう少し体が温まってたら間に合ってたよね」
試合開始直後のこの時だからこそ、反応が遅れてアウトになったのかもしれないと清水は冷静に分析する。そして、自分が怖いくらい冷静に考えていることが不思議だった。
この試合で負ければ南北海道チームも負けて、準優勝となる。
清水にとっては団体戦とはいえ、人生で最も高い順位だ。記念すべき第一回大会で準優勝のチームの一員。それだけで十分幸せになれる。
しかし、それで終わらせるつもりは清水の考えにもなかった。むろん、藤田にも。
「よし。ひとまずこの調子でいけるところまで行こうか」
「うん。レシーブよろしく」
二点目のサーブ位置に立ってバックハンドで握ったラケットの面にシャトルを乗せる。宇佐美は試合開始時と同じくらいの前傾姿勢を取ってラケットを清水へと向ける。清水は深く息を吸い、吐いてから肩の力を抜いた。
「一本!」
声を出すと同時にラケットを振る。フェイントなどかけるつもりは毛頭なく、ロングサーブでシャトルをコート奥へと飛ばす。
ただ、気をつけているのはサーブのバックラインを越えないかどうかだけ。宇佐美は前傾姿勢を取っていたものの前には来ないと考えていたのか、シャトルが飛んだと同時に後ろに向かってシャトルの落下点に先回りすると、十分な体勢からスマッシュを放ってきた。
「ふっ!」
短く息を吐くと共にシャトルが清水の胸元へと飛び込んでくる。
わざわざクロスでスマッシュを打ってきた相手の意図を感じながら、とりあえずしっかりとロブを上げる。
シャトルを追ったのは、今度は岬だった。クロススマッシュを打った宇佐美は勢いを殺さずに前衛へと走り。前にいた岬が後ろに下がる。シャトルの落下点に入った岬は軽くジャンプしてスマッシュを打った。ストレートに来たシャトルを試しにドライブ気味に打ち返すと、宇佐美が反応してバックハンドでラケットを突き出してきた。
「やっ!」
気合いの声と共にシャトルに触れるラケット。
今度はしっかりと前に落ちたが、そこに飛び込んだのは清水ではなく藤田。斜め前に全速力で飛び込んだ藤田は、シャトルを下から上へと思い切り跳ねあげる。インターセプトしようとラケットを掲げた宇佐美の顔を掠めそうになる軌道でシャトルが飛んでいき、慌てて清水は逆サイドに移動して腰を落とした。
(藤田もやっぱり……強くなってるんだ)
清水はまたしても反応できなかった。そして、その反応できないというのに気付いた藤田がカバーした。
後方にいた岬が清水へとスマッシュを打ってくるのを見て、確信する。
(そして、私が狙われてる)
弱いほうを狙うのがセオリー。
自分達も宇佐美の左側を狙うと決めたように、宇佐美と岬ペアは清水を中心で狙うことにしたのだろう。それを卑怯とも、意外とも思わなかった。
安西と吉田の試合を先に見ていたことで可能性は十分考えられたし、試合で少しながらも活躍した藤田より出ていない清水のほうを弱いと見極めて狙ってくるのは当たり前のこと。
幸い、岬のスマッシュは早坂や瀬名よりは遅く、余裕を失わなければ取れる。しっかりと奥へ返すことで攻めは止まることこそないが、エースを決められる心配も少ないだろう。
自分へと押し寄せるシャトルを一つ一つレシーブする。それは基礎打ちをする時の感覚に似ている。
全てのシャトルが自分へと来ると仮定して、とにかく奥へと返すことだけに集中するのだ。
三度、四度とスマッシュが放たれた後にドロップが打たれ、清水は前へと出る。少し甘く入ったドロップは、シャトルを白帯から浮かせてコートへと侵入してきた。ラケットヘッドを立てて叩けばプッシュが可能になるほどに。
しかし、清水は余裕を持ってロブを上げる。プッシュを警戒していたのか、宇佐美がラケットでインターセプトしようと平行に移動して清水の前にやってきたが、シャトルは届かない場所へと上げられたことで空振りに終わる。再び岬がスマッシュを放っても、清水は後方に下がってクロスにしっかりとロブをあげた。
全く攻める気がない清水に対して、岬はスマッシュやドロップで足りなくなればハイクリアを使ってとにかく清水のミスショットを誘発させようとするが、清水は厳しいコースは狙わず、シャトルをただただ相手コートに入るように返していくだけ。
「はっ!」
やがて、岬のドロップがネットに当たり、自分達のコートへと落ちる。
三点目が入ったことで宇佐美と岬はこの異常事態に気付いたのか、シャトルを清水へと放ってから二人で声をひそめて話しだす。清水もほぼ休みなくシャトルを打っていたことで切れた息を、何度か深呼吸して落ち着かせてから藤田へと向き合った。
「大丈夫?」
「うん。まだ体力は有り余ってるから」
「このまま……いく?」
「うん。私にできるのは、これくらいだし」
自分にできること。それはしっかりとロブをあげることだと清水は確信していた。
相手の隙を縫ってスマッシュやプッシュを決めたり、ラリーを続けて隙を作り出したり、ギリギリのところを突いたりといった技術は自分にはない。だからこそ、相手コートからとにかくアウトにならないように打ち続ける。
シャトルを拾い続ければ、理論上は負けることはなく、今のように相手のミスショットによって得点できる。
無論、体力の消耗を無視した戦法ではあるが。
(体力勝負になったら……私が勝てるのかな?)
相手は何度か試合に出ていて消耗しているだろう。だが、消耗していても清水と比べて多いかもしれない。
未来のことを考えて、清水はすぐに首を振った。自分にできることは目の前のシャトルが相手コートに落ちるのを見届けること。余計なことを考えている余裕は、自分にはない。
(どんな試合になっても。早さんと相沢に回すんだから)
シャトルを持ってサーブ位置について清水は息を吸う。決められた動作をなぞるように。自分にできることを毎回確認するように。
「一本!」
清水は岬の様子を見ることもほとんどなく、ロングサーブを飛ばしていった。
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