Fly Up! 316

モドル | ススム | モクジ
 早坂はネットの傍から跳ね上げられたシャトルに飛びついて、手首だけを返して打ち返す。シャトルは有宮の右耳をかするように落ちていき、コートへと着弾した。
 着地したと同時に早坂は天井を向いて喜びを露わにする。南北海道の面々は一緒に咆哮し、東東京は逆にため息をついた。
 得点は10対10と同点。追いついたのは早坂だった。
 あと一点で負けるという状況においてサーブ権を奪い返し、更に得点して首の皮一枚繋いだのだから、お互いのチームで明暗が分かれるのは当然だった。だが、当人達にはそこまで意外なことでもない。早坂も有宮も勝つために自分達のラリーを続けているのだから。そこで同点となっても動揺するほど有宮は弱くはなく、早坂もほっとはするかもしれないが、気は抜かない。

「セティングはどうしますか?」
「します」

 セカンドゲームの早坂と同様に有宮は即答する。10点からの2点先取。これが本当に最後で、もし二点を先に取れなくても次があることもない。正真正銘、残り二点でこの試合の勝者が決まる。

「セティングポイント。ラブオールプレイ!」
「一本」
「ストップ」

 互いに聞こえる距離で口にする。ファイナルゲームの終盤となると、早坂も体力の消費が無視できない所まできていた。吼えることで体中にみなぎる気合を発散していたが、今は凝縮して小さな言葉に纏める。シャトルを握り、ラケットを掲げてサーブ体勢を取りつつ、相手に打ち出すタイミングを探す。有宮はこの最後に来ても目の光は弱まらずに早坂へとつきつけられている。

(あと。二点。取る)

 込めそうになった力を打つ直前にかろうじて抜いて、腕のしなりを利用してロングサーブでシャトルを打ち上げる。高く遠くに飛ぶシャトル。終盤にきてもコントロールは衰えることはなく、シャトルはサーブライン上へと落ちていく。
 有宮は落下点よりも後ろから飛び、スマッシュを放った。後ろから勢いをつけると共に飛びあがることで打点も高くする。シャトルは高く急な角度で、速く落ちていく。まるでファーストゲームが始まった頃のような速度にも早坂はラケットを合わせてヘアピンを目の前に打った。最短距離でネットを越えて落ちていくシャトルに、スマッシュを打って着地した有宮が突進する。ラケットを突き出しても、タイミング的に間に合わないはずだった。これまで何度も取れなかったシャトルを完璧に打ち返したのだから、間に合うはずがない。
 だが、有宮はその不可能を可能にした。ラケットはシャトルがコートに着く直前に間へと入り、ヘアピンで返す。
 シャトルは白帯を越えたあたりで軌道を変えて、シャトルコックをぶつけて回転してから早坂のところへと落ちていた。

「サービスオーバー。ラブオール!」

 早坂はシャトルを拾おうとしたが、先に有宮が拾っていた。
 その間も有宮は早坂に一言も発せず、サーブ位置へと歩いて行く。その背中が早坂の側から見えなくなり。真正面が現れるとまたプレッシャーが押し寄せる。

(ほんっとうに……最後まで、折れないのね)

 早坂は冷静に分析して、自分の限界がいつ来てもおかしくないと考えていた。体力も気力も限界に近い。特に、ネットを越えての有宮から発せられる気迫は早坂の精神的なものを削り取っていく。ファーストゲームから更に上がったプレッシャーが収まらないまま最後まで来る。
 それはすなわち、有宮がどれだけ勝利への執念を持っているか。試合に全てをかけているかを表すもの。
 本当にシャトルが相手のコートに落ちるその最後の時までも、油断などできない。そんな極限状況に追い詰められ続けたことで、自分がいつ切れても仕方がないと思ってしまう。

(でも、切れるのは、試合が終わったあとよ)

 次に勝てば決勝があるかもしれず、そこで勝てないかもしれない。だが、それでもここで全力を尽くして勝つ。後のことは、後で考えるしかない。自分を構成する全てをかけて、残り二点をもぎ取るのだ。

「ストップ!」

 有宮が声を出す前に吼える。今までとは一つトーンが低い咆哮だったが、含まれる力強さは今までで最高。サーブ権を奪い、そして、逆転するために身構える。
 その早坂の気迫にあてられたのか、有宮は笑うと、ごく自然な動きでショートサーブを打っていた。

「――くっ!」

 頭では分かっていても体が反応しない。その類のサーブにも、遅れて早坂はラケットを出した。体勢を崩しながらも高くロブを上げて、コート中央に腰を落とす。反応できなかった不利を解消するにはまだ足りず、有宮がオーバーヘッドストロークでドライブを打ったことにもギリギリで反応してラケットをバックハンドで突き出した。

「はっ!」

 ネット前に落とされるシャトルだったが、ツケが回ってきたかの如く、ほんの少し高い。その高さがあるだけでも、有宮には十分プッシュできた。

「やあっ!」

 シャトルが早坂の体、ではなく右端のシングルスライン上へと叩き込まれる。完全にラケットが届く範囲ではなく、反撃は不可能な場所。

「セティングポイント。ワン。マッチポイント、ラブ」

 痛恨の遅れ。最後の一点への扉が、有宮の頭上に見えた気がした。しかし早坂は立ち上がるとシャトルへと向かい、ラケットで拾い上げてから打ち返す。
 サービスオーバーでサーブ権を取り戻してから二点取る。自分のやることに変わりはない。早坂は負けるという不安を思い起こす暇も与えず、思考に筋道を立てさせた。精神力で自分の弱気をねじふせ、相手を叩き潰すための戦略を練る土台にする。

「さあ、ストップ!」

 高らかに宣言してからレシーブ体勢を取る。その様は少し前に有宮が披露した光景にそっくりで、有宮も驚いた表情で早坂を見ている。
 早坂自身も、まるで有宮が憑依したかのような錯覚に陥っていた。目の前に相手がいるのに憑依というのも変だが、その言葉がしっくりとくる。有宮は早坂に笑みを向けてから、鋭く視線をつきつけて「一本!」と叫ぶと同時にシャトルを打ち上げる。高く遠くに上がったシャトルを追いかけてすぐに追いつき、ラケットを振りかぶる。自分のスマッシュを打たそうとする有宮の意図は分かっていた。それでも、早坂はこれまで打ってきたスマッシュの力を凝縮するかのように、ラケットを振り切った。

「はあっ!」

 シャトルを打つインパクトの瞬間に、早坂の頭の中に『パーン!』と乾いた音が響き渡った。これまでにない爽快感を運んでくる音。一瞬、視界がぶれて自分がどこにいるのか分からなくなったほどだ。すぐに視界は回復して、シャトルを取ろうとする有宮が見えたために前に出ようと足を踏み出した。しかし、その動きは有宮が空振りしたことで止まる。
 その瞬間に後ろを振り向いて、自分が捉え損ねたシャトルが着弾するのを目にした有宮は、審判のサービスオーバーの声にまた早坂のほうを振り向く。肩が上下し、明らかに体力がなくなってきたことが分かった。自分が疲れていることを隠せないのは早坂も一緒だったが、その限界の中で打ったスマッシュは、驚くほど体力を奪わなかった。有宮はシャトルを拾うと羽を整えて早坂へと渡す。シャトルを受け取ってサーブ位置につく間も、心は冷えて、波が立たなくなっていく。

(これまでにない、最高のスマッシュが打てた)

 タイミングも力の伝達も完璧だった。次に打てと言われてもきっと打てないスマッシュ。奇跡のような一撃を打てたことにも気分は高揚しなかった。まだ自分は一点差で負けていて、がけっぷちに立たされているのだから。

「一本!」

 全てを過去においていき、未来の勝利を目指す。勝ちとったところで振り返って喜ぼう。それまでは、ただただ突き進む。強い意志で様々な誘惑を抑え込んだ早坂は有宮のドライブを鋭いクロスドライブで打ち返し、反応を遅らせてチャンス球を打ちあげさせた。飛んできたシャトルへと斜め後ろから飛びあがり、ジャンピングスマッシュを打つ。さっきは長く遠くへと打っていたスマッシュだったが、今度は最速で最短距離を突き進ませて、コートを強襲する。今度は有宮のラケットが届き、またヘアピン勝負に持ち込もうとしたようだったが、シャトルは有宮のラケットから大きく跳ねてしまい、ネット前に高く上がった。驚愕する有宮の顔を見ながら、早坂はプッシュでその顔の傍にシャトルを貫かせる。
 コートに落ちたシャトルが転がるのを止めたのと、南北海道のメンバーから声が上がるのはほぼ同時だった。歓喜の咆哮の合間を縫って審判がカウントを告げる。

「ポイント。ワンオール(1対1)。マッチポイント」

 遂に早坂もマッチポイント。ここで奪い返されればまたピンチがやってくる。しかし、早坂はもうそのことを恐れなかった。シャトルがコートに着くまでは試合が続行されるのだから、お互いにチャンスがやってくる。ならば、その時を全力で挑むしかない。
 早坂はサーブ位置の一番前へと体勢を整える。サーブラインに左足のつま先がかかるか否かというところまでギリギリつけて、ラケットを振りかぶった。最後は何も言わずに、ラケットをただ前に振り切る。
 シャトルが高く宙を舞い、有宮のコート奥を侵食する。落下点に移動した有宮はジャンプすると、そのままジャンピングスマッシュを打ち込んできた。早坂はラケットを掲げてネット前にストレートに落とすも、すぐに有宮はクロスヘアピンで逆襲する。シャトルに向かってラケットを伸ばしてロブを打ち返してから、コート中央に戻って互いの戦力を分析する。

(お互いにスマッシュとヘアピンばっかり打ってきた……なら、次にあるとしたら……)

 思いついた早坂は次のショットの瞬間に前に出ることを決める。その思考を読んでもあえて打つかのように、有宮はシャトルをストレートのドロップで打った。カットがかかっていて鋭く、少しだけ空気抵抗を受けて不規則に落ちて行った。
 どんぴしゃりで間に合った早坂はラケットを突き出して、クロスヘアピンを打つ。できるだけ有宮のいない方へ、取りづらい方へと打てば、ヘアピンは圧倒的に有利になる。だが、有宮は体勢を低くして追いつくと白帯にぶつかってくるりと回転したシャトルを打ってきた。早坂は慌てて、シャトルが落ちる前にロブを上げてまた体勢を立て直した。
 再び有宮はネット前に打ってくる。早坂は、一度はラリーをして、またロブを飛ばす。どちらが攻めているかというと、どちらとも言えない。互いに互いの持ち味を潰し合って試合は簡単には決まらなくなっていた。有宮にとっては次を取られれば負けるために、何としてもサーブ権を奪い返そうとして攻撃的なシャトルを打ってくる。自分のミスを全く恐れず。ギリギリを狙って来る相手に対して、早坂も守りに入らずに攻撃に回った。
 有宮が打ってくる攻撃を躱しつつ同時に攻撃する。相手の得意な陣地を侵略して、自分の思い描く世界にする。
 まるでコート上に絵を描いているかのようだ。

(有宮……あんたと戦えて、よかった)

 有宮の渾身のスマッシュをネット前でラケットを止めて打ち返す。強烈なショットでも完全に勢いを殺して打ち返し、シャトルはゆっくりとネット前に落ちて行く。試合開始前の自分にはできなかったこと。試合を通して、有宮と高め合った自信がある。
 有宮はストレートにヘアピンを返し、早坂もネット前にラケットを突き出す。互いにネット前でのヘアピンの攻防。短い時間の間に細かいシャトルが互いの間を行き来した。
 スピンをかけられ二人の間をピンボールのように跳ねて行くシャトル。五回、十回、二十回と打ち合う中で徐々に速度上がっていき、飽和した水がコップから零れ落ちる瞬間まで膨れ上がる。
 そして――

「はっ!」

 片方の声が高らかに響き、シャトルがコートへと突き刺さった。
 ラケットをプッシュの形で止めたままで、早坂は硬直していた。
 静まり返る周囲。動かない早坂と有宮。
 二人の息遣いだけが少しの間だけ流れると、次に生まれたのは、歓喜の声だった。

「ポイント。ツーワン(2対1)。マッチウォンバイ、早坂。南北海道」
「やったぁああ!」

 早坂は両腕を掲げて吼えていた。
 遅れて湧き上がるのは南北海道の仲間達の歓声。そして、客席からの声だった。二人の息もつかせぬ激闘によって試合を観戦していた者達は誰もが心に何かを残されたかのような心地になり、自然と手を叩く。
 拍手はやがて洪水となって、早坂と有宮のいるコートへと降り注いだ。まるで団体戦自体が終わったかのように拍手は鳴り響くが、まだ試合をしている選手達がいることを誰もが配慮して、すぐに収まる。
 早坂と有宮も観客席を見ていたが、拍手が終わると共にお互いへ視線を向けた。

「……負けたわ」
「勝った、のかな」

 有宮の言葉に自信がなさそうに早坂は言葉を返す。有宮は笑ってネットの上から腕を差し出した。その手を見て、早坂はどうしたらいいのか忘れたかのようにぼーっとしている。やがてようやくまだ試合が終わった後の握手をしていないことに気づいて、慌てて手を取った。

「勝ったのよ。今はね。でも、次は負けない」
「次……」
「そう。インターミドルで、会いましょう」

 有宮はそう言って手を離し、コートから去っていく。その後ろ姿は堂々としていて、とても負けた選手とは思えない。早坂はその姿に強いプライドを感じた。ジュニア大会で君長凛と接戦を繰り広げて、彼女が存在しない今大会では事実上、女子選手としては一位だった。そのプライドを持って、最後まで早坂の前に立ち続け、越えられても崩れ落ちることはない。
 自分が負けたということは、それだけ早坂が強かったということだとその姿で語っていた。
 歩いて行く後ろ姿を目で追ってから早坂もまたコートの外に歩きだす。向かう先には南北海道の仲間達。試合をしている武と吉田以外が集まって、早坂のほうを向いて満面の笑みを浮かべていた。ただ、二人だけはその笑顔の中に緊張が交じっている。
 次に女子ダブルスとして試合に出る姫川と藤田だった。

(そっか。次に試合なんだね)

 岩代が負け、早坂が勝った。男子ダブルスがどういう結果になろうとも、女子ダブルスは試合に入る。ある意味、この団体戦の勝者を決める試合だけに、自分よりも重要な試合だろう。
 有宮と二人で作り出した試合の空気の中で行うのは緊張するのかもしれない。

「お疲れさん! 早坂!」
「やったね、早坂!」

 小島と清水が率先して労う。その後ろにつくように他の面々も声をかけたが、早坂はそれらに軽く応えたあとに姫川と藤田に言った。

「詠美。藤田」

 かけられた声に二人の視線が早坂へと集中するのを確認して、確固たる意志を込めて告げた。

「決めてきて」
『うん!』

 二人同時に吼えて、コートへと向かう。二人はすれ違いざまに早坂とハイタッチを交わして、その後は振り向かないまままっすぐにコートへと入った。
 名試合の余韻を残したコートに立つ二人を見ながら、早坂はパイプ椅子へと腰を下ろした。体の力が抜けて、椅子に体重を預けてから、早坂はようやく息を吐いた。

 女子シングルス。対有宮小夜子戦。
 早坂は、掴みたかった勝利を遂に手に入れた。
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