Fly Up! 304

モドル | ススム | モクジ
 早坂は部屋から出て、暖色の明かりの下で一階ロビーまで歩いてきていた。服装は寝巻き代わりの白いTシャツと黒いハーフパンツ。髪の毛は結んではおらず背中の後ろまで伸びている。枕に頭を乗せていたために少し段差がついていた。時刻は夜十時前であり、自分や同年代の中学生からすればまだ起きている時間だが、庄司と吉田コーチに早く寝て明日に備えるようにと言われたため、各自部屋に戻ってベッドに横になった。
 しかし、日頃のサイクルではないため早坂は寝ることができずに、ブラブラとホテル内を歩くことにしたのだった。
 早坂が眠れないのは、もう一つの理由がある。

(気分が高ぶってる……やっぱり有宮と試合をすること、かな)

 自分の気持ちの変化に早坂は大声で笑いたくなる。全国大会に来た頃は体調不良も手伝って、ベストなパフォーマンスを見せられないことで先の試合も不安になり、いつもの自分では考えられないほどにオドオドとしていた。挙句の果てに他県のライバルである有宮自身に諭される始末。おそらく、昨日までの自分は人生で一番駄目な時期だったに違いない。まだ十四年の人生ではあるが、これ以上ないと思えるほどの情けなさだったろう。

(そして明日はきっと、今までで一番辛い試合になる)

 歩いていく中で頭を振り、これまでの自分の回想に区切りをつける。最後に後ろを振り返ると、自分が倒した君長の姿が見えたような気がした。
 改めて前を見ると、幻だと分かっている有宮が立っている。
 早坂は。実力が君長凛に追いついたとは思っていない。手加減された分はインターミドルで必ず雪辱すると心に決めていた。だからこそ、明日の試合は全道大会の決勝で戦った時よりも、苦戦すると自然に思っている。
 それは、有宮もまた君長凛の力に達していないと考えているからだ。
 対戦する同士が互いに挑戦者という気持ちでいる。迎え撃つ立場と挑戦する立場。どちらを意識するかで試合の様相も変わってくると早坂は思う。たとえ今の肩書が北海道で最強のシングルスプレイヤーだとしても、そんなことは意味をなさないのだ。
 肩書ではなく本当の意味は、コートの中しかない。

(って、こんなことばかり考えてるから寝られないのよね――って、あれは)

 早坂は自動販売機の場所まで歩いていき、飲み物を買っている瀬名の姿を目撃した。慌てて姿を隠そうとするが、視界を遮るようなものはどこにもなく、買い終えて振り向いた瀬名の視界に入ってしまう。しょうがなく、早坂は手を挙げていた。

「瀬名。寝たんじゃなかったんだ」
「寝られなかったんだよ。たぶん、早坂と同じね」

 苦笑しつつ早坂は自動販売機の傍まで歩くと、目的のペットボトルを買った。買ったその場でキャップを開けて一口飲む。体の中の乾いていた部分が少しだけ潤い、ほっと一息を吐いた。それから来た道を引き返すと、隣に瀬名が並んでくる。ロビーまで二人は並んで歩き、椅子がある一角まで来てから対面になって腰掛けた。瀬名もまた早坂と同じくペットボトルを買っており、椅子に座ったところでキャップを開けて一口飲んだ。

「どしたの。やっぱり明日の試合のこと考えてて?」
「……そうね。それがほとんど」

 瀬名の問いかけに対して、今更隠し事をしてもしかたがないと早坂はあっさり胸の内を伝える。
 ただ、早坂の言い回しに引っかかりを覚えた瀬名は更に問いかけてきた。

「ほとんどってことは他にもあるの?」
「そりゃ、あるわよ。瀬名のこと」

 やはり隠していても無駄だと、早坂は考えていたこと全てをはっきりと告げる。もう瀬名や、他のメンバーにも胸にできるだけ溜め込まないようにして、すぐに言おうと早坂は決めていた。少なくとも、このチームの間だけは、チームメイトに対して素直にあろうと。
 自分の名前が出されたことで瀬名はきょとんとしたが、すぐにその意味を捉えて腕を組みながら嘆息する。

「全く。あんたは真面目なんだから。別に早坂のせいじゃないでしょ、この足」
「そうかもしれないけど、私が本調子じゃないところを庇った結果、怪我したんだから」

 早坂の言葉に対して、瀬名は痛めた右足首を見せるように上げて、何度か回転させる。それが足首にいいのか分からないため止めるように口を開きかけたが、その前に瀬名は痛みに顔をしかめて自分から止めていた。
 やはり痛かったんだと、早坂は自分のことのように痛い表情で言う。

「ほら。無理しないでよ」
「こうでもしないと早坂も安心できないかって思ったんだけどね。演技力足りなかったわ」
「瀬名に騙し合いは無理だよ」
「単細胞ってこと?」

 お互いに言葉を交わし合い、最後には笑みが漏れる。すっかり普段通りの雰囲気となり、早坂は気分がニュートラルな位置に戻っていくのを感じる。緊張に固くなっていた体も力が抜けていき、リラックスした状態で眠れそうだった。笑いが収まると同時に早坂は頭を下げて謝った。

「ごめん。瀬名。私がもっとフォロー出来れば、瀬名も明日出られたかもしれないのに」

 自分のフォローに回った結果、怪我をしたということはどうしてもぬぐえない。瀬名が否定しても、周りが否定しても自分の中で気持ちが消えないならば、無理に消さずに受け止めようと早坂は決めた。そして、真正面から瀬名に謝罪して、次の日に繋げたいと思えるようになるまで気持ちがほぐれた。
 もし、今、会えていなかったなら明日まで後ろめたさを引っ張っていたかもしれない。その事も言葉に思いとして込める。

「いいよ。私は私で、燃焼しきったから」

 瀬名の言葉は心からのものにも、かすかに濁りがあるように早坂には思える。当人でさえも気づいていないような、無意識の後悔。もしかしたら早坂の罪悪感が思わせている錯覚かもしれないが。
 だから瀬名の言葉に対して早坂は、それ以上は何も言わなかった。自己満足かもしれないが、瀬名の言葉が真実でもそうではなくても、更に追求できる立場でもない。ならばあとは、試合に向けて全力で向かうだけだ。
 もう一口ペットボトルに口を付けてから去ろうとしたところで、二人に声がかかった。

「あ、せなっちにゆっきー」

 顔を向けなくても誰かは分かったが、どこかほっとして視線を向けてから早坂は口を開いた。

「詠美」

 姫川は早坂に名前を呼ばれたことが嬉しかったのか、表情を明るくして二人の傍まで早足で駆けてきた。瀬名に対しては名前呼びを止めたが、姫川へは改めていないはず。その疑問は姫川が早坂の隣に回って腰掛けてから口に出した。

「いやー。まさかまだ名前で呼んでくれるなんて。てっきり、二人は飽きて戻ったのかと」
「飽きたっていうか、しっくりこなかったっていうか……」
「私達が呼び合うのに、名前はやっぱりくすぐったいというか……」
「うんうん。人間、自然と呼びあえるのが一番」

 早坂は瀬名と視線が合い、自分達がどう思っているかということを理解できた。
 自分で言おうと提案しておいてと怒り半分諦め半分の思い。だが、このてきとうさが姫川なんだと、同時に納得する。
 姫川は二人の間で意思疎通が行われたことに気づいたのか、今度は不服そうに頬を膨らませてから呟く。

「何よ。二人して……二人の世界にでも入ってたの?」
「二人の世界って何さ……怪しいわね」
「それよりも、姫川。明日は頼むわよ」

 話が拡大しようとしていた絶妙のタイミングで瀬名が話題を変えた。元々、姫川がこの場に現れた時点で言うつもりだったのかもしれない。瀬名の言葉に注意が早坂から自分に移ったことを確認してから、続きを口にする。

「私はもう無理だから、明日は姫川がシングルスとダブルスに頑張んないといけないってこと。準決勝は早坂だろうけど、決勝は――」
「ああ。準決勝の後に言われたオーダーの話でしょ?」

 姫川は瀬名の言葉を遮って言う。
 決勝のオーダーの話。それを聞いて早坂も瀬名も渋い顔を浮かべる。
 準決勝のオーダーを決めた後に、庄司が録画した東東京の試合を各自見ながら研究を少しだけ行った。その後、解散の前に吉田コーチはもう一つのオーダーを告げたのだ。
 決勝で、もしも北北海道が勝ち進んできた時のオーダーの考えを。
 北北海道とは相性としては悪いほうで、どう組んでもどこかで運を勝ち取る実力があるかという不確定な要素に賭けるしかなくなる。瀬名が試合に出られるならば実力で勝利を奪い取れる可能性も上がるが、実際に無理なのだから仕方がない。
 その不確定な要素の一つが、姫川だ。

「あんたがいま、一番実力が伸びてるのは皆、分かってる。だから、あんたには頑張ってもらわないと」
「うん。そのつもりだよ」

 姫川は全くプレッシャーを感じていないように笑う。早坂はここにきてこれだけ笑える姫川は、本当にプレッシャーを感じていないのではないかと思った。
 だが、姫川も感じているはずなのだ。インターミドルやジュニア大会以降に急激に力を上げてきたおかげで、全道大会や全国大会と未知の領域に次々と突入していっている。自分の知らない場所へと足を踏み入れるには勇気がいる。それだけでも精神的に厳しいはずなのに、皆から結果を期待されているのだから。そのプレッシャーのかかり方は早坂の比ではないはず。

「私はね。有宮さんに言ったように、いつでもゆっきーのシングルスを奪い取る気満々なんだよね」
「……そんなこと言ってたの?」
「瀬名がいない時に、ちょうどここでね」

 瀬名に説明するために、過去の光景を思い出す。有宮がやってきて早坂にしゃきっとするようにという意図を伝えたことが、ずっと昔のように思えた。

「最初は『強い早坂さん』に憧れるだけだった。でも今は『ゆっきー』と一緒にチームメイトとして試合をして、勝ちたいって思ってる。そして、インターミドルでは『早坂』に勝って、一位で全道大会に出場して、君長凛を倒すんだ。だから……強い人と戦って、強くなるのが楽しいし、辛いことも頑張れる」

 姫川は急に鋭い口調で言葉を連ねた。体から発する気迫は試合中のそれと似ていて、不意をつかれた瀬名と早坂は驚いて体を少し引く。そのことに気づいたのか、姫川は気配を霧散させて笑った。

「うん。本当に今は、そう思ってる。せなっちと同じだよ」
「同じ、か」
「うん。同じ同じ。ゆっきーも、せなっちも忘れないで。私達はもう仲間で、ライバルなんだから」

 姫川が改めて三人の間に緊張感を作り出す。それは瀬名も早坂も忘れかけていたこと。明日が終わればチームは解散して、互いの中学へと戻っていく。そして、最後のインターミドルに死力を尽くして戦うことになるのだ。それは当たり前のことだったが、頭では理解している気になっても正確には感じ取れていなかったらしい。姫川の言葉に少し胸が痛くなるのは、ここで得た仲間としての意識がそうさせるのかもしれない。

「ライバルで、友達だよね」

 だが、姫川の言葉を引き継ぐようにして瀬名が言ったことで流れが変わる。早坂も瀬名の口から出るには違和感があるセリフに視線を向ける。二対の瞳が自分を向いたことに照れながらも瀬名は口を開いた。
 紡ぐ言葉を愛おしく、大事にして。

「私もこのチームになるまでは、早坂はライバルで。絶対に倒してやるって思ってて。途中で、諦めたりもしたけれど、やっぱり勝ちたい。絶対に越えるって思えるようになった。同じチームでよかったって思える安心感を今度は自分がってね。でも、このチームが終わったらそんな仲間としての繋がりがなくなるのってもったいないじゃない」
「もったいない、かぁ」

 姫川は「そうでもない」という気持ちを押し出した言葉を口にする。感情を隠さない姫川に笑いながら、瀬名は先を続けた。

「うん。もったいない。私はさ。バドミントンだけじゃなくても、早坂と姫川と友達でいたいんだ。できればこれからもずっと。だから、気持ちいい思い出で終わりにしたい」

 瀬名の言葉が終わった後、少しだけ無言の時間が流れる。早坂も姫川も、次にどう言おうかと言葉を探していた。瀬名の言うことはつまりはシンプルなことなのだ。それに気づいて早坂は口元を笑みの形にして言った。

「よし。じゃあ、良い思い出で終わりたいし。優勝しよう」
「そだね。優勝だ」
「ずいぶんあっさり言うんだね」

 早坂と姫川に対して瀬名は呆れた表情で言う。姫川は笑いながら早坂の肩を叩いて告げた。

「私達にまっかせなさい。必ず勝つよ」
「……私達だけじゃないよ」

 早坂はそう言って指でエレベーターホールのほうを指し示す。示す先を見た瀬名と姫川は、こちらへと向かって歩いてくる清水と藤田の姿を捉えた。
 二人は早坂達三人の姿を見て、遠くから見ても動揺していた。どうして三人がここに集まっているのか分からないという気配が存分に伝わってくる。早坂が自分達のところに来るように手招きをすると、二人はゆっくりとやってきた。

「なんで集まってるの? みんな」
「たまたまよ」

 清水が先に口を開き、早坂が答える。どこかほっとした表情を浮かべた後で、二人はあいている椅子にそれぞれ座る。藤田は姫川の隣に。そして清水は瀬名の隣へと。

「なんか集まったし。プチ女子会議でもする?」
「題材はなによ」
「好きな男子とか。明日の目標とか」
「後のにしよう」

 姫川と瀬名のやりとりに清水と藤田は笑う。やってきてすぐの仕草でも、二人がどれだけ緊張していたか早坂には分かった。瀬名が怪我をしたことで二人の出番は自然と多くなる。元々、ミックスダブルスメインでチームに入って、シングルスやダブルスでも三人のサポートに回るような役割を果たすためについてきた。それが、瀬名の離脱によりそれ相応の役割を果たさなければいけなくなった。早坂はそのことに対しては、瀬名には悪いが良かったと思っていた。

(本気じゃないって言うのも違うけど……やっぱり二人にはもっと中に入ってもらいたい)

 今のままでは三人と二人。そのようなイメージを持っていた。だからこそ、この藤田と清水も全力で勝ちを拾いに行く必要がある状況は悪くはなかった。二人とも、瀬名が抜けた重要性を自覚した上で、責任を果たそうと緊張しているのだから。

「明日。雅美と、かなっちもとうとう主役になれるね」
「主役って……」
「確かに今までは脇役ポジションだもんね」

 姫川のある意味辛辣な言葉にもそこまでショックは受けていない。二人は二人なりに自分の役割を理解していたのだ。その役割が大きくなっただけ。そして、明日の準決勝を勝ちあがることができたならば、二人の人生でも最大級の責任が待っていることになる。

「でも。責任責任言わずに、楽しめるだけ楽しめばいいと思う」

 早坂の言葉に四人の視線が集中する。何か変なことを言ったかと首をかしげていると、瀬名が苦笑交じりに言った。

「緊張を楽しめるのは早坂だけかもしれないね」
「そうかなぁ……私より詠美の方ができそう」

 自分が変な人間のように思えて落ち込んだ声を出す早坂だったが、姫川や藤田、清水が続けて口にする。ここに集まったことへの思いを。

「でも、いいじゃん。楽しもう。せっかくここまで来たんだし」
「明日一日、精一杯自分の試合を楽しんで、応援して」
「最後には優勝しちゃおう」

 三人は次々と右手を前に出して重ねる。円陣の要領で瀬名もまた、手を乗せた。残るは早坂ひとり。全員の視線を集めて、早坂は右手を置いた。

「明日は頑張ろう!」
『おう!』

 五人の声が、ロビーに響き渡る。気合を十分に入れて、早坂は明日への思いを新たにしていた。
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