Fly Up! 258

モドル | ススム | モクジ
 意識が暗闇の中から浮かび上がり、瞼の表面に当たる光に反応する。ゆっくりと目を開けるとカーテンの隙間から淡い光が部屋へと入ってきて、更に武の顔へと当たっている。冬から春へと変わっていく直前の光は冷たさから暖かさを抱いているようだ。武は何度か目を瞬かせた後でベッドから体を起こして両掌を組んで頭上へと体を伸ばした。眠っていたことでなまっていた体が引き伸ばされてだるさが取れていく。

「うーん……」

 口からため息交じりに声が出たところで、携帯電話で設定していた目覚ましが鳴った。時刻は七時半。日曜日。時計を止めたところで特に今日は起きる理由がないことに武は気づいた。
 一週間連続の練習が終わり、今日は一日の休み。来週の一週間を最終調整に費やして、遂に全国大会へと挑む。全道よりも更に上の実力者が集まる全国大会。自分がどんどん先に進んでいる感覚に武は身震いする。武者震いというよりも、未知に対する怖さのように思えた。

(全国かぁ。なんか、上手く行き過ぎのようにも思うな)

 小学生だった時からまだ二年しか経っていない。あと数週間もすれば、中学三年生の十五歳。人生八十年というのなら、まだまだ序盤だが、今の自分が過ごしている時間はとても濃厚だと武は思う。これから先、もっともっと濃い時があるのかもしれないが、今、この瞬間が自分の全てだ。

「ま、今日は本当にだらっとしよう」

 いつもの習慣で起きてしまったが、練習をすることもないならもうひと眠りできる。そう思って布団を被ると、ドアをノックする音が届く。律儀に部屋の扉をノックするのは母親しか思いつかないが、聞こえてきたのは別の声。
 扉の向こうから聞こえる若葉の声にわざと気だるそうにして返した。

「おはよ、武。起きてるんでしょ?」
「今から寝ようとしたところ。何?」
「お母さん達が勘違いして朝食作ったから、食べちゃってって」
「……わかったよ」

 何の気まずさも感じさせずに言う若葉に、武は再度、布団を押しのけて立ち上がる。頭はまだボーっとしているが、体は完全に起きたようで、だるさは抜けていた。これから着替えて階下に降り、朝食を食べれば完全にいつもの自分になるだろう。

(習慣って怖いよな)

 苦笑しつつパジャマからスウェットに着替え、部屋から出る。二回、言葉を交わした時点で若葉はすでに扉の前から去っていたようで、階段を降り切って居間へと歩く足音がかすかに聞こえる。両親もすでに起きていて、何か会話をしている声が聞こえてくる。

(いつも通りの朝、か)

 バドミントンの練習がないこと以外は同じ、朝。武は顔を軽く叩いて痛みに頭をしゃきっとさせてから階下へと降りて行った。

 * * * * *

 ひと歩きしてきたコートの下の体はじんわりと温まって汗がにじんでいるのが分かった。溶けてきているとはいえ、まだまだ冬道であり、まとわりつく雪をうまくかわしながら歩道を歩くのは骨が折れる。結局、自分が白い雪の中で軌跡を描いていく形になり、その道はスポーツセンターへと続く。
 インターネットで調べたところ、今日は一般開放の日でバドミントンも行われているはずだった。武は朝食後に洗顔など一通り活動のための準備を終えると、ラケットバッグの中にシャトルとラケットと着替えを入れて家から出ていた。休息に使うように言われていることは若葉も知っていたために出る前に止めたが、サーブの練習だけと説得して家を出ていた。実際に誰も練習には誘っていない。ただ、シャトルを打っていないと落ち着かないためにサーブ練習をしようとしたのだった。

(それに。あんまり他のやつ誘うと試合したくなるからな)

 吉田や橋本、林など部のメンバーを誘うと必ず力が入ってしまう。そうすれば試合に発展し、もしかしたら怪我をするかもしれない。今の時期に一番危険なのは怪我をすること。練習は集中しているために激しくても怪我する確率は少ないが、こうしたオフの日は注意が必要。そう心の中で何度も念じながら武は入口から中に入って受付で名前を書く。そこに見知った名前を見つけて思わず呟いてしまった。

「由奈じゃん……」

 自分の名前の二つ上に川崎由奈の名前があった。書いた名前の隣に使用人数を書く欄があり、そこには数字で1と書かれていた。自分と同じように一人で来たのかもしれない。

(秘密特訓とかかな)

 名前を書き終えてから、次の使用時間が午後一時からだと告げられる。時計を見ると十一時。体育館のフロアは九時から十一時。十一時から十三時といったように二時間ごとに人を入れ替える。武はちょうど切り替わった直後にきて、更に場所がないという状況のようだ。

「例えば、もう使ってる人と一緒やるってのはどうなんです?」
「それなら、追加で料金を帰る時に払ってもらえれば問題ないですよ。どなたですか?」
「この、川崎由奈、です」

 武は紙に書かれた由奈の名前を指し示す。施設の署員は由奈の名前の隣の人数欄を書き直してから中へと入るように促した。武は内心、簡単に通すことを疑問に思いながらも更衣室へと一直線に向かい、時間をかけずに着替えてからフロアへと入った。
 休日でしかも春休み。フロア全体にバドミントンのコートが形成されている中で、傍に住んでいる小学生から高校生までバドミントンに興じている。真剣な表情で本格的に練習しているコートもあれば、ワイワイと楽しそうに声を上げながらシャトルを打ち合っているところもある。
 武はその中を視線をさまよわせ、目当ての人物を見つけた。
 由奈は武に気づいた様子もなく、バックハンドの体勢でしっかりとラケットを握り、シャトルを持ってネットを挟んだ対角線上を狙っていた。集中を乱すのは悪いと武は黙って由奈の様子を見守る。一瞬あとで、由奈のラケットが振られ、シャトルが白帯ぎりぎりを抜けて向かいのコートへと落ちていく。シャトルコックがサーブライン上へと落ちて、由奈はガッツポーズを取った。

「よし!」

 武から見ても申し分ないサーブだった。自分ならプッシュを何とか打てても、威力は望めないかもしれない。いくら向い側に相手がいない、サーブのみの練習だったとしても今のようなサーブは偶然では打てない。打てる実力があるからこそ、上手く行って打てる。それを偶然や運と片付けるものもいるが、武には力がないものには運も向かないということが分かっていた。

(由奈のやつ。いつの間にあんなに上手くなったんだろう)

 由奈と一緒に部活をしたのは学年別大会までだった。そのあとはほとんどを合同練習に費やし、自分の学校での調整の時もほとんど同じ面子とばかり打っていた。練習時間が伸びることも多かったため、由奈ともたまに一緒に帰るくらい。
 こうして姿を見るのは、実に四日ぶりだった。

(四日か。大会やってたのって考えたら二日だったんだな)

 土曜と日曜の二日間。とても二日とは思えないほどの濃さだったため、もう一か月くらい会っていないのではないかと思うほどだ。バドミントンの実力ならば、だいたいひと月前までのもの。一か月も経てば由奈も変わっていておかしくはない。
 そこまで考えているうちに由奈がポールを通り過ぎて向かいに落ちたシャトルを拾い、次のサーブ姿勢を取る。今度もまた息をひそめて見ていると同じように綺麗で厳しいショートサーブを向かいに落とした。

「ナイスサーブ!」

 ガッツポーズをした瞬間を狙って声をかけると、由奈はびくりと体を震えさせて振り向いた。そして近づいてくる武を見て呆気にとられた顔をしたまま半分悲鳴のような大きな声で叫ぶ。

「た、武!?」
「久しぶりー」

 手を軽く振って手近な客席にラケットバッグを下ろすと中からラケットを取り出し、フロアへと降りて行く。中に入ってフロアの床とこすれてキュッキュッと音が鳴る靴底を堪能しながら、由奈の傍へと近づいて再度言う。

「久しぶり」
「何しに来たの? 今日って確か休養日でしょ」
「よく知ってるなー」
「昨日、メールで私に言ったでしょ」
「ああー。そうだったな」

 記憶を辿って由奈の言う通りだと気づいた武に、由奈は呆れた顔をしつつも微笑む。自分に向けられる久しぶりの笑顔に頬が熱くなった。
 そんな武の様子に気づいたのか、由奈はふふっと笑いながら一歩近づく。慌てて下がろうとする武だったが、由奈は絶妙な距離を取って体を止めて呟く。

「おかえりなさい。頑張ったね」

 由奈の言葉と笑顔に、心臓が高鳴るのとは逆に落ち着いていく自分を感じる。声を聞くだけで。顔を見るだけで。笑顔を向けられるだけで心地よさが体を充たし、疲れも何もかも吹っ飛ぶ。現金な自分に苦笑しつつも、嫌な気持ちではない。

(やっぱり、由奈のこと好きなんだな)

 改めて実感する由奈への愛情。しかし、次の瞬間には温かな気持ちが逆に冷たくなっていく。考えるのはこれからのことだ。全道大会も終わり、次の大一番である全国大会に挑む。それも一週間を使って行われたあとは、すぐに中学三年生が待っている。ほんの二年前まで小学生で、一勝もできなかった自分が今は全道のトップレベルのプレイヤーと争い、次には全国の中に飛び込んでいく。
 インターミドルも終わるのは長くて八月。そのあとからは、高校生まであと半月。その時、由奈は自分の隣にいるのだろうか。

「でも、本当に今日は休養日なのに。なんで来たの?」
「ん? ああ……なんか休むのも変な感じでさ、軽くサーブの練習でもしてようかと」
「武はバドミントン馬鹿なんだね」
「そうかもな。今が一番楽しいかも」
「もっと楽しくなるよ、きっと」

 由奈はシャトルを持ったまま武がいるところとは逆方向へと行き、サーブの姿勢を取る。

「ねえ、少し打ってほしいな」
「いいよ」

 武は応えてラケットを掲げる。由奈が打ち上げたロングサーブを追って軽く後ろに下がると、そのシャトルがしっかりと奥まで飛ばされて、いい場所に落ちてきているのが分かった。全道で戦った相手達とそん色ない軌道。武は驚きつつもラケットの振りを鈍らせることなくドロップを打った。由奈はすぐに前に出てラケットを構える。ネット際でラケット面を平らにし、シャトルが来たところで軽く当てる。回転をかけないためにふわりとネットを越えて落ちてきたシャトルを、武は前に踏み込みながらラケットを振って飛ばした。
 由奈はフットワークを使って後ろへと向かう。その動きはスムーズで思わず見とれた。

(凄いな。正直、驚いた)

 ラリーを続けていくと徐々にフォームが崩れ、精度も落ちていく。正しいフォーム、正しい軌道をいかに動かされても保ち続けられるか。それもバドミントンの実力の一つ。しかし、そもそも打つことができなければ打ちようがない。サーブの時も感じたことを一通りのショットやフットワークで見ることができて、武は心が満たされていく。
 自分のことではなくても、まるで自分のことのように嬉しい。傍に由奈がいるだけで。

「ふぅ。ありがと、武」

 最後に落ちたシャトルを拾い上げて由奈は言う。武も「どういたしまして」と返してから口を開いた。

「由奈は、高校どこに行くんだ?」

 ネットを少し下げつつ聞く武に、由奈は首をかしげる。どうして今、そんなことを聞くのか分からないという顔で見返してくるのを真正面から受け止めて武は言う。

「俺はさ。正直、分からない。このままバドミントン頑張ったらさ、高校はバドミントンが強いところに行くかもしれない。そうなると、もしかしたら、由奈と離れるかもしれない」
「そうなるよね」

 由奈は平然と言ってコートから出る。そして観客席まで歩いていき、自分のラケットバッグからタオルを取り出して顔を軽く拭く。武は由奈を追って同じように自分のラケットからタオルを取り出し、顔を拭いた。汗をぬぐい去ると由奈へ向けてさらに言う。

「そうなるよね、ってだけか? 俺はさ、やっぱり由奈といたいって思ってるんだよ。こうしてバドミントンしてたらあんまり、一緒にいられないけど」
「でも、武はそういう道に行ったんだよ」

 由奈がぴしゃりと告げ、武は身動きが取れなくなった。由奈は無表情のままで武に近づくと、すぐそばまでやってくる。見上げてくる由奈に顎を引く形で視線を合わせる武。

「武は私と違って。バドミントン強いんだから。きっと、高校でも、大学でも。実業団でも活躍していけると思うよ。強い人は強い人なりのそんな辛さがあるんだと思う。ついていけるのは、実力がある人だけ。私は、そこまでないよ」

 そんなことない、と言いかけて武は口を紡ぐ。由奈も馬鹿ではない。先ほどのラリーを一通り終えれば、実力の差ははっきりと武には分かった。更には、武に分かったのなら由奈にも分からない道理はない。

「武は、自分が選ばれてるってこともっと自覚しないと。早さんに怒られるよ」

 唐突に出てきたようで、早坂の名前を言った由奈の考えは武にも伝わる。
 小学生のころ、早坂は孤独だった。実力が飛びぬけていたために誰も対等の関係とならず、寂しい思いを隠していた。それが中学になって、武が追い付き、吉田や小島が。そして、瀬名や姫川などどんどん傍に人がやってきた。彼女の孤独は癒されたのだ。そして、今は武が実力の差によって由奈が離れることを恐れている。

「それでも、俺は――」
「私はさ、ついていけないから、待ってるよ」

 由奈の言葉に武は息を止める。由奈はにこりと笑って、もう一度口を開く。頬を赤く染めながら、照れくさくても自分の気持をはっきりと武へ伝えるために。

「私は待ってるからさ。武は頑張ってきて。帰ってきたら、おかえりって言ってあげるから」

 ぼっと、自分の顔から炎が出たかのような錯覚と共にふらつく武。自分の発言に顔を火照らせて由奈は足早にコートへと戻って行った。背中を見ながら武も深呼吸を何度かして落ち着かせていく。

(なんか、プロポーズされたみたいじゃないか。まだ中学生だろ、俺達)

 恥ずかしさを別のことを考えてぼかそうとするが、心臓はまだ高まったまま。それでも、武は由奈に向けて感謝の思いを送る。自分を待っていてくれる人がいる。それは、自分のことを信じていてくれているからなのだろう。自分と同じように寂しいと思う時があったとしても、由奈は口に出さずに笑っているように武は思う。

「ほんと、強いよ」

 その強さを見習おう。そう決めて武はまたコートへと戻って行った。
 ここから先はもう終わるまで休みはない。だからこそ、最後の休息を楽しんだ。

 そして、全国大会が始まる。
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