Fly Up! 197

モドル | ススム | モクジ
 早坂はこれから試合を行うコートの横にしゃがみこみ、靴紐をしっかりと結んだ。
 コートを挟んで反対側には姫川詠美がいる。先ほど握手をした時に感じた、全道の強豪と同じレベルのプレッシャー、背筋を走る悪寒。それはけして錯覚ではない。錯覚と思えるほど楽天的には構えていられなかった。
 瀬名をラブゲームで倒したという事実が背中を後押ししている。自らもジュニア大会の市内予選で達成しているからこそ分かる。瀬名は、そう簡単にラブゲームで敗れるような選手ではない。達成した時の自分が神がかっていたこともあるが、瀬名もまた全道で試合をしたのだ。そこから何かを得られないで成長しないとすれば自分の見込み違いだが、そうではないだろう。

(つまりは。姫川さんが強かった……ただそれだけよ)

 結んでいる髪の毛をもう一度結びなおすかのように結び目に両手を添える。目を閉じて今日までの自分を振り返る。
 全道で戦った記憶まで続けて、目を開ける。
 この場所は、今までと同じ道の先にあるもの。
 そして、ここで終わりではなく後まで続いていくもの。
 姫川詠美は、越えるべき壁の一つでしかない。

(一つでしかない。とても大きな壁だとしても)

 審判がやってきたところで、二人は同時にコートに入る。姫川は早坂と同じように長い髪をうなじのあたりでまとめていた。そこまで見たところで早坂はぴんとくるものがあった。

(この子、私を真似してるんだ)

 元々髪は長いのだろうか、結び方やコートに入るタイミングまで一緒だとトレースされているような気分になる。おそらくは間違いないだろう。
 コート中央で握手をし、じゃんけんでサーブ権を勝ち取る。互いにサーブとレシーブの位置へ立った。その間、さっきはあれほど会話をしてきた姫川は無言で見てくるだけ。
 笑みでも無表情でもない、早坂には上手く形容できないものを顔に浮かべている。
 相手の心理が急に読めなくなる。

「オンマイライト、浅葉中、早坂。オンマイレフト、清華中、姫川。イレブンポイントスリーゲームマッチラブオールプレイ!」
『お願いします!』

 同時に互いへ礼をして、片方はサーブの構え。もう片方はラケットを掲げて前傾姿勢になる。姫川の位置取りはサーブゾーンの中央より前気味。後ろに思い切り飛ばせば十分な時間を稼げる。

(まずは!)

 ロングサーブでシャトルを思い切り高く打ち上げて、コート中央で腰を落とす早坂。目線はシャトルの動きと、姫川を追っている。
 姫川はシャトルに追いついてハイクリアを放った。ストレートに進むシャトルは確実にシングルスライン上を進み、そのまま落ちようとする。そのコントロールを見破って早坂は次の一手を模索するためにひとまずクロスでハイクリアを放った。

(姫川さんの試合はラブゲームなのに試合時間が長い。つまり、相手とラリーを続けてミスを誘うやり方のはず。なら、長期戦を恐れずに手を探す!)

 ラリーが心情ならばデータを多く集めて道を作る。相手の戦略の上にあえて乗り、そこから突き崩す。
 少なくとも自分の得意な展開に力技で持っていくくらいでなければ全道では戦えないことを痛感した。ラリーはただ続ける物ではなく、相手を自分の支配する領域へと落とすこと。更に、相手の領域から自分も相手も引きずり出すこと。そんな力がいるのだと、知った。
 力を付けるために、こうして新たに立ちふさがったライバルはちょうどいい相手だった。

(絶対に、勝つ!)

 コート中央で待ち構えると、今度はドロップをストレートに。早坂はシャトルを取りに行き、姫川がまだコート中央に戻っていないことを確認する。今の状態ならクロスでヘアピンを打てば取れないだろう。そう判断してシャトルに視線を戻し手首でラケットを振った。狙い通りクロスヘアピンで姫川がいる反対側のネット前へとシャトルを落とす。

「やっ!」

 だが、次の瞬間に早坂の視界に入ったのは、前につめた姫川がプッシュでシャトルを押し込むところだった。

「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」

 思考が繋がらず、早坂はしばらく動けなかった。シャトルを拾うように審判が言ったところで我に返り、一言謝ってからシャトルを取りに行く。シャトルを取り、姫川へと軽く打って返した後も何が起こったのかを思い出そうとしたがはっきりとは分からなかった。
 しかし、予想できることはある。

(姫川さんは確かに、ドロップを打ったところにいた。だから私はクロスヘアピンを打った。そこを、プッシュされた)

 事実を並べると、ある考えに行き着く。それを否定するのは簡単だが、今は一番答えに近い。

(次で、確かめる)

 早坂は構えて姫川の次手を待つ。姫川はラケットを振りかって、サーブを思い切り打ち上げた。それをストレートのハイクリアで返し、中央で待ち構える。姫川は先ほどと同じようにストレートドロップを打つ。今度はそれをクロスロブで奥に返してから姫川の動きを見た。一度前に進んだが、早坂がロブを打った瞬間に前足を踏み込んでバネの様に後ろへ飛び上がるように移動する。

(速い……!)

 姫川の動きは残像を後ろに引いていくように早坂には見えた。
 難なくシャトルに追いついて、姫川はスマッシュをストレートに打ち込んだ。素早い動きでシャトルに追いつき、最短距離でシャトルを早坂のコートへ届かせる。余計にラリーが速く感じられて早坂はラケットを差し出したが、あと一歩届かなかった。

「ポイント。ワンラブ(1対0)」

 得点を受けても停滞なくシャトルを取り、姫川へと返す。受け取ってから軽く会釈をしてサーブ位置に付く相手を見ながら早坂は自分の予測を確証に変えた。

(間違いない。この子は君長と同じだ。フットワークの速度が尋常じゃない)

 全道で敗れた相手、君長凛。そのフットワークはどんなシャトルも取り、素早い攻撃で相手の隙を突いてくる。早坂の得意のカットドロップも君長の移動速度の前にはまったく通じず、プッシュやヘアピンでぎりぎりに返されてしまい、得点を重ねられた。自分の攻撃手段が全て封じられたことで完全なる敗北を喫したのだ。
 その君長と似ている姫川に、背筋を悪寒が駆け上がる。

(まさか、市内にいたとはね)

 今、この時まで才能が開花しなかったのか早坂には分からない。瀬名や自分以外は実力も安定しないプレイヤーばかりだったここに来て現れた新星。試合前に庄司が言った台詞が脳内によみがえる。

(ほんと、やってくれるわね……そして、都合がいい)

 早坂はこみ上げてくる衝動を抑えきれず、少しだけ顔を笑みの形に崩した。それはコートを挟んで向かいにいる姫川にも見えただろう。きょとんとして早坂の笑い顔を見ている。

「ストップ」

 静かに、しかし確かな意思を内包させて早坂は呟き、ラケットを掲げて構える。余計な力は込めない自然体。姫川は大きく売りかぶってサーブでシャトルを高く打ち上げた。独特のサーブから飛ばされるシャトル。早坂が打つ前に十分な時間を取らせ、自分は完全な体勢でシャトルを迎え撃つ。どんなショットも追いついて相手側に返すという強い意志の表れ。

「はっ!」

 早坂はストレートスマッシュを打つ。サイドラインに向かって進むシャトルの前に現れたラケットがそれをクロスへ返し、再び早坂はそれを追う。姫川の動きを一瞬だけ確認して同じ軌道をなぞるようにクロスドライブを打ち込むが、姫川は打たれたシャトルと同じ速度と錯覚する動きで追いつき、今度はストレートにドライブを放った。
 クロスで打ったばかりで体勢が整っていなかった早坂は、中央に戻る前にラケットが届く範囲の外へとシャトルを打たれてしまった。そのままシャトルはコート奥に落ちる。しかしそれは少しずれたのか、線審はアウトの判定を取った。

「サービスオーバー。ラブワン(0対1)」
「ふぅ……」

 一つ息を吐き、シャトルを取りに向かう。だが、線審をしていた後輩が座っていた椅子から立ち上がり、シャトルを取ると早坂へと放ってきた。ラケットを使って絡め取り、礼を言う。
 そこから姫川へと向き合ってサーブ位置に移動した。

(姫川さんの動きは速い。感じた通り、君長と同じくらい。でも、コースはそこまでじゃない)

 この短いラリーの間で早坂はある程度姫川の特徴をつかんでいた。
 素早い動きでコートカバーリングすることで相手がラリー中にミスをする。あるいはチャンス球を上げさせてそれを決めるという守備型のプレイヤー。しかし、動きが速いラリーの間に自分も素早く動くとそれだけミスが起こる。先ほどのドライブをアウトにしたのも勢いが余ったからに違いない。
 そこが君長とは異なる点だった。

(相手は君長じゃない。姫川詠美。瀬名も倒した、新しいライバル)

 どうしても顔が緩むのを止められない。ドロップで相手を崩していく糸口を掴む自分のスタイルにとって、フットワークの軽さでコート上の刺客を無くす姫川のスタイルは天敵ともいえる。その最高峰にいるである君長に後れを取ったからなおさらだ。だが、早坂は悔しさを凌駕するほどの喜びが体中を包むのを自覚した。
 自分の前に立つ大きな壁に触れると心臓が高鳴る。

(楽しい。勝てないかもしれない相手に勝とうと頑張ることが)

 それは本当の辛さを知らないから思うのかもしれない。
 のめりこめばのめりこむほど、出来ないことにやがて恐怖を感じるのかもしれない。
 しかし、今の早坂にはそんな限界は見えていなかった。自分がまだ中学生で、バドミントンに対してまだまだ弱いということを分かっていたから。だからこそ、前に踏み出したい。

(一つ一つ、壁を越えていく。まずは、あなたよ、姫川さん!)

 シャトルの羽を整えて、サーブ姿勢を取る。姫川を視界に捉えて、早坂は腹の奥から吐き出すように叫び、シャトルを高く飛ばした。

「一本!」

 声と共に飛んでいくシャトル。綺麗な弧を描いて、相手シングルスコートの後ろのライン上目掛けて飛んでいく。
 姫川はシャトル落下点の少し後方に位置取り、スマッシュを放った。前二回と変わらずストレート。あくまで最短距離を付くことを軸にラリーを構築する。早坂は一歩前に踏み出しながらストレートにヘアピンを返した。ネット前よりも後方で、コート中央よりは前というような中途半端な位置で捉えたシャトルをぎりぎりネットを越えるように力を加減して返す。そこに姫川が飛び込み、ラケット面を立てた。並みのプレイヤーならば下から打つしかないようなシャトルへとすぐさま追いつけるのが姫川の強み。

「やっ!」

 落ちる寸前だったシャトルをクロスプッシュで打ち込む。早坂は勘でバックハンド側にラケットを構えたまま移動すると、ストレートにロブを打ち込んだ。弾道が低く、遅れればコートへと沈むだろう一撃を、姫川は動きを停滞させないままでクリアを上げた。さすがに体勢が崩れたのか、視界の隅に止まったと同時にバランスを崩した相手が見えた。

(動き出しが速い。打つと同時に前か後ろか、右か左かを判別する速度も速いから、なんだ)

 足の速さだけではなく、早坂が打った瞬間にはもうシャトルを追っている。この手の人種は感覚が鋭いのだろう。早坂も試合の仲で第六感が働き、ラケットを出して当てるなど玉に神がかったプレイが出来る。だが、君長や姫川はそれを自分の意思で出せるのだろう。体重が軽いことでフットワークも良く、視力も良く体も付いていける。
 実際、身体能力は上だろう。
 だが、それでも自分は負けないと早坂は思う。クリアを見ながら、次のクロスドロップを放った。徐々に落ちるような軌跡。姫川のネットを越えた時にはもうぎりぎりラインにも入っており、ネットにも触れない。
 それを姫川はヘアピンで軽く当てるだけで凌いだ。打った位置からでは追いつけず、シャトルが音を立てるのをただ眺めた。

「サービスオーバー。ラブワン(0対1)」

 シャトルを拾い上げる姫川へと審判がコールする。サーブ権を取り戻し、羽をゆっくりと、一枚一枚整えていき、「一本」と言って構えた。感情を表に出さず、あくまでクールに得点を重ねる。その意図を読み取って早坂は内心笑う。

「確かに。今のままだとこのままいっちゃうかもね」

 現状、相手のミスもあるが得点をしやすいのは相手側だった。早坂にしてみれば、現在の必勝パターンをフットワークで潰されている。早坂がサービスオーバーできたのは姫川がアウトにしたから。まだ、攻略方法までは見つかっていないということ。

(でも、そうは思えない。必ず、勝つ)

 早坂は「一本!」と叫び、姫川のサーブを待つ。聞こえるか聞こえないほどの息を吸う音と共に、シャトルが飛んだ。
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