Fly Up! 179

モドル | ススム | モクジ
 カーテンを開くと、窓の外には綺麗な青空が広がっていた。
 太陽光が柔らかい日差しを部屋の中に運び、武は思い切り体を伸ばす。
 時刻は朝の六時。本格的に日光がさしてくるのはまだ先だが、それでも遮る雲のない空は温かさを伝えてくる。

「いよいよだなー」

 とうとう来た。そんな気持ちを抑えきれずに武は寝巻き代わりのジャージを脱いで簡単に着替える。そして、ラケットバッグに入っているものを再点検した。試合用のウェア数着と、ゼッケン。ハーフパンツも二枚は入っている。ラケットも三本。ガットのテンションは十分。
 一つ一つ確認していくごとに、心臓の鼓動が高まっていく。

(朝からテンション上がりすぎだよな)

 何度か深く息を吸い、吐くを繰り返す。そこで部屋の扉がノックされ、すぐに開かれた。

「おっはよ、武……って起きてたか。早いね」
「お前もだろ若葉。そして返事する前に入ってくるのやめろ」

 妹の若葉に呆れつつ、武はラケットバッグのチャックを閉める。自然と肩の力が抜けていつもどおりの自分がやってくる。

(いつもとやることは変わらない。たとえ、パートナーが違っても。一位を目指すだけだ)

 パートナーを変更して約二週間、練習してきた。それぞれ互いの弱点を克服するためにあえて制限をつけて。一日一日しっかりと。練習は自分を裏切らないことは今までの経験から分かっている。

「朝からそんな気負ってたら疲れるよ。まずはご飯食べて、早く行こうよ」
「……そうだな。食べるか」
「うん。今日も応援してるよ〜」

 若葉の後ろについて部屋を出る。階段を下りて居間に入り、両親と挨拶を交わして武は食卓についた。

(試合の日の朝も、ほんといつもと変わらない。行くのが練習か試合かの違い)

 気持ちは完全に平静を取り戻している。自分が昔よりも、試合に対して慣れたからかもしれない。全道での強烈なプレッシャーを今回は感じていなかった。やはりより高いレベルを体験した今、地区レベルではそんなに気にならないのか。

「油断しちゃ駄目よ、武」

 武や若葉と同じくテーブルについてお茶を飲んでいる母親が呟く。穏やかに微笑みながら、その言葉にはしっかりとした重みを乗せて。

「若葉も。何でも慣れた時が危ないの。中学生に絶対なんてないんだから。一試合一試合、しっかりと全力を出してきなさい」
『はい』

 武と若葉の声が重なった。


 * * * * *


 会場である総合体育館の前に武と若葉が着いた時には、もう他の学校の選手達が入り口付近にたむろしていた。武は浅葉中の面々を探し、入り口のすぐ傍にいるのを見つける。
 まだ二、三人だけではあるが、分かりやすい。

「あそこだ」
「まだ早さん達だけだね」

 若葉は少し武の前に出て走っていく。武もすぐ後ろを追っていくと、そこには早坂と由奈。そして橋本がいた。
 特に由奈の姿を見て武はどきりとするも、出来るだけ表に出さないように三人の前に立った。

「おはよー」
「おはよ、わかちゃん」
「おはよう」
「おっす」

 若葉が先に声をかけて、三人は挨拶を交わす。武もそれに続いて「おはよう」と声を出した。
 武へも三人は変わらない挨拶をかけてくれる。武は内心ほっとして会話を続けた。

(気にしすぎなんだろな、俺は)

 由奈とキスをしたことを思い出す。おそらくそれで、一つ恋人同士として進めたのだと考える。
 それを早坂や橋本が知ったらどうなるか。別にどうにもならないとは思っていても、なんとなく昔からの五人の関係が変わってしまうのではないかと思う。

(そんなことはない。少なくとも、今は変わらない。これからも……なんて分からないか)

 試合前。家にいる素の自分とも、バドミントンをしているプレイヤーとしての自分とも違う、心の置き所が良く分からない自分だからこそ感じた不安。
 しかし、話していく内に心が安らいでいく。

(やっぱり、仲間はいいな)

 武は自然と頬が緩み、試合前の穏やかな会話を楽しむ。
 そうしている内に、吉田達二年が合流し、一年がやってきて。庄司もやってくる。全員集まった頃に、体育館の扉が開いて集まった選手達を迎え入れる。

「皆。荷物を置いたらすぐにミーティングをするぞ!」
『はい!』

 庄司を先頭にして武達も体育館に入る。邪魔にならないように即座にバドミントンシューズに履き替えて、順番に控え場所となっている観客席へと上がっていった。
 そして、客席に続く扉を開いたところで向かいから来た人影とぶつかってしまった。

「きゃ!」
「わ! ごめん!」

 幸い、お互いに直前で気づいたのか軽くぶつかった程度で倒れることはなかった。目の前の相手は深く頭を下げて謝った後で顔を上げる。そこにあったのは、武は見たことがない顔。

「あ、浅葉中の相沢君」
「えーと……」
「あぁ。私、清華の姫川です。っと、急いでるからごめんね!」

 そのまま姫川と名乗った女子は武の横を走り抜けていった。
 目で動きを追っていくと、長い黒髪を背中で揺らしながら小走りで一階へと階段を下りていく。その途中は昇ってくる選手達にぶつからないように避けながら走り抜けていった。背負ったラケットバックのかさばりをものともしないそのフットワークの軽さに、武は感嘆する。

(凄い身軽な子だな……女子は全然知らないけど、姫川さん、か)

 相沢君、と呼んで自分を見てきた相手の顔を思い出す。
 フランス人形に近い、彫りの深い顔立ちは武の周りにいないタイプの美少女だった。由奈はどちらかといえば可愛い。早坂は美人の方向にいるだろうが、更に姫川は美人と言うに相応しいと武は思った。

「どうした? こんなところで」

 ふいにかけられた声に反応する。自分の後ろにいたはずの吉田が、いつの間にか距離を詰めていたらしい。近づいてくる吉田の存在を忘れるほど姫川のことを思い返していたのかと武は恥ずかしくなって頬を軽く叩いた。
 目の前で自分の頬を叩いた武に、吉田も驚いて再度尋ねる。

「え、どした?」
「いや、なんでもないよ。ちょっと気が緩んでるらしい」

 気が緩む。朝から親にも言われた言葉。
 由奈とキスをした時からどこか気持ちが浮ついているなと武は思う。
 別に由奈が悪いわけではなく、単に自分が甘いのだ。
 油断していれば必ず隙を突かれる。余裕があるのは悪くないが、慢心してはいけない。
 何度か深呼吸しながら、武は自分達の控え場所に向かう。武より先に来ていた橋本や由奈達が場所を確保し、自分達の範囲はここまでという線引きのために四隅に散らばっていた。武は空いている客席寄りの前の席へと自分の荷物を置いて、フロアを眺める。
 既にバドミントンコートを示す白いテープが張られて十のコートが出来上がっており、ちらほらと基礎打ちを始めている選手もちらほら見かける。その中にさっきぶつかった姫川の姿があった。打ち合っている相手は――

「小島……?」

 立ち上がってちゃんと見ようと、フロアと客席を隔てる手すりに近づく。確かに小島が相手だった。同じ女子ではなく小島と打っているのを見て、武は不思議に思った。

「なんでまた」
「あれは小島よね」

 いつしか傍に来ていた早坂は武に確認するように呟く。視線は小島と、打ち合っている姫川へ。武が表情を伺うと、早坂は少し機嫌が悪いように感じた。

(言わないほうがいいよな)

 そのまま黙って武はバッグの傍に戻り、準備運動を始めた。

(早坂のやつ。小島と何かあったのかな?)

 嫉妬にも見える不機嫌さ。今までの経験からして放っておくのが一番だと武は屈伸など体の各所を伸ばして柔らかくしていく。今日は試合数自体は少ないが、いつもとは全く違う。いつにもまして準備しておくにこしたことはない。
 全道でも思った、試合前の静かな気配。これから激しい試合が開始されるという期待を感じさせる空気の中で、武は徐々に準備運動の速度を上げていく。うっすらと汗をかくくらいがちょうどいい。皆が集まるまでに終わらせてしまえば、すぐにフロアに基礎打ちをしに降りれる。

「よし、皆集まったか!」

 庄司がそう言って周辺にいる生徒達を見回す。全員いることを確認すると、試合のスケジュールが書かれた冊子を配った。武達に場所取りを任せて、庄司は先に大会の運営委員がいる場所に行ってもらってきていたのだ。

「これから開会式まで三十分もないが、ある程度打って体をほぐしておけよ!」
『はい!』

 その言葉に押し出されるように、武は駆け足で下に向かう。すぐ傍には吉田がいる。

「一緒に打つか?」
「いいね、よろしく」

 いつしか全力で階段を駆け下り、すぐにフロアに続く扉を開けた。既に入っている他校の生徒に混じって、空いているコートの半分を取って基礎打ちを始めた。開会式まで時間もないことからペースは最初から早めに。ドロップを打ったらすぐに前に詰めて、相手が打ったヘアピンでのシャトルを奥へ飛ばすというドロップアンドネットを繰り返し、体を温めていく。ドロップからいつしか軽いスマッシュへとシャトルの軌道と打ち方を変化させて、ペースアップ。開始数分で、体を臨戦態勢へと持っていく。

「おっし、スマッシュ行くぞ!」

 肩が温まったと思った武は、上がったロブの下に回りこみ、思い切り飛び上がってスマッシュを打ち込んだ。空気を切り裂いてシャトルは吉田の左肩口へと突き進む。打ちづらい場所だったが、吉田はしっかりと前に落とす。逆に着地して体勢を崩していた武は追いつけず、ラリーは終わった。

「っちゃー。あれを取るか」
「スマッシュは武のほうが速いけど、まだまだ取れるぞ」

 吉田の言葉を聞いて、武は気づかれないように頬を緩めた。
 入学当初や一年の学年別。二年の中体連などとペアを組んできて、スマッシュは同じくらいの速さだったはずだ。だが、今となっては吉田が、武のスマッシュの速さを認めている。自分の武器を磨いてきた結果が、今にある。

「調子よさそうジャン」

 聞き覚えのある声に振り向くと、岩代が立っていた。ネットの向こうには安西の姿。武達と同じく基礎打ちにきたのだろう。

「久しぶり。全道以来だな」
「俺達っていつも試合でしか会わないだろ」

 岩代は笑いながら隣に並ぶ。吉田のほうを見ると安西と何かを話しているようだった。安西は心なしか機嫌が悪いように見え、吉田はばつが悪そうに答えている。不思議に思い、岩代へ安西の様子を問いかけようとした時、武もまた岩代のまとう雰囲気に気づいた。

「どうした?」
「いや。なんでお前ら、今回は別のペアなのかなってな」
「ああ……」

 岩代達は既にプログラムを見て、武達が別のペアだと分かったのだろう。普通に考えれば、今までのペアを解消してまで挑む理由というものはない。武も、今回の目的が個々人のスキルアップだと思っていても、どこかでペアを組んで優勝を狙いたいという思いがあった。

「安西と俺がさ、ちゃんと組んだのが一年前の学年別大会だった。で、初めて準優勝だった」
「その時の相手が、俺達、か」

 武にとっても、初めて吉田とともに挑んだ大会。
 吉田の足を引っ張るまいとがむしゃらに挑み、決勝で岩代達と対峙した。自分の実力不足を補うために必死に頑張って、何かが覚醒した。そして、初めての勝利とともに初めての優勝まで一日で手に入れた。一年前の学年別大会から、武の中学バドミントンは始まったといっても過言ではなかった。

「俺達にとって。お前達はずっと目標だった。二年の中体連で勝てたときは嬉しかった。ジュニア大会の予選で負けたときも凄く悔しかった。ある意味、ここが俺達のスタートラインだ。だから、ここでお前らを倒したかったんだけどな」
「……ごめん」
「謝るとか、相沢いいやつだな」

 岩代は笑って手を振る。安西も吉田にくってかかるのをやめて、岩代のほうを向いたところだった。

「再戦はまた出来る。だから、今回はお前達を思い切り倒す。正規ペアでこなかったことを後悔させてやるさ」

 強い口調で言い切った岩代の内なる闘志に武は気おされる。
 しかし、ふつふつと湧き上がる熱に起きた震えも消えた。

「言っとくが、俺も吉田も、ワンツーフィニッシュ狙ってるぞ」
「絶対負けない」

 お互い一度だけ睨み合い、直後に笑った。
 軽く手をハイタッチしあってから基礎打ちを再開する。
 大会の開始はすぐそこまで来ていた。
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