Fly Up! 130

モドル | ススム | モクジ
 いつもと同じようで違う朝を、武はしっかりとした目覚めで迎えた。妹にも起こされず、着替えもして朝食を食べ、鞄を持って学校へと行く。
 前日には試合をしていただけあって体は筋肉痛で眠気もあることにはあったが、それ以上に思考はクリアになっている。自転車を走らせると風は冷たく、そろそろ北の大地も真っ白に染まる季節の予兆が広がっていった。

「おはよ、武」
「おはよう」

 後ろから追いついてきた自転車の主に軽く顔を向けて挨拶をする。出来るだけ自然にしたつもりだったが、相手から見れば顔をほとんど向けずに見えただろう。
 今まで何度も挨拶を交わしてきた相手が、全く別の人間に見える。
 しかも、とても綺麗に。

(なんだろ。意識するとここまで変わるものか)

 武はそう思いながら、隣を進む由奈を見た。昨日、告白しての今日。武としては友達から彼氏彼女になった初日だからかどう接したらいいか分からずに言葉に詰まる。しかし、由奈は何事もなかったように武へと話しかけてくる。

「昨日の疲れ、凄いでしょ」
「ああ……実は肩が痛くて上がらない」
「スマッシュ打ちすぎじゃないの?」
「打たない俺って俺らしくないだろ!」

 話しているうちに固さが取れたのか、武もいつもの調子になって由奈と会話する。それは思い描いていた「彼氏彼女の会話」というのは物足りないように感じたが、明確な形がない分強くは出せない。

(なんだろね、彼氏彼女の会話って)

 ぼんやりと思っていると、由奈は武の自転車籠に何かを放り入れた。跳ねたそれは軽い箱。綺麗にラッピングが施されたもの。

「昨日頑張ったご褒美。ありがたく受け取ってよねー」
「あ、ああ……」

 由奈は上機嫌で前を向いて自転車をこぐ。武はしばらく籠の中の箱を眺めていたが、ふと気づく。

(これって市販のじゃないよな。まさか由奈が自分で?)

 何が入っているのか分からないが、自分でラッピングしたというならば手作りの食べ物かもしれない。今まで全然無かったこと。由奈のほうがよほど違いを意識しているのかもしれない。

「由奈。ありがと」
「どういたしまして〜」

 由奈の笑顔につられて武も微笑む。学校はもう少し。
 もう少しすればまた新たな戦いが始まる、ほんの少しの休息を。
 筋肉痛に滲む体を武は進ませていった。


 * * *


 授業が始まっても武はどこか上の空だった。由奈からの贈り物のせいというよりも、試合の疲れが授業に入って一気に噴出した形だ。一時間目から国語で現代文となれば、ほとんどやることもない。
 英語や数学などある程度頭を使うならばまだしも、日本語を読んで中身を読むならば自然と出来る。結果、脳の働きが鈍くなり、眠ることになる。

「こら、相沢」

 教師の言葉と共にチョークがいきなり机ではじけた。明らかに頭に狙ったのが外れた結果。失笑が漏れるが机でチョークが四散した武にとっては他人事ではない。削れた粉が鼻に入って咳き込んでしまう。

「えほっ……先生、狙うならしっかり狙ってくださいよ」
「ならしっかり授業を受けてくださいよ」

 武の口調を真似して切り返す教師に武も頭が上がらない。結局、近づいてきた教師が持っていた教科書で頭を一叩きして、授業に戻る。
 それでも武は何か幕のようなものが教室に広がっているように思えた。
 今まで試合の次の日に学校というのは今までに何度かあった。気だるさはあったがそれでもここまで集中できなかったことは無い。

(それだけ、疲れたって事なのかな)

 安西と岩代との試合はまだ武の中に残っている。一点のせめぎあいやラリーの間の駆け引きなど、どれも今まで体験したことが無いほど濃密なものだった。
 自分の力を完全に発揮し、相手の全力を弾き返した。
 それが昨日のことだと忘れかけるほどに、今は遠い世界だ。

(燃え尽き症候群?)

 これから先、全道大会があるのに燃え尽きている場合ではないことは分かっている。だが、一勝一敗で最大の好敵手を相手に勝った。それはある種の達成感をもたらす。そこから新たな目標を得るのは今の武には難しい注文だった。

(今は、無理しなくていいのかな)

 全道大会は今から一月後。冬休みの間に開催される。詳しい話はまだだが、三日間。現地入りする日を一日と数えて四日間は地元から離れる。
 そこに続く道は確かに目の前にあるのに、踏み出す気にならなかった。

(今までこんなことなかったんだけどな)

 思考は繰り返す。バドミントンに真剣に取り組んできたからこそ、伸ばしてきた手が空を切ったような感覚が武を支配していた。今までずっと、金田なり安西達なりと好敵手がいて、目指す場所があった。金田達がいなくなれば、今度は学年別での一位を守ろうと、他の試合でも安西達に負けないように。
 しかし、武と吉田は遂に一位として全道大会に乗り込む。目標は、達成されてしまったのだ。そのことが武から燃えるような闘志を奪ったのか。
 練習が試合後ということで休みなのは助かったと武は思いながら、まどろみに意識を溶かしていく。
 まどろみから回復し、休みが挟まれ、再び授業と夢の世界を往復する。
 そうして放課後にまで時間が一気に進んだところで武もようやく今日の自分を反省した。
 全く身にならなかったことに後悔するも、仕方がないと席を立つ。

「ようやく気づいた」

 声に目線を合わせると、そこには由奈がいた。確かに帰りのホームルームが終わり、掃除が始まる時点で立ち上がったのだが、傍に由奈がいることには全く気づかなかった。自分の感覚も鈍りきっていると思う。

「今日はほんと調子でないみたいだね。部活休みだし、早めに帰ろうよ」
「ん……そうだな」

 自分の中に引っかかりを覚えるが、由奈の言っていることも最もだと言い聞かせて歩き出す。

「あれ、今日は帰りか」

 橋本に声をかけられ頷くと、何かおかしなものでも見たかのように武に視線を向けた。武自身もそう思っていただけに過剰に反応してしまう。

「なに? 別に部活休みなんだし」
「まあ、な。でもいつものお前なら市民体育館行くとか言いそうだったから」
「……そうだよな。なんか俺、変だよな」
「なるほど、色ボケか」

 橋本からふいに不穏な単語が飛び出して武も、更には由奈も橋本を凝視する。口元から否定の言葉を発しようにも詰まってなかなか出せない。そこへ更に追い討ちがかかった。

「別にあなた達がどう付き合おうと勝手だけど、部活にまで影響出さないでよね。相沢は特に。こっちの代表なんだから」
「は、早坂。いやそんなことは」

 早坂が口を挟んでくること自体が信じられず、武は更に混乱する。だが、早坂は武に言葉を伝えるとすぐに教室から去っていく。バドミントンラケットが入ったバッグを持ち出したところを見ると、橋本が言ったように市民体育館で打ちに行くのだろう。

「俺もまあ、昨日の試合の疲れってあまりないし、怪我しない程度に打ってくる。相沢はまあ、疲れてるのに無理には誘わんわ。川崎と仲良くなー」
「お、おいおい」

 結局、否定の言葉を口に出せないまま橋本が去るのを見るしかなかった。

「……どうする?」
「どうするもなにも」

 由奈の問いかけに答えて、武は鞄を持って歩き出す。ラケットバッグは教室に置いたまま――にせず、肩に背負った。しかし行くつもりはない。一瞬だけ高ぶった気持ちを抑えようとしたのだ。

「今日は帰ろう。確かに腑抜けてるけど、それは疲れだろうさ。今の状態で無理に打っても怪我するだけだ」
「そうだね」

 由奈はそれだけ言って武の後ろについていく。
 教室から出ると後は早かった。すでに放課後の空気の中で帰宅の波に乗ればいい。玄関に差し掛かったところで体育館に向かおうとする自分の脚に苦笑し、下駄箱で靴を履き替えた。
 校舎を出るとすでに日が傾きかけている。冬の日差しは短い。あと一時間もすれば太陽は隠れて暗くなる。寒さも強くなり、武にはいつ雪が積もっても不思議には思わない。

「雪、積もるかな」
「積もりそうだなあ」

 自転車置き場に自転車を取りに行く間も、息に混じる白さを確認している。今は一瞬で掻き消えるも、近いうちに真っ白な吐息が空に上っていく。
 ふと、クリスマスという単語が頭を過ぎり、由奈に向けて言葉をかけようとしたその時だった。由奈の視線が、ある一点を凝視して止まっている。武のことも意識はしているのだろうが、動きに反応しようとはしない。
 視線が武の後ろに伸びていると分かって振り返ると、人影が見えた。
 逆光で見えにくかったが、背は武と同じくらい。私服のため、この学校の生徒かは分からない。しかし武にはどこかで会ったような気がしていた。

「お、相沢と川崎じゃん。久しぶり」

 その声は聞いた事があるようで、ない。だが、相手が一歩二歩と近づいてくる中でその姿が現れると武もようやく合点がいった。声も姿も知っている。しかし、記憶の中にあるそれとは違い、身長は高く声は低く成長していたのだ。
 その男の名前を、武は呟いた。

「西村……」

 西村和也。
 かつて吉田とダブルスを組んでいたプレイヤー。
 一年の夏休みに転校したはずの男が、今、ここにいる。普通に考えてこちらに休日か何かでやってきているのだろうが、平日ということを考えると武の中で歯車がかみ合わない。更に一年次と比べて身長が伸びているのも武を動揺させた。
 小学校から中学校へと上がった時点から既に一年以上経過している。その中で急激に成長というのは分からないでもないが、大地のようにさして変わらない例を見ているだけに西村の成長振りは驚きを隠せない。

「今日は部活休み? 久々にこっち来たんで挨拶しようと思ったんだけど」
「ああ……昨日、試合だったから。ジュニア予選の」
「おうおう。そっかー。どうだった? 吉田とお前は代表になれた?」
「ダブルスで一位通過」

 試合結果について西村は嬉しそうに何度も頷く。自分のことのように。
 実際に、自分のことだったのだろう。
 西村は嬉々とした表情で語る。

「俺もさ、ダブルスで代表になったんだ」
「え……そうなんだ」

 文脈からしてジュニア予選のことだろう。西村が転校した先での予選も勿論行われているはずだ。そこで西村の実力ならば全道に出てくるということは容易に予想できる。
 それでも武が何となく違和感があったのは、西村がダブルスでと言ったこと。
 吉田以外とダブルスを組む西村を想像できなかったのだ。

「そんなわけで、今度の大会、上手くいけば当たるかもな。楽しみにしてるわ」

 西村はそう言って背中を向ける。武は引きとめようとするが、先に西村が言葉を発する。

「吉田にも部活があれば会おうと思ったけど、わざわざ無い日まで探す理由はないしなー」

 そんな言葉を残して西村は去る。確かに部活は休みだが、校舎内にはまだ部の面子が残っているはずだ。それを探そうともしないで戻るのは何故だろうと考える。
 他校生となったから長い間は校舎に留まりたくないということなのか。それに頓着するようには思えない。

「あれ、相沢」

 当惑している二人の後ろから声がかけられる。振り向くとそこには吉田が立っていた。呼びかけられるのが苗字に戻っているが特に気にする要素でもない。
 武と同じく自転車を取りにきたのだろう。ラケットバッグは持っておらず。早坂達と体育館に向かう気は無いようだ。

「どうした? なんか驚いて」
「あー、今、実は西村がいたんだ」
「あいつここまで来たんだ」
「知ってたの?」

 武の言葉に吉田は頷いて携帯を取り出した。中身を見せることは無かったが、メールが来たということを伝えていた。

「用事でこっちに来たみたいだ。その間にこっちに探りでも入れようとしたんだろうな」
「探り? やっぱ、ジュニア予選に出るから」
「ああ。あいつは一位で通過してる」

 一位通過。つまりは吉田や武と同じ順位で。
 それ自体は西村ならありえると思っていたが、吉田のほうは武がさほどショックを受けていないことに呆れているようだった。

「相沢……お前、事の重大さ分かってないよね」
「何?」

 吉田は一度息を吐いてから、武に事実を教えた。それ以上でも、それ以下でもなく。

「あいつの地区の一位はそれまで、全国区だったんだよ。そいつらを破って、一位通過してるんだ」

 武の手が微かに震えた。
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