Fly Up! 121

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『いけ、相沢!』

 今から少しだけ幼い橋本が叫ぶと同時に後ろからシャトルが耳元を抜けていく。ネットから浮いたそれはスマッシュともドライブとも言いがたい軌道。結果、甘くなったシャトルを相手がプッシュで橋本の体に叩き込んだ。

『ポイント。フィフティーンセブン(15対7)。マッチウォンバイ――』

 審判の声は最後まで聞こえない。橋本は悔しさに拳を握り締め、あふれ出しそうになる涙を堪える。後ろにいる武を振り向くと、膝に手を付いて前かがみになっている姿があった。肩を震わせ、嗚咽が微かに聞こえてくる。よほど口をかみ締めて我慢しているのだろう。
 自分以上に悔しがっている者の姿を見ると逆に落ち着く。
 橋本は握り締めていた手から力を抜いて武へと近づくと背中を軽く叩いた。
 夢だと分かっていても、武のことは放っておけずに。
 本当にあったか定かではない試合。負け続けた記憶の中で、いくつもの試合が合わさったものだろう。

『整列しようぜ』
『わりぃ……』

 暗い声で返してくる武に、今はそれで十分ともう一度背中を叩き、前に歩き出す。体を起こしてその後ろに続いてくる気配を感じながら、橋本は勝利に向けての行動を模索し始めた。
 武にはショットの力があるし、自分にはゲームメイクの力がある。二つの技能が合わされば強いダブルスが作られるのではないか――

 
 * * *


(あ――)

 我に返った瞬間に、シャトルが自分の目の前に飛んできていた。咄嗟にラケットを掲げて弾き返す。狙ったわけではなかったが、シャトルはネット前に落ちていく。吉田が飛び込んでヘアピンを打つとそれに抗するように林が前に出て、ロブを上げた。後ろから武がスマッシュを打ち込み、林の横を抜けていく。読んだコースへちょうど来たことで、橋本はドライブを武のわき腹を抜けるように打つも武はすぐさま反応し、バックハンドでネット前に打ち返す。

(ここで、更にバック側……)

 ドライブを打った勢いを維持して橋本はネット前に躍り出る。林と入れ替わった瞬間にシャトルはネットを越えようと飛んできた。ただラケットを出してヘアピンに落とすと吉田が一瞬で目の前に現れる。目の前に出てきた吉田のラケットがかき消え、クロスヘアピンでシャトルを橋本の視界から消し去った。

「はっ!」

 サイドステップでシャトルの動きを追い、視界の中に復活させる。ネット前を併走し、シャトルがネットを越えたところでプッシュで押し込んでいた。

「しゃ!」

 得点は十対十。
 二組はここまで互角の戦いを繰り広げている。吉田が拾い続け、武がコートに叩き込む。橋本がかく乱し続け、林が打ったドライブがコートを抉り、最後にまた橋本が叩き込む。
 手数が多いために橋本達の体力の消費は激しいが、それでも武と吉田相手にシーソーゲームに持ち込むには他に手段が無い。自分達が限界以上の力を出さなければ。

「橋本。大丈夫か?」

 林のラケットが軽く背中に当てられる。首だけ後ろに向けて左手親指を立てると背伸びをして見せた。まだまだ体力があることを見せる意味もあり、体の緊張をほぐす効果もある。
 実際、体力に問題は見えない。ただ、常に相手の二手三手先を読んでシャトルを打ち続けるのは精神的にきつい。そこから体力も削られていくことを林も心配しているんだろう。

「まだまだいけるさ。お前がドライブ決めてくれれば」
「かなり他人任せだな」

 橋本の軽口に安心し、林も笑う。
 言葉に含まれた意味はそれだけではないことを林が分かっていると確信し、橋本も前を向いて吉田達に備える。

(そうだ。この試合のキーマンは林だ)

 吉田のショートサーブからのシャトルを無理せずにロブを上げる。後ろに待ち構えている武のスマッシュを取るべく、腰を落として身構える。顔の前にラケット面が来るように、バックハンドで構えていると、ちょうど真っ直ぐに眉間へとシャトルが向かってきた。

「うら!」

 十分に準備して弾き返したはずだったが、かすかにタイミングがずれたのかネット前に浮いていく。ただ、並の選手ではそれをプッシュすることは出来なかっただろう。
 それこそ、吉田や小島クラスでなければ。

「はっ!」

 ネットを越えた瞬間を狙い撃ち、吉田のラケットが空を滑る。
 シャトルは急角度で林の前に落ちていく。完全に速さ負けした結末。だが、林は着弾する直前にラケットを床とシャトルの間に滑り込ませて強引にロブを上げた。コートにラケットを打ちつける音とシャトルを打つ音が連続して橋本の耳に聞こえてくる。

「林!」
「サイド!」

 林の声に反応して横に広がると再び武のスマッシュ。今度は無理せずにドライブ気味のロブを飛ばす。だが、またしても吉田が軌道上に動き、今度は確実にシャトルを叩き落した。

「ポイント。イレブンテン(11対10)」
「しゃあ!」

 吉田が武とハイタッチを交わすのを見ながら、橋本は内に広がる不安を隠すのに精一杯だった。九点目あたりから自分へのショットがきつくなってきている。攻撃を集中されて甘いシャトルを林のほうへ叩き込まれるパターンが確立されつつあった。

(どうやら気づかれた、かな)

 橋本なりにカムフラージュしていた自信はあった。しかし、部活で一緒にいる吉田と武の目は騙せなかったらしい。

「橋本」
「気づかれたみたいだな。こっちの要が林だってこと」

 橋本の言葉の意味が分かったのか、林は息を飲む。それでもすぐに気を取り直して「ストップだ」と呟いて自分の立ち位置に戻る。その揺るがない心は今の橋本にとってはありがたい。

(そう。俺達は俺が散々かく乱して、林がドライブで決めてこそ勝てるんだ)

 次のサーブに抗するために、林はサーブラインぎりぎりに立つ。その後姿を橋本は眺めながら自責の念にかられた。心の重さと共に肩から重みが増していく。

(いろいろ策を考えても俺自体の力は平均的だ。相沢のようなスマッシュも、林のようなドライブも、ない)

 どれも平均的だからこそ、一つ強いショットがあるとそれを返した際に隙が生じる。そこを吉田は狙い始めた。ダブルスというフィールドではドライブが得意なのは利点だ。だからこそ林は勝負が出来る。
 足を引っ張っているのは、自分。ふがいなさに視界が暗くなる。

「橋本!」

 いつの間にかショートサーブをロブで返していた林は叫び、サイドに広がった。

「まだ負けてないんだから、落ち込むなら負けてからにしてくれ!」

 林に叱咤され、初めて気づく。

(林がこんなに試合中にしゃべったのって初めて、だな)

 ポーカーフェイスで基本に忠実に試合を進めるというのが今までの林の印象だった。感情を浮かび上がらせること無く、冷静に冷静にという姿がパートナーの橋本自身からも見えていた。
 しかし、違う。
 林は橋本を支えようとしている。堅実なプレイで行動で示してきた林が、さらに踏み込んで言葉でも。

(林、変わってきてる)

 試合中の進化。吉田や武を外から見て感じていたものが、すぐ傍にある。
 一人の選手の変化。遂にそれは現在の相棒にまで辿り着いた。

(なら――)

 決意の咆哮が響く。

「俺もだ!」

 スマッシュで叩き込まれたシャトルをネット前に落とす。今度はついさっきとは違って全く浮いていない。吉田も追いついたが打ち込むことが出来ず、ヘアピンで落とそうとする。
 そこに、林が飛び込んでいた。橋本の目にも吉田の驚愕が見て取れる。今にもネットと空間の境界線から下に落ちそうになるシャトルを前に突進してきた勢いを用いてプッシュで押し込む。方向は武から最も遠い右サイド。トップアンドバックになっていて、左サイドからスマッシュを打ち込んだ武にとっては移動距離が長くなる。

「うおお!」

 それでも、武が追いついたことに今度は橋本が驚いていた。林も会心の一撃と思ったはずだった。理想の一つを体現したにも関わらず、武はシャトルに追いついてバックハンドからロブを上げていた。バックハンドだが高く遠くに飛んでいくロブ。林はそのまま前に残り、橋本が落下点に入ってスマッシュを打ち込んだ。今、打ち返した武に対して。
 二度目のシャトルにも武は反応し、より早いタイミングでクロスにロブを上げる。橋本はそれに追いつき、再びスマッシュ。しかしそれは前にいた吉田がインターセプトしてネットを越えることがなかった。

「ポイント。トゥエルブテン(12対10)」
「ストップだ!」

 吉田の叫びや武の激励をかき消すように、橋本が吼えた。自分でも予想外の声が出たのか、肩で息をする羽目になる。それでも体から自分を滅入らせる黒いものが抜けたような気がした。
 弱気などの感情は、今はいらない。
 今必要なのは、勝利へ必要な道筋のみ。

「止めるぞ」
「ああ!」

 林と橋本は左掌を打ち付けあう。点数を取られたにも関わらず、橋本達には焦燥が無い。

「まずはストップ」
「そして一本!」

 やるべきことを互いにこなしていけば、おのずから結果が見えてくる。
 それで負けたならば実力が足りなかったまで。

(そうだ。相手に勝つために試合をしているんじゃない。試合に勝つためにやっているんだ。だから、俺が弱いとか強いとか気にする必要は無い。それが、ダブルスだ)

 橋本にとってのダブルスの意味。
 それぞれの役割をこなす事で、結果が出るのが橋本にとっての、そして林にとってのダブルスだった。

「うおら!」

 放たれたシャトルを打ち返す。相手の陣形を見て、次の動きを予測する。長年一緒にいた武の行動を読み、その裏をかく。裏をかくと見せかけてかかずに打つ。どういうパターンだろうと武と吉田は追いつき、返してきたが抜かれた先にいる林を信じて橋本は打ち続ける。
 自分が抜かれても、必ず林が拾って打ち返してくれると信じている。根拠はあるが確証はない。でも、いつかは林もミスをするという未来を橋本は信じてはいなかった。堅実にきたシャトルを打ち返し、低く低く落とし続けるという基本的な戦術を丁寧に守り続けるプレイを、信じていた。
 実際、橋本も林もシャトルを中々上げないために武と吉田はドライブやヘアピン勝負に持ち込むしかない。他のショットの威力も大きいが、武のスマッシュを封じているだけでも十分効果はあった。林が落としたヘアピンを吉田が同じように返す。今度はそれを橋本がヘアピンで落とす。一ゲーム目も終盤に差し掛かっているが、二人の集中力は高まっていった。

「ポイント。サーティーンフォーティーン(13対14)。セカンドサーバー」
「しゃ!」
「簡単に勝たせないぞ!」

 奪い返したサーブ権で点数を取る。あと一点取ればセティングで首の皮一枚勝利への可能性が繋がるはずだった。
 だが林のショートサーブに対して吉田がプッシュを決める。集中力が高まっているのは吉田と武もだ。

「そう簡単には、抜かせないぜ」

 吉田がシャトルを受け取ってすぐにサーブ姿勢を取る。慌てて林が構えた瞬間を狙ってロングサーブが飛んだ。

「うわ!」

 林もこれには対応が難しかったか、クリアで奥へと飛ばす。
 そこには武がすでにラケットを身構えて待っていた。
 押し寄せるプレッシャーに腰を落として待ち受ける林。
 だが、橋本は嫌な予感がして少しだけ前に出た。

「はぁっ!」

 弾道が鋭い、ドロップ。スマッシュのフォーム。スマッシュ直前に力を緩めたために、軌道は同じで速度の緩急がついていた。
 林は硬直した足を動かす事も出来ずに、シャトルが目の前に落ちるのを見ていた。

「ポイント。フィフティーンサーティーン(15対13)。チェンジコート」
「次、ストップ!」
「おうよ!」

 まだ、橋本と林の心は折れていない。
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