Fly Up! 106

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「であるからして、夏休みというものは――」

 終業式のために人が密集した体育館の温度はじわじわと上がっていた。
 全校生徒が集っているのに加えて、校長の話が長引いていることが深刻な要因だ。貧血で女子が数名倒れて保健室に運ばれていたが、校長は考慮する気がないらしく、話はクライマックスへと入るところだった。
 ストレスが溜まりそうな話を生徒達が耐えることができたのはひとえに、休みへの期待だった。話が終われば終業式は散会。その後に各教室へと戻って担任からいくつか話を聞けば、夏休みが始まる。
 これまでの生活とこれからの夏休み。個人差はあれ、生徒達の未来は綺麗な色で染まっていた。
 校長の話を尻目に後ろや隣の仲間とひそひそと話す生徒達。教師達からもその様子は見えているはずだったが、さすがに長い話に疲れているらしい。

「なぁ、杉田。お前はどうするん?」
「あ? 俺か?」

 静かだが弾む会話。その中で一人、流れに乗らずぼんやりとしていたのは杉田だった。

「お前はバドミントン部だったか……うちの部って強いんだろ? お前そこでも強いほうだったよな。じゃあ夏はずっと?」

 話しかけてくるクラスメイトは単純に強い部というのに憧れているのだろう。杉田は言葉を返すことなく前を向く。見ているのは教師ではなく、後ろの壁に飾られた校旗。それさえも視界に入っているだけで認識できているわけではなかった。

「まあ、部活だろうなぁ」

 言葉に力が入らない。杉田の力の抜け具合にクラスメイトも聞く気を無くしたのか、別の級友と話し始める。かすかに聞こえてくる声も右から左へと抜けていく。
 何もかもにやる気が起きない。それは杉田にとって初めて経験することだった。それまでは何かをやればそれなりにこなせた。勉強もこれから教室に戻ればもらえるが、オール五とはいかないまでもそれなりに高得点だろう。
 なにか特定のものにやる気を出すということがなかった代わりに、やる気が減退することもなかった。しかし今は精神の気だるさが体にまで影響を及ぼしている。
 原因を探る程度の思考力は保っていた。ぼんやりとだが、見えているものはある。

(島田、さん)

 打っても打っても攻めきれなかった。代わりに自分が攻められて敗北した相手。
 クラスメイトに言われるまでもなく、杉田は自分の強さに自信があった。吉田や武に比べればまだしも、同年代の中では小学生からやっていた橋本にも負けない自信があった。
 だが、今の杉田は迷っている。今のままでは林や大地にさえ負けるのではないかと。

(はぁ、どうしよう、かな)

 バドミントンのことを考えると頭が重くなり、胸のうちが黒くなる。だから杉田は考えることを止めていた。



『夏休み(杉田隆人/小林大地)』



 クラスでの最後の話が終わり、夏休みへと帰っていく生徒達。その中でもグラウンドやテニスコートに向かう運動系の部員や合唱部など文化系。部員の流れを横目で見ながら、杉田は自分の机に頬杖を付いて窓ガラスの向こうを見ていた。青空を漂っていく真っ白い雲。縛るものもなく、空を進んでいく雲に見とれながらため息をつく。

「あれ、杉田。いかないの? 部活」
「……行く気しねーんだよ」

 声をかけてきた相手に顔も向けずに杉田は答える。その態度にも慣れているのか、相手は杉田の前に回り込むと顔を覗き込んだ。

「なんか三年との練習試合後から変だよね」
「……なんで分かるんだよ」
「そりゃ見てたもんね」
「相沢をだろ」
「そ」

 そう言うと相手――藤田雅美は髪に左手を添えた。同学年の女子バドミントン部員。実力も女子の中では早坂、清水に次ぐ三番目。境遇が似ているからか性格が一致したのか、二年次に同じクラスになってから部を超えて話すことが多くなっていた。
 肩より少し長めに伸ばした髪を弄びながら杉田の次の行動を待っている。

「お前もなぁ。いい加減諦めろよ。あいつには川崎いるだろうし」
「さすがにもう恋愛感情はないわよ。ただ、プレイとか見ててかっこいいなと思うだけ」

 声に透明感があると、杉田は思う。藤田はけして虚勢を張って武に惚れていないことを強調しているわけではない。おそらくは、次の恋までは寄りどころを作っておきたいということだろう。

「まあ、ほどほどにな」

 話しているうちに行動する気力が沸いてきて、杉田は立ち上がるとそのままラケットバッグを背負い、鞄を持って歩き出す。

「部活行くの?」
「いや、帰る。誰かに聞かれたら体調不良らしいとか言っておいてくれ」
「ちょっと杉田」

 藤田の声に混じる心配に気づく。それには答えず、ただ手を上げて「じゃな」と呟くと歩幅を少し大きくしてその場から歩き去る。
 廊下を抜け階段を降り、下駄箱に近づくと前から見知った顔が駆けてくる。トイレにでも行くつもりかと杉田は内心で思いつつ、特に声をかけない。だが相手――大地が立ち止まって杉田に声をかけた。

「あれ、杉田。帰るの?」
「ああ。体調悪いから帰る」

 それだけ言って、杉田は自分の靴を取ると踵を踏むのも構わずに校舎の外へ出ていた。
 降り注ぐ太陽の光に杉田は目を細めた。外に出てしまえば体育館の中の音は当然ながら聞こえてこない。しかし、秋の大会に向けて二年生を中心にしたチームが始動している。練習試合から一月ほど経ち、すでに部長は吉田に決まり、武が副部長となった。女子は部長に早坂と副部長に清水と由奈が配され、五人を中心にして部が動き出す。
 その中で自分だけが異物のように感じてきただけに、外の開放感というのは杉田にはたまらなく魅力的だった。

(いっそ止めちまおうか)

 練習試合が終わってから何度か考えていたことが、頭を過ぎる。どこか居心地が悪くなり、自分の存在意義を見出せなくなったのなら、止めてもいいのかもしれないと。

(別の部活でもいいかもなぁ)

 ぼんやりと考えながら自転車置き場へと足を向ける。ラケットバッグの重さを右肩に感じていると、少しだけ後ろから駆け寄ってくる足音に気づけた。

「ん?」

 足音だけで誰かを分かるとは杉田も考えていなかったが、いつも聞いている感じのするもの。咄嗟に口から主を呟いてしまう。

「大地?」
「わっ! なんで分かったの?」

 少しだけ息を切らせて立っていたのは大地だった。先ほどすれ違った時から急いで着替え、杉田を追いかけてきたのだろう。額に玉の汗が浮かび上がっている。

「お前、なんで? 部活だろ?」
「杉田こそ」
「俺は体調不良だよ」
「そんな嘘はいいよ」

 そう言って大地は杉田の隣に並んだ。帰るつもりもないようで、杉田は諦めて何も言わない。

「久々に打ち合って欲しいんだ。部活だと全体練習多いし場所取れないし」
「だからサボったのか?」
「自主練自主練」

 大地は楽しそうに杉田を追い越した。杉田はその背中を見ていて、大地の身長が伸びていることに気づく。自分が小学生の時から背が高かったからか、中学の身体測定ではクラスメイトや部活の仲間達と比べて成長度合いは少なかった。その杉田から見て大地の成長は羨望を抱かせる。このままいけば自分の背を抜かすのではないかと。

「大地、背伸びたな」
「そう? 相沢みたいなスマッシュ打てるかな」
「あいつのは……まだまだ難しいんじゃないか?」
「よーし、練習しよう練習」

 大地に流されてバドミントンの話をすると、楽しいと杉田は思う。嫌いになったわけではない。ならばこの辛い気持ちはどこから来るのか。

「杉田ー。早く行こうー」
「おう」

 大地の後を追う杉田。体育館からの距離が離れていくともに軽くなる肩と、重くなる心。相反する二つの要素に杉田の精神は削れていく。それでも大地の明るい笑顔を見ていると穏やかになっていた。


 * * *


 自転車を駆って帰り道の途中にある市民体育館へと赴き、暑さから逃げるように中に入る。それぞれ一本ペットボトルを購入してからフロア内に足を踏み入れた。
 中ではすでに半分がバドミントンコートで埋まっている。プレイしているのは自分達と比べて身長も高く、高校生か大学生だと杉田は読んだ。少し視線をめぐらせて見れば、市内の大学名が入ったユニフォームを着ている男が試合をしている姿を見て取れる。

「あそこ空いてるから移動しようー」
「お、おう」

 大地の後をついて歩く。しかし視線は大学生達のプレイに行っていた。武や吉田とは比べられないほど速く移動し、ガットが切れるんじゃないかと思えるほど音を立ててシャトルを叩き落す。弾かれたスマッシュは打ったと思った瞬間に相手の前に出現していたが、更にそのシャトルを簡単にヘアピンとして返している。

「かっこいい……」

 一つ一つの動きが中学生と違った。吉田よりも強い相手は小島など見ているが、彼らでも敵わないのは明らかだった。

「杉田?」
「いや、凄いよなあの人等」

 大地にも大学生に視線を移させる。感嘆の声が聞こえて杉田もそうだろうと相槌をうとうとしたが、その前に更に驚かされる言葉を大地が言った。

「あれ、桜庭先輩だ」
「……え?」

 大地が指差す方向を見ると、ちょうどスマッシュを打ち込まれているプレイヤーが見えた。コートに方膝をついて肩で息をしている。試合は終わったようで相手の大学生も前に出てきて握手を求めていた。
 応える様に、まずは立ち上がる件のプレイヤー。

「あ」

 その姿は確かに桜庭だった。杉田達の二つ上。今は高校一年として市内にある私立高校に通っているはずの男。近年の浅葉中でも最強のプレイヤーとして皆から羨望の眼差しを集めていた男が、大学生に敗北している。その姿に杉田は力が抜けていくのを感じる。

(桜庭さんでも……あんなに、なるのか)

 強いといっても所詮中学の中で。更に言えば、全道でも全国でももっと強い相手は沢山いる。
 ならば、自分はどれだけ小さい存在なのか。
 自然とラケットを持つ右手が震えてきていた。

「杉田。バドやらないの?」
「……世の中、広いよな」

 大地の問いかけに答えず、杉田は呆然としながら呟いた。自分の世界で強かったはずのプレイヤーがちょっと足を外に踏み出せば格下になる。中学一年間で強くなったと思っていた自分が、一気に崩れ去っていく。

「そりゃ高校生や大学生のほうが強いでしょ。当たり前ジャン」

 しかし、大地は杉田と同じ物を見ても、違う何かがその目に映っているようだった。杉田は視線を大地に戻して問いかける。

「なあ。何で大地はバドミントン続けられるんだ?」
「そりゃ楽しいからだよ。シャトル打てるようになると楽しいし」

 あまりにもあっさりと答えられてしまい、杉田は拍子抜けしてしまう。単純過ぎて考えもつかなかった理由に、聞き返してしまう。

「本当にそれだけ? 試合で勝ちたいとかは?」
「打てるようになれば勝てるでしょ。俺はそれよりは全部のショットを打てるようになりたいんだ。だから基礎打ちって好きなんだよね」

 その言葉もまた事実。知識として、情報としては杉田の頭の中にあった。全てのショットを打てて、フットワークもしっかりしなければ勝てないということ。逆を言えば、しっかりしていれば勝てる。
 そんな当たり前のことさえも見えなくなっていた自分。何に追い詰められていたのかが頭の中に入ってくる。

「ほんと、杉田っていい格好しいなんだね」
「……そうだな」

 恥ずかしさに頬が赤くなる。左手で顔を隠すと同時に武を髣髴とさせる咆哮が耳に届く。視線を声の方向に移すと、違う相手を試合を始めた桜庭がいた。ちょうど左拳を握り締めてガッツポーズをしている。

「あれだけやられてたのにな」
「桜庭先輩も頑張ってるんだね」

 大地の言う「頑張る」という言葉が、実は大変なことなんだと杉田は思う。成長するには辛いことをするしかない。辛いことを耐えるにはモチベーションを高める必要がある。大地のように自然体で望むことが一番難しいはず。誰もが勝つことへの欲や、負けることの惨めさを考えてしまい体が動かなくなる。

「なんで大地はそんな自然体なんだよ」
「試合出たことないし」

 あっさりと言った大地に思わず笑ってしまう。体に巣食っていた重みが消えて、息を深く吸えるようになったと杉田は思った。

「よし、じゃあ始めるか。基礎打ち」
「うん」

 ラケットバッグの中に入っているシャトルを取りに戻ると、自分の携帯が震えている音が聞こえた。取り出してみると既に納まっている。
 メールが一件。差出人は、藤田だった。

(なんだ?)

 メールを開くと無機質な文字。

『無断でサボったから先生や吉田君怒ってるよ。明日、頑張ってね』

 一つため息をついてから「何を頑張るんだよ」と呟く。おそらくは今頃、藤田も部活で頑張っているのだろう。自分と同じと思っていたが、それが思い込みであることに杉田は気づく。

(俺、凄くかっこ悪いじゃん)

 自分のことに苦笑して携帯をバッグにしまう。振り向くと大地が微笑んでいた。何のメールなのか分かっているのか、笑みを崩さないまま言った。

「一緒に怒られよう」
「……そうだな」

 明日のことはとりあえず置いておき、杉田は大地の待つコートへと戻っていった。
 自分の中でバドミントンへの思いを新たにして。
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