その部屋には電気もなく、ただ何か腐ったような匂いが充満していた。

 その中にいるのは男が一人、傍らにある白い布で包まれた物に手をかぶせて頭を伏せている。

 時々体を震わせて嗚咽を洩らすところを見ると、どうやら泣いているようだ。

 白い布に包まれた物が何なのかはすぐにはわからなかったが、男が体を揺らした反動で

台の上に乗っていた物の一部が白い布から飛び出した。

 それは紛れもなく人間の手だった。

 だらりと垂れ下がった手の甲には青痣がくっきりと浮かび上がっている。

 それを見て男は片方の手でその手をぎゅっと握った。

 そのまましばらくじっとしていた男は、やがてその場に立ち上がると台の上の物を覆っ

ていた布を乱暴に取り去った。

 そこにあったのは女性の――死体。

 着ている服から覗いている全ての肌は痣で埋め尽くされていて、顔は既に腐りかけて原

型を留めていない。

 その姿を見ただけで死ぬ寸前まで酷い暴行を受けていたことは明白だった。

 ここは治安警察隊建物内の死体安置所だった。男はやがて耐え切れずに視線を死体から

反らすと何事かを絶叫した。

 喉が壊れるまで、自分が壊れるまで叫びつづけたかった。

 深い悲しみが男を支配する。



 何故? 彼女が殺されなければならなかったのか?



 何故? 自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか?



 他に幾つもの質問が自分に問い掛けられて、消えていく。どれも返答は不可能だった。

 男は既に心を殺してしまっていたから……。

 絶叫している中で様々な思いが浮かんでは、消えていく。

 今まで彼女と過ごした思い出や、これから送るはずだった幸せという名の人生。

 挙句には自分が生きてきた今までの出来事がまるで走馬灯のように男の頭の中を走り抜

けていった。

 しばらくして喉が破れて血の味が口内に染みてくると、激しく咳き込み血の塊を吐き出した。

それからしばらく咳き込みつづける。

 それが終わった時、男の表情が一変していた。

 さっきまでの涙で崩れていた表情は消えてまるで人形にでもなったかのような無表情。

 眼は鋭く細められてあからさまな殺気を放っていた。

 男は鋭く細められた瞳で改めて女性の死体を見つめる。そうして視線を巡らせていると

ふと手の部分で止まった。

 女性の指には指輪がはめられていた。

 男の指にはめられている物と同じ物である。

 男は鋭い眼とは裏腹に優しく、腫れ物に触るように彼女だったモノの指を取ると、そこ

から指輪をさっと引き抜いた。

 男はそれをポケットにしまうと部屋から出て行った。

 誰にも姿を見られる事無く。

 その瞬間、彼は死に、そして甦った。

 復讐鬼として……。





 フェナ=ノーストラインは夏の夜にはありえない肌寒さを感じて思わず手に持っていた

野菜を取り落として体を包んだ。

 夏用の狩猟服に包まれた体を何とか寒さから守ろうと体をさするが全く効果はなく、寒

さは強まるばっかりだった。

(いったいどうしたの……?)

 彼女がスーラニティ近郊にあるこの森に住むようになってから既に十年が経っている。

 僅か六歳の頃からこの森に慣れ親しんできた彼女にとって初めて体験する寒さだった。

 しばらく寒さを体験してからフェナはふと、ある事に思い至った。

 この寒さは、現実の寒さではない。人の心の寒さなのだ。

 フェナは意識を何とか集中させて雑念を取り去る。そうするとさっきまでの寒さが嘘の

ように引いていった。

 実際、この寒さはフェナしか感じる事のない寒さだった。

 フェナは生まれた時から人の心の思いを感じる事ができた。

 特に悲しい事、辛い事が彼女の中に入ってくるたびに彼女の体には寒さという形になっ

て押し寄せるのだ。

 今はある程度自分の力を調節して感じる事を制御しているが、六歳の時に能力のために

迫害されて町を追い出され、その時に自分を産んだ母は死んでいた。

 この森に住み着いた彼女はもう町に帰るという考えはなかった。

 彼女自身、この森を気に入っているし、密猟をしようとした人達に制裁を加えたりもし

ている。

 しかしこの時は違った。彼女は『痛み』がやってきた方向を見て激しい恐怖感と、寂し

さを感じた。

 彼女が能力を押さえていたにもかかわらず、その『痛み』をフェナは感じる事ができた。

 そこまで凄まじい悲しみなのだ。能力が普通に発動していた時に来たとしたらフェナは

おそらくショック死していただろう。

 その事にフェナはそこまで巨大な悲しみとは一体どういうものなのか、という疑問に駆

られた。

 これだけの悲しさが人を襲った時、人はどうなってしまうのか? 少なくともまともな

人生は送れまい。

 フェナはその事に深く恐怖し、どうしても助けてあげたいと思ったのだ。

「助けなきゃ。この痛みの人を……」

 フェナはそう呟きながら家の中に入っていった。夜空には星が瞬いたがそのうちの一つ

が流れ落ちていく。



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