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猫耳エプロンメイド・プリンたん

「ごちゅじんちゃまー♪ 今日のおかずは女体盛りですよー。レシピは魚とわ・た・し(はぁと)」
 言葉のとおり、身体の上に刺し身が乗っているから全く動けずに首だけ上げてプリンが言った。彼女の本名は宝子志黛乃(ほうし・したいの)と言うらしいけど、初対面の時に本名を言ったら泣かれてしまったから、今はもうメイドネーム『プリン』で通している。
 プリンの目は顔の半分くらいの大きさで、鼻と口は小さい。髪の毛は青色のロングヘヤー。染めたというよりも生まれつき青いと思えるような鮮やかさ。
 当人もそう言っているけれど、そんなわけはないだろう。
 でも、そう信じてもおかしくない。だって、彼女はプリンだから。
 耳は横ではなく上についていて、ぴこぴこと動いている。最初見た時はどういう仕掛けなのか驚いたけれど……今はもう違和感は無かった。
 だって、彼女はプリンなんだから。
 それで済ませられるほど、今の僕は彼女を受け入れている。
「おやおや。メイドが制服を脱いじゃ駄目だろう? 主人が脱がすまで」
 僕も主人になりきって、メイドのオイタを叱る。メイドの制服はすなわちメイド服。このメイド喫茶ではエプロンだけだったが、立派なものだ。
 表に『ご奉仕万歳』と刺繍されたピンク色のエプロン。裏地には『命の洗濯を』と手書きで書かれている。それはプリンが自分で書いたらしいが、裏なので見えない。本当にそんな言葉が書かれているのかは、プリンのみぞ知る。
 下はさすがに下着をつけていて、フリルのついたピンク色の三角地帯だった。
 ピンクは更に続く。肌もほんのり桃色に染まり、エプロンの横からは少しはみ出ている胸の欠片が見える。僕は胸の大きさとか分からないけれど、多分Dとか言われる領域なのだろう。妹も母もAと言ってたから、僕には神が住む場所だ。
「ごめんなさぁい」
 プリンは溶かした砂糖をまぶしたドーナツに更にハチミツをかけたような甘さをかもし出して謝ってきた。拳を作れば全部入ってしまいそうな目に広がる小波。あふれ出そうになる涙を、僕は人差し指で掬い取った。
「いいよ、プリン。君の奉仕魂(サービスゥォオウル)は分かっているよ。可愛い仔猫ちゃん」
 指の液体を舌に乗せると、食べるヨーグルトの味がした。直前に食べたミルク味。
「さあ、食べることにするよ。君の愛を」
「はぁああん! ご主人様! 食べて! ワタシの全てを食べてえええええ!」
 割り箸を手にとって割ると、一つ一つ乗っている刺し身を掴む。その度にプリンがびく! びく! っと震えて快楽を表す。主人に全身全霊を込めて奉仕しているという事実が、彼女を桃源郷に連れて行くんだろう。そんな彼女の健気さを見て、僕も頬が熱くなった。
「美味しいよ。美味しいよ」
「ご主人さまぁあん」
 冥怒喫茶は今日も、嬌声が響いていた。

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 僕が冥怒喫茶に出入り――正確には『帰宅』するようになったのは、蝉が鳴く夏場の一時。大学受験に失敗して都心の予備校に通いだした頃だった。
「なあ、メイド喫茶行ってみないかしら?」
「メイド喫茶?」
 その提案をしてきた田中という男はマッシュルームカットの男だった。モミアゲは太く長くカールを巻いて耳の後ろのほうへと向かっている。顔は彫りが深くて声はカウンターテナー。言葉使いは女の人のもの。
 予備校に通おうと初めて都心に来た時に、カツアゲされていた僕を助けてくれた時からの付き合いだ。足一本で不良十人を血に沈めたという、強く凛々しくどこかおかしい男だった。
「そーそー。なんかね、夏なのにいつも秋で、青々とした葉が茂っていて、原っぱが広がっている場所にあるんですってよ」
「そんな場所が都会にあるんだ」
「ええ。行ってみない? ワタシ、メイド服萌えなのよね」
「萌えかぁ……いいよ」
 動くマッシュルームは身体をゆるゆる動かしながら主張してきたので、とりあえず乗ってみた。
 最近巷で流行っている「萌え」というのにも触れてみるのもいい社会勉強だと思ったから。
 僕は「萌え」がいまいち分からない。でも僕の周りは「萌え」というだけで軽蔑する人が多くて、本質を知らないでけなすような風潮を僕は卑怯だと思うのだ。どうせなら、どんなものか体験してから否定しようと思う。
「じゃあ、今度の日曜日ね」
「おっけー」
 約束が成立したところで国語担当の講師が入ってきた。携帯のストラップに『私は光の国から来たエージェントなの〜ん』とくるくる回りながら言うアイドル歌手のフィギュアをつけている大学生。授業は分かりやすいけれど、引用例に時折僕が分からないアニメのことを言うから、授業が終わってから田中に意味を聞くというのもしばしばだ。
「今日も一日がんばりもーん」
『がんばりもーん』
 僕は一人、黙って教科書を開いた。



 日曜日はあいにくの曇り空だった。田中は「いいメイド日よりね。メイドーラ(メイドのオーラ)がこんな日は輝いて見えるの」と説明してくれたが僕はよく分からない。続けて聞くと、田中は「戦闘力は十万を超えるの」と言って締めくくった。なおさら分からない。
 二人で『いつも秋で、青々とした葉が茂っていて、原っぱが広がっている場所』に着くと手分けして散策を開始した。見つけたら携帯に連絡を、と約束を取り交わして単独行動に出る。
 まずはゲームの新作をチェックするために電気屋の中にある販売店へと向かった。メイドよりゲームだ。
 立ち並ぶビルを抜けいき、奥まったところにゲーム屋と書かれた看板が見えた。導かれるように中へ入ってみると、僕の地元にあるショップの三倍はあろうかという面積を占めている。最新のゲームからどこの化石なのかというレベルのものまで多種多彩で、このまま一日ここにいても良いと思った。
 そんな時だった。彼女が目に飛びこんできたのは。
「あれ。宝子ちゃん。これからバイト?」
「そうですよー。その前に新作ゲームを手に入れようかとぉお」
 聞こえてきたのは男性店員と女性客の会話。だが、男の人の縦ストライプのエプロンは一瞬で視界から消えて、女の子の方に僕の目は釘付けになった。
 黒を基調としたふりふりな服。
 テレビで見たことがある、メイド服と呼ばれるもの。
 頭には黄色い猫耳、ピンク色のエプロンまで付けている。黒と黄色とピンクのコントラストに僕は一瞬で惹かれていた。引いてもいた。
(なんてセンス悪い)
 今年で十九歳になる僕だったが、今まで生きてきた中で一番センスの悪い配色だった。高校時代に見に行ったピカソの絵の良さも芸術センスが合わなかったらしい僕には分からなかったが、彼女のはそんな特別な才能は要らない。
 ただ、単純に目を引く。あまり良くないほうで。
「あの」
 声をかけてしまったのは僕のミスだった。あまりにも衝撃的な遭遇だったからだ。高校時代はクラスの女の子に話し掛けることさえまれだったのに。女の子はぎりぎり、と音が聞こえるようなゆっくりとした動作で振り向くと、静かに言った。
「なんです?」
 心臓に、ナイフが刺さった。
 しかも数十回同時に。そう思えるほど、彼女の声は鋭くきつく、冷たい。
 店員と話していた声は一体どこに行ったのか。エプロンの前に付いているポケットの中に入れたのか。メイド服の胸元へと隠したのか。はたまた猫耳の中に突っ込んだのか。どこに追いやったかはどうでもいい。とりあえず今、向けられている敵意をどうにかしないと。
「なんですですDEATH?」
「あ、あの……」
 先ほどまでの『珍妙な生物を見た』高揚感は消えうせていた。
 まるで死の宣告を受けているみたいだ……単に彼女は「ですです」言ってるだけなのに。
 その宝子さんとやらは黒目が見えなくなるほど瞼を細め、エプロンのポケットに手を入れた。何も入ってなさそうなのにごそごそとまさぐっている。
(何が、出てくるの?)
 僕から失われた高揚感は、どうやらポケットの中に入っていたようだ。今まで身体を縛っていた恐怖も吸い込まれたのか、ちょっとだけ和らいで余裕が生まれる。
 果たして何が出てくるのか。自分に不利な物ならば危ないけど、恐怖は感じる以上のものはない。ホラー映画を見ていて怖いけど、あくまで映画だと分かってる時の気分だった。
「じゃん」
 そんな期待を一身に背負った宝子さんが出したのは、何の変哲も無い眼鏡。自分で「すちゃ」と言ってかけて、僕をじっと見つめてくる。あっけに取られた僕の顔へと彼女のそれが徐々に近づいてきて、やがておでこがぶつかった。
 口の中に、何故か甘味が広がる。
「あ、あのあの」
「もしかしてお客様!」
 どこからそんな単語が生まれたのか分からないけれど、彼女は目を輝かせて僕の右手によりかかってきた。丸太を抱えるようにぎゅっと。丸い弾力二つに挟まれて、腕の体温が一度くらい上昇したかもしれない。
「待ってましたよお客様――ではなくて、ご主人様! お帰りなさいませ! お風呂にしますか? それともご飯? それとも私の特別製えび固めでしょうか?」
 しゃべりながらもどんどん彼女は歩いていく。僕は困惑して止まろうとするけれど、凄まじい力に引きずられていった。
「本日はメイドスペシャルと題しましてサッカーを企画しております! 誰をサッカーボールにするかを決めてから飛んでくるボール役を優しく抱きしめるのです!」
 マシンガンのごとく繰り出される彼女の言葉に、頭がふらついてきた。処理容量オーバーだよ本当に。受験勉強で得た知識が押し流されていく。
 ようやく搾り出した言葉はふら付いていて、彼女に届くか不安なほど小さかった。
「あの、ちょっと」
「はい?」
 それでも声が届いたのか、彼女は止まって僕の腕を解いた。でもすぐに彼女の後ろにある扉を見て、目的地に着いたから止まったんだと分かると、どっと疲れが出た。話が通じないんだろうか。
「えーと、君」
「はい! ご主人様!」
「いや、ご主人様、じゃなくて……何なの? ご主人様とかお客様とか」
 彼女は何度か瞬きをして僕を見た。傷つけちゃったかな?
 僕はお客でもないしご主人様でもないんだから。よく分からないけど、彼女はそうだと勘違いしたみたいだし。
 タップリ一分ほど僕を舐めまわすように見てから、彼女は言った。
「あー。なるほど! ご新規さんですね!」
 彼女は右拳を左拳に打ち付けて大きく頷く。何か、納得の仕草が違う気がするのは気のせいかな?
「では、改めて紹介しましょう!」
 彼女は正座をして座り込むと指をそろえて二つの指先を合わせながら床に手をついた。そのままゆっくりと頭を下げる。
 帰ってきた主人を迎えるメイドのように。
 って、メイド? そう言えば言葉の中にメイドとか出てきたような気がする。
「いらっしゃいませ。ここは冥怒喫茶です」
「メイド喫茶……冥怒?」
 彼女から視線を扉に移すと、確かにあった。
『冥怒喫茶』
 なにやら文字が違う気がするんだけれど。
「あ、漢字は当て字です。それとカモフラージュ」
「カモフラージュ?」
「はい。表向きは骨董品屋なんです」
 明らかに何かが間違ってる気がするんだけれど、宝子さんは立ち上がってまた僕の手を引き、中まで連れてかれてしまう。扉をくぐると薄暗くカビ臭い。喫茶ということは喫茶店だろうから、なんかコーヒー豆をまわしているマスターみたいな人がいるはずなのに。
 なんで服に埋もれた中に髭もじゃの男の人がいるだけなんだ?
「お客様か」
 まるで地獄のえん魔様がしゃべっているかのような、低くて震えて男らしい声。えん魔様の声なんて知らないけどきっとこんな感じだろうな。
「いらっしゃい。メイド喫茶へ」
 店主はごつごつした手を差し出してきて、僕が握る前に握ってきた。何かねちょっとした感触があって、離すと透明な橋がかかった。ズボンに擦り付けて取り払うと宝子さんのあとについていく。
 背中に当たる髭もじゃの視線を気にしながら更に奥へ進むと、地下室への扉があった。重い鉄の扉を宝子さんは軽々と開け、その先にあるメイドインヘブンへと僕を誘う。部屋の中は橙色の豆電球がついているだけで薄暗い。でもコンクリートで囲まれていることは分かった。なんだか喫茶店、とは思えない。
「えーと、宝子さん?」
「宝子って呼ばないでください!」
 急に百八十度回転して宝子さんは顔を近づけてきた。眼前に迫った顔はほとんど瞳で、液体が溢れている。即座に両手を見たけど目薬は無い。本当に泣いているようだった。
「私、実は自分の名前コンプレックスで……宝子ってなんか花咲きそうじゃないですか」
「それは胞子じゃないのって……あの店員には言われてたよう――」
「だからだからだから! だからを食べようー♪! だからだからだから! だからが良いのさ! じゃなくて! ……プリンって読んで欲しいです。宝子志黛乃でプリン」
「字面合ってないし……いや分かったから首を締めるのやめて」
 僕の言葉によって我に変える様子もなく、普通に首を締め続けて「飽きた。秋田県の首都は秋田市」と呟いてから彼女は手を離してくれた。痛みと呆れにちょっとだけ怒りが湧いてくる。
 全く、秋田市なんてないのに困ったメイドさんだ。秋田の首都は仙台だってのに。
「宮城ですよご主人様」
 がん、と頭が殴られた。物理的じゃなくて精神的な打撃。
 身体は拒んだけれど頭は彼女の言葉を受け入れていた。考えてみれば、確かに仙台が首都なのは宮城だ。
 ……豆腐に頭を打ち付けて死にたくなる。きっと宝子さんの言葉に知識が流されたんだ。って――
「え!? ってなんで心の中分かるの?」
「もちろん誘導尋問ですの。それと、秋田市はちゃんとありますの」
 胞子さん、じゃなかった。宝子さん、でもなかった。プリンは口元を両手で隠してから「ぷぅぅうぅぅぅぅぅぅおおおおおおおおおおほこぉおおおおおおお!」と空手の息吹みたいな声を上げた。十二時のサイレンの音にも似てたし、隕石が降って来る時の音にも聞こえたけど。
 その時だった。
「――え?」
 地理の問題を間違えた恥ずかしさなんて消し飛んでいた。
 光が部屋を満たしていく。
 部屋に、光が満ちていく。
 どちらの表現が正しいのかさえ分からない。ただ、僕のいる位置――部屋の入り口付近の逆から徐々に光が闇を押し隠していく。
「これは一体……」
「私は魔法使いなんですよ、ご主人様」
 宝子さん、じゃなくてプリンが満面の笑みで僕の手を引いて、ソファに誘った。いつの間にソファがあったんだろう?
 座る頃には部屋は完全に光に包まれていた。むしろ光だった。
「てか眩しいよね」
「これをどうぞ」
 手渡されたのはどうやらサングラスらしい。目を閉じているから手触りでしか分からないけど。かけてから目を開けて――瞳が焼けた。
「うぎゃー!?」
「ご主人様すみません!? 私も目を閉じていたので間違えてしまいました!」
 自分の声にかき消されそうだったけど、なんとかプリンの声は聞こえた。そしてまた手渡される眼鏡。痛みに涙が出るけれど、ぬぐってからかける。
 目を開けて――目が焼けた。
「ぎゃー!? 何も見えないけどデジャビュ!」
「す、すみませえぇんん! 今度は素で間違えました!」
 どうやら一回目は確信犯だったらしい……て、そんなことより目が痛い。痛すぎる。痛すぎる!(Too Hurt!)
「そんな貴方に私の心を送ります!(To Heart!) イヤイヤイヤイヤーイ!」
 可愛らしい超音波が僕の耳に届く。強引に目を抑えていた手が押しのけられてパカッと眼鏡がかけられる。さすがに三度目となると警戒した。目を焼く痛みは回を重ねるごとにおさまってはきていたけれど、これは慣れたくない類の痛みだよ。
「大丈夫ですよーご主人様。さすがに三度目は私もいろいろな人も飽きます。秋田県の首都は秋田市です」
 相変わらず秋田と言う。飽きた飽きた言ってるけど飽きてないんじゃないだろうか? ん? 飽きたのは秋田じゃないのか? こんがらがって何がなにやら分からない。
 何すれば良いんだっけ? くらくらして脳みそが溶ける。
「さあ、目を開いて見てくださいまし。私の全てを」
 あ、そうか。とりあえずサングラスかけたから目を開ければいいのね。それにしても「私の全てを」なんて言われるとドキドキする。プリンは僕の手を引っ張って何か柔らかいものに触らせてくれた。
 こ、これ、これはもしかししてててもしもしかかしててえっててて? む、む――
「冷たくなった肉まんが好きなんです、私」
「どんな趣味だ!」
 目を開いた瞬間、三度目の光に襲われて僕の意識は黒く染まった。
 てか、秋田県の『首都』っておかし――

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「つまり、このコンクリートは光を通すんですわ、ご主人様」
 プリンに貰った手ぬぐいを両目に当てると凄く気持ちよかった。目覚めた時には、部屋はちょうどいい光量だったけど僕の目はまだ痛いままだった。プリンはそれを見越していたのかお客様に出す用の手ぬぐいを渡してくれた。ちょっとほんわかとしていて、それがプリンのぬくもりと思うと照れる。
「脇の下に入れて暖めておきました!」
「脇の下か……だからちょっと汗臭いんだ」
「いやですわ、ご主人様」
 結果的に目が癒されてるから良いけど。
「あ、でですね。何か光ファイバーが通ってるとか難しいことを言っていたのですが、ようは光を通す壁なんです。強度は普通のコンクリートと同じという優れもの!」
 プリンは僕の隣から立ち上がって、ソファの横に置いてあった柄の長いハンマーをずりずりと引きずりながらコンクリートの壁に向かい、遠心力を利用して一気に叩きつけた。飛び散る破片の一つが僕の頬を切り裂いて飛んでいく。手を伸ばした先に滑る液体を感じながら、僕は言った。
「強度は分かったよ。じゃあ、早く奉仕してよ」
「あ、はいです」
 これ以上いたら身が持たない。当初の目的である『萌え』を体験してみて帰ることにしよう。
「萌えを体験したいんだけど」
「はい! ご主人様は何萌えですか?」
 そう言われて、思わず固まった。何萌え。つまり、萌えというのは何か特定のものをさすんじゃなくて、何かに対して『萌える』っていうことだったんだ。
 そういえば田中もメイド萌えって言っていたっけ。テレビにメイドが出てきて「萌えー」とか言ってたから勘違いしていた。
「えーっと……実は、良く知らないんだ」
「知らない、ですか?」
 プリンはきょとんとして僕を見ている。顔には「なんでメイド萌えじゃないのにメイド喫茶に来てるの? 冷やかし? 冷やかし? それとも冷やかしか冷やかし? あ、そうか冷やかしか」と顔に書いてあった。マジックでわざわざ自分で無言で書いていく様はちょっと怖かったけれど。
 おしぼりで顔を拭き、マジックを全て消し去ってからプリンは言う。
「萌えって何、ですか……私の口からおっしゃっても、よろしいですか?」
「はい。お願いします」
 低姿勢で臨む。いつでも傍にあるハンマーが来ると予想していないと、あれは中途半端な威力じゃない。でもプリンはハンマーに手を伸ばすことなく腰に手を当てた。
「『口答えせずに言えこの雌豚が!』とおっしゃってください」
 ……何を言い出すんだ。雌豚ってなんだよ。でも、言わないと進まないみたい出し、言うしかないか。
「……口答えせずに言えこの雌豚が」
「もっと! はぁああん! ご主人様! けなして! 醜く無知な私をけなしえええええ」
「口答えせずに言えこの雌豚が!」
「何、変なことを堂々と言っておりますの?」
 急に空気が三度ほど減ったみたいにプリンの顔から冷気が漂い、僕の背筋には汗がにじみ出た。毛穴という毛穴から冷たい液体が洩れ出て、下着の中までびしょぬれになってしまった。
「でも、そこまで言うなら分かりましたわ!」
 今度は一気に三度ほど部屋の温度を上昇させ、プリンは隣に座っていた状態から前方に三回転前転前回り受身をして着地すると、方向を転換させて僕のほうへと身体の正面を向ける。
 そこから五本の指を揃えてお辞儀をした。
「それでは、僭越ながらこのプリン。答えさせていただきます」
「あ、はい」
 僕はといえば、心臓のドキドキが納まらなかった。最初は叫んだせいと思っていたけれど、脳内に一つのワードが広がっていく。
 雌豚。雌豚。めすぶた。メスブタ。目酢豚。メス部多。メス豚……。
 口の中で言葉を転がすと、砂糖の味がした。
「ご主人様は好きなものを一つ思い浮かべてください、と言われると何を思い浮かべますか?」
「ん……猫かな。肥満ででぶんとしたやつ」
 浮かんだのは三毛猫。それも胴回りが人間の胴に近いくらい大きいやつ。あの動くのが辛そうな。のそのそと他の猫が歩いていく後ろについていって、用意された餌を食べようにもすでに他の仔猫がもさもさとたむろっていて食べられない。そこでデブ猫は「ほにゃーん」と切ない喘ぎ声を――
「ほにゃぁん」
「ご主人様も分かってらっしゃる」
 遮るものなど何もなく口に出たところでプリンが言う。いつもの声から比べたら一オクターブは高く、聞かれれば間違いなく恥ずかしい類のワードなのに、何故かプリンの前では恥ずかしくない。
(この娘のほうが恥ずかしいから?)
「萌え、とはいろいろな解釈があります」
 プリンは口元に人差し指を当てて、静かに語りだした。
「二次元の少女に対する歪んだ愛、という見方から、それこそご主人様が猫を可愛いと強く思うことまで。元々どんな意味だったのかなどもう語る意味がなくなっているんです」
「形が、ない?」
「はい。Aさんは猫が好き。Bさんは女優が好き。Cさんは漫画のヒロインが好き。Dさんはドラマの初老の脇役さんが好き。Eさんは彼氏が好き。この人達に優劣はありません。その心にあるのは……対象を好きという強い気持ち」
 プリンは立ち上がり、胸に両手を当てて俯いた。大切な物をそこに包み込んで、丁寧に持つように。そこに光り輝く宝石を見たような気がした。
「様々な解釈がある萌え。でも、根本にあるのは対象への愛に尽きると思います。何にその愛を向けるか? その強さの度合いが強すぎるか。それが、好きと萌えの境界線だと、私は思います」
「……そうなんだ」
 プリンの考えを聞いて心が痺れていく。こんな思いになるのは、僕もまた『萌え』に対して偏見を持っていたのかもしれない。分からないで否定しちゃいけないと言いつつも、心のどこかで『萌え』なんて、と思っていたのかもしれない。それがとても汚らしいと感じた。プリンに後光がさしているように見えたのも関係しているのだろう。
「でも、ご主人様なりの萌えをみつけてはどうですか? 形が様々あるように、これもまた私が導き出した結論というだけですから」
 プリンの笑顔。きらきらと光の粒子がちりばめられて、可愛らしい顔が美人へと変化していく。造形自体が変わるように。後ろから来る光も更に強まり、僕の視界は失われていった。
「形のない『萌え』を目指していきましょう――」
「って、またこれか――」
 二度目の光は、さっきとは違って痛くはなかった。目の奥に運ばれたのは痛みではなく――



 生クリームの甘味だった。



「ごちゅじんちゃまー♪ 今日のおかずは女体盛りですよー。レシピは魚とわ・た・し(はぁと)」
 言葉のとおり、身体の上に刺し身が乗っているから全く動けずに首だけ上げてプリンが言った。
 プリンの目は顔の半分くらいの大きさで、鼻と口は小さい。髪の毛は青色のロングヘヤー。染めたというよりも生まれつき青いと思えるような鮮やかさ。
 当人もそう言っているけれど、そんなわけはないだろう。
 でも、そう信じてもおかしくない。だって、彼女はプリンだから。
 耳は横ではなく上についていて、ぴこぴこと動いている。最初見た時はどういう仕掛けなのか驚いたけれど……今はもう違和感は無かった。
 だって、プリンなんだから。
 それで済ませられるほど、今の僕は彼女を受け入れている。
 これもみんな、僕がプリンに頼んでつけてもらったものだった。光の津波から意識を取り戻した後で、とりあえず僕の好きな物を上げていき、一つ一つ実現してみようということになった。真理を知るにはまず形からというわけで。 そこでいくつか考えているうちにプリンは今の形態に至る。
 ここまで一週間。毎日通い詰めてようやく僕の心にズキュンと弾丸が打ち込まれ始めた。成果が上がっていると見て良いだろう。
「おやおや。メイドが制服を脱いじゃ駄目だろう? 主人が脱がすまで」
 僕も主人になりきって、メイドのオイタを叱る。メイドの制服はすなわちメイド服。このメイド喫茶ではエプロンだけだったが、立派なものだ。
 表に『ご奉仕万歳』と刺繍されたピンク色のエプロン。裏地には『命の洗濯を』と手書きで書かれている。それはプリンが自分で書いたらしいが、裏なので見えない。本当にそんな言葉が書かれているのかは、プリンのみぞ知る。
 下はさすがに下着を着けていて、フリルのついたピンク色の三角地帯だった。
 ピンクは更に続き、肌もほんのり桃色に染まっていて、エプロンの横からは少しはみ出ている胸の欠片が見える。僕は胸の大きさとか分からないけれど、多分Dとか言われる領域なのだろう。妹も母もAと言ってたから、僕には神が住む場所だ。
「ごめんなさぁい」
 プリンは溶かした砂糖をまぶしたドーナツに更にハチミツをかけたような甘さをかもし出して謝ってくる。拳を作れば全部入ってしまいそうな目に広がる小波。あふれ出そうになる涙を、僕は人差し指で掬い取った。
「いいよ、プリン。君の奉仕魂(サービスゥォオウル)は分かっているよ。可愛い仔猫ちゃん」
 指の液体を下に乗せると、食べるヨーグルトの味がした。直前に食べたミルク味。
「さあ、食べることにするよ。君の愛を」
「はぁああん! ご主人様! 食べて! ワタシの全てを食べてえええええ!」
 割り箸を手にとって割ると、一つ一つ乗っている刺し身を掴む。その度にプリンがびく! びく! っと震えて快楽を表す。主人に全身全霊を込めて奉仕しているという事実が、彼女を桃源郷に連れて行くんだろう。そんな彼女の健気さを見て、僕も頬が熱くなった。
「美味しいよ。美味しいよ」
「ご主人さまぁあん」
 いつまでこの時が続くのか分からない。でも、もう少しで何かつかめそうな気がするんだ。
『萌え』とは何なのか。いや、僕にとっての『萌え』とは何なのか。
 猫耳なのか裸エプロンなのか女体盛りなのかメイド萌えなのか。
 プリンに萌えているのか。
「プリン」
「ご主人様」
 桃色に染まる頬を見て、ほっぺた萌えなのか? とも思える。ああ、いつまで続ければ掴めるんだろうか。


 冥怒喫茶は今日も、嬌声が響いていた。僕以外客がいない、街の片隅にあるこの場所。
 形のない『萌え』は見つけられていないけど、ここはきっと僕の場所なんだろうと、そう思えた。

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