ロウソクの火は、私の心を写しているかのように揺らめいている。
私の目の前でオレンジ色の輪郭と空間との境目が揺らめいて、現実と夢想の境目までも曖昧になりそうなところで、私はそれまで書いていた原稿用紙の端へと火にかける。火はじわじわと原稿用紙を侵食していくが、少し時間が経つと火の勢いは一気に増して全体に広がっていく。床に転がっていた大きめのガラスの灰皿を取って、その上に燃えカスが落ちるように工夫する。多少は畳の上に落ちてしまったが、他のものを燃やす力はもうないらしい。ギリギリまで火がついたものを他に触れさせたくないと摘まんでいた指先まで辿り着いた炎に火傷しそうになったところで離すと、灰皿の上で残った用紙の白が黒へと染まり、煙と共に全て消え去った。焼失。消失。喪失。全ての余韻を楽しんだ後、底を塞いでいたゴムキャップが取られたかのように充実感は流れ落ちていった。ご丁寧に尻の穴からのガスの音と共に。全てが消えたら文字通り虚無感が生まれ、次に広がったのは絶望感。カンカン照りで乾いた大地のように心は干からび、ひび割れる。全てを表せる一言が口から洩れた。
「やっちまったな」
四百枚ほど物語を綴った原稿用紙を燃やしてしまった。
いつも繰り返してきたことだ。
二十歳の天才としてデビューした自分にとって、原稿用紙で書いてからパソコンで打ち直すというスタイルは最近の作家からすると異質だったろう。
それでも、昔から慣れ親しんだ方法によって名作と皆が言ってくれるものを生み出せていた。
原動力は、失敗した作品を燃やす時の快感だ。成功は数多くの失敗の上に成り立つ。丁寧に積み上げてきた作品を全て跡形もなく消しさる興奮は私の心をくすぐり、創造心を刺激する。
散々書き連ねて文庫本一冊くらいの分量が書けたはいいが、どうしても気に入らないとなると、私はろうそくを灯す。そして炎の揺らめきの中に現実と非現実の曖昧さを見てから燃やす。
そのために吸いもしない煙草の灰皿まで買ったんだから。
学生時代から使っているガラスの大きな灰皿は、今や黒々と汚れていた。洗う気力もない。洗うつもりもない。
学生時代の英語の授業やテスト前の勉強でひたすら引き続けて手垢がつき、黒くなるのを誇りに思った時の気持ちに似ていた。
これまでの自分の軌跡が目に見えるからだ。
しかし、あまりに燃やし続けると物語を書く気力さえも燃え尽きる。
ケチのつき始めは担当編集が変わったことに違いない。一身上の都合で辞めてしまった人の代わりに担当になってくれた人は、熱心だったけれど熱すぎた。近づくだけで汗が出る。体重百五十キロの巨漢が私が原稿書いている傍で「ムフー」と汗を拭きながら息を吹きかけてくるならばやはり熱い。しまいには苦手な煙草を吸っては私の灰皿へと落としていく。
灰だけ落としていればいいものの、困るのは使えなさそうなアイデアまで落としていくのは困った。
「先生。放火する人が主人公の話って斬新じゃないですか」
「先生。家を燃やすには新聞紙を傍に置いて火をつけるといいらしいですよ」
「先生! 今回の話の火の描写いいですね。美味しいお米が炊けそうです!」
あんたは火に悪い思い出でもあるのかというほど「火」についての話を書かせようとしてくる。自分の案が採用されないこと前提で話しているようで強引じゃなかったから放っておいたのだけれど、疲れてきてしまった。
いいアイデアが浮かばないまま五年も書けていないからなおさらだろう。
ろうそくの火に燃やす原稿は何枚になったろうか。
何を書いても何かが欠けている。
起承転結じゃなくて、起承車云糸吉。
序破急じゃなくて、じょはキュウ。
心が崩れかけた状態で作った砂の城は、完成したと同時に崩れ落ちる。崩れ落ちるのではなくて、私の場合は燃え尽きるのだが。
何もかも燃え尽きて原稿用紙のストックも切れた時、担当編集は言ってきた。
「しょうがないですね。こうなれば、自分に先生の名前で書かせてみてくださいよ。一度書いてみたかったんです」
笑いながら言う担当編集の眼鏡が頬肉に乗って脂をテカらせる。火をつけたらさぞかしよく燃えそうだと思いつつ、軽い気持ちでオッケーを出すことにした。
ゴーストライター気取りは何度もライターで煙草に火をつけながら、私の後ろのちゃぶ台でカタカタと指をノートパソコンのキーボードに走らせる。
ノートパソコンのキーボードに脂ぎった太めの指。何度もミスタッチしているがバックスペースを押すのでさえリズミカルで、音を聞いていると自分も自然と筆が走る。
カリカリカタカタカタ。
カタカリカリボッシュ。
ボッシュボボボボ。
ボフン。
私の三十回目の原稿用紙消失と共に、ゴーストライター予備軍はパソコンに作品を完成させた。
原稿用紙換算で三百枚程度の作品がディスプレイ上に広がり、序盤を一読するだけで面白かった。
永遠と放火のスリルを味わおうとするだけで、実際にやる度胸もない少年の話なのになんでこんなに心惹かれるのか。
私の中にも火に憧れる気持ちがあるからかも、しれない。
「好きじゃなきゃ原稿用紙何度も燃やしてないっすよ」
そりゃそうだ。
多分、私は燃やすほうが好きなのだろう。原稿用紙でわざわざ書いてるのも、失敗した作品を途中じゃなくて最後まで書いてからわざわざ燃やすのも、火に憧れているからかもしれない。
「じゃあ、この作品を先生の名前で」
「いいわけないじゃん」
本当にゴーストライターになろうとする担当編集をなだめることができず、かっとなってガラスの灰皿で殴って殺してしまったのが二時間前。
事件のすべてを書いた原稿用紙を燃やしてしまったのが十五分前。
再びここまで書きあげたのが、今。
でも、なんだか上手くいかない。もっと書ける気がする。
かかげる。
目を離して読む。
もっともっと良い独白文が書ける気がする。
「フィクション形式もいいですけど、僕のこと殺さないでくださいよ先生ー」
後ろから聞こえてくる声は無視。
小生の目の前のろうそくに灯されている火は、静かにその役目を果たす時を待つ。
橙色の輪郭が空間との境目を揺らめかせ、あたかも現実と夢想の境目からなんらかの魔物を生み出しているかのよう。
ずっと見ていると夢と現実までも曖昧にさせられる。
静かだがそれほどの力を内包していると感じる。
小生はそれまで書いていた原稿用紙の端から火にかける。
ゆっくりと。じわじわと。
一気呵成に火は原稿用紙を喰らいつくさんと燃え広がる。
床に転がっていた大きめのガラスの灰皿を取って、その上に燃えカスが落ちるようにした。
畳の上に落ちた燃えカスは既に役目を終えたのだろう。
何物も焦がさずに消え去った。
摘まんでいたところまで火が届いて、小生は名残惜しさを我慢して指を離す。
灰皿に落ちた用紙が黒ずんでやがて煙と共に消え去った。
全てが消えたら文字通り虚無感が生まれ、次に広がったのは絶望感。
カンカン照りで乾いた大地のように心は干からび、ひび割れる。
「やっちまったな」
原稿用紙を燃やしてしまった。
いつも繰り返してきたことだ。
このインターネット世代の申し子であろう自分にとって、原稿用紙で書いてからパソコンで打ち直すというスタイルはめんどくさいことこの上ない。
自分でもめんどくさいって思う。
それでも、昔から何故か手書きが好きで楽しんでた。
重ねてきた年月によって筆ペン先生にもびっくりされるほど達筆になってしまった自分。
筆とシャープペンはタッチが違うから金賞が努力賞にランクダウンするくらいではあるが、関係ない。
結局、書いた文字で評価されるわけじゃないし。
閑話休題。
失敗した原稿用紙を燃やす時の快感は最高だ。
文庫本一冊くらいの分量を書いたところで全てを無に帰す快楽はたまらんちん。
炎の揺らめきの中に現実と非現実の曖昧さを見極めてから燃やすんだ。
そのために吸いもしない煙草の灰皿まで買ったんだから。
学生時代から使っているガラスの大きな灰皿は、今や煤と担当編集の血で汚れている。洗う気力も。
自分、なんか上手くない。
自分、もっと上手い具合に表現できないだろうか。
後ろから「僕のこと殺さないでくださいよ先生ー」って聞こえてきたけど無視する。
さっきからうるさい。
汗臭い。暑苦しい。喉が渇く。汗が出てくる。
吾輩の目の前にある蝋燭に灯されるのはまるで命の煌きだった。
魂をイメージするかのようなオレンジ色の輪郭。人の心の泉から燃え出てくるような灯りと空間との境目が揺らめいて、現実と夢想の境目までも曖昧になりそうなところで、吾輩はそれまで書いていた原稿用紙の端から火にかける。少し時間が経つと一気に火の勢いは原稿用紙一杯に広がっていく。幼い頃に祖父から貰い受けたガラスの灰皿を取って、その上に燃えカスが落ちるように工夫する。多少は畳の上に落ちてしまったが、他のものを燃やす力はもうないらしい。吾輩は指先まで辿り着いた火に火傷しそうになったところで離すと灰皿の上で残った用紙は煙へとその姿を変えて部屋へと広がっていった。全てが消えたら文字通り虚無感が生まれ、絶望感が押し寄せる。乾いた大地のようにココロは干からび、ひびワレル。
「やっちまったな」
原稿用紙を燃やしてしまった。
ミーのマイフェイバリットな行動であるろうそくの火への用紙ボーン! 白地が黒く染まり、消えていくその様はソウキュート! ミーは爽快感に溢れる! モアパワッ!
「やっちまったな」
原稿用紙を燃やしてしまった。
ろうそくの火に燃やす原稿は何枚になったろう。
編集者は、もう、うるさくない。
汗臭いし暑苦しいけどうるさくない。
起きているのか? 息も聞こえないが、まあいい。うるさくないだけましだ。
私は原稿用紙を燃やす。
ロウソクの火は、私の心を写しているかのように。
ユラめいている。
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