雪ん子

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 雪が積もる光景は、薫の目には天国のように映った。
 いつもは雪が降ってもすぐ溶けてしまう都会に住んでいる薫は、テレビのスキー場特集が出る度に雪に覆われた世界に心を焦がした。それは大人から見れば離れ離れになった愛しい恋人を思う者のよう。テレビの画面を越えて映る雪原を見る薫の瞳は、小学校一年にしてはやけに色っぽく、熱に揺らめいている。
 彼の雪への情熱は正にそれらを溶かすほどの熱さだった。
 その熱意は夏場に使ったカキ氷作り機械(薫命名)を持って狭い庭で午前中がりがりと氷を削り、撒こうと考えつつもいつの間にかシロップをかけて食べていたなど涙ぐましい努力を続けていたことからも分かる。
 そんな日々も、小学校一年という年になって初めて母親の実家に帰省するというイベントによって終わりを告げた。
 雪。
 上から読んでも下から読んでも雪。
 右から見ても左から見ても雪。
 三回転半回りに回っても雪。
 彼は今、雪の中にいる。
「さぶいー」
 呟いた薫の口に、雪が入り込んだ。もう何度目か分からないほど雪を食べている。それは薫の幻想を一つ、終わらせていた。
 何しろ雪は思ったよりも美味しくない。シロップを持ってきたけれど、転がった際に手から離れてしまった。普通の氷はそのまま食べても美味しくはないがまずくもない。しかし、雪は不快感を確実に薫の胃袋へと送り込む。
「おいしくないー。ふえー」
 動こうとするとふわふわとした雪が崩れて、さらに身体が落ち込んでいく。
 走って道を歩いていたらいきなり身体が沈み込んだ。そのまま坂を転がるような感覚のままに視界が回転し、落ち着いたところは直立の体勢。自分がどうなっているのか分からないが、動こうとしても動けないことに薫の心には不安が広がっていく。
「うーうー!」
 手足をばたつかせてもその場から動けない。腕を振っても足を振っても、雪に抵抗が感じられない。腕が通った軌跡へと間髪入れずに違う雪が入り込む。
 そうしたことを続けて、ついに薫は泣き始めた。
 自分の思い通りにならない状況。
 そして、徐々に感覚を無くしていく手足の先。
 動いたからかお腹も減り、空腹を癒すために大きく口を開けて目の前の白い壁を食べる。白い結晶に覆われた中身、大気中の塵や埃が薫の口内を刺激し、苦味を追い出すために唾と共に吐き出す。だが、食べたことで空いた空間に吐き出された唾は跳ね返り、鼻や目の傍にかかる。
 自分の唾の生暖かさと匂いにやられ、薫はとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「あーん! ママー! あ”−!」
 精一杯叫ぶ。喉が痛くなろうとも叫ぶ。
 ここは天国じゃなかった。
 白い国は見た目と全然違い、薫に不快感しか与えない。美味しくないし、動けないし、冷たいし。シロップをかけてもきっとあまり変わらない。サンタさんも大キライだ。
「もうやだー! かえるー! あ”ー! うばーん”!!」
 出してほしい。出してほしい。誰か出してほしい
 薫の頭はそれだけに占められた。
「薫!」
 耳に入ってきた聞き覚えのある声に、薫は顔を上に向けた。相変わらず雪に覆われていたけれど、それが掻き分けられていく。大きな青い手袋が見え、続いてお父さんの顔が見えた。心配そうに顔を歪めていたが、薫の姿を見て安堵したのだろう。ほっとした顔で見下ろしてくる。
「お前なぁ。ここらへんは段差になっていて、そこに雪が積もってるからお前くらいだと埋まっちゃうんだよ。今、助けてやるぞ」
「パパー! あ”ー!」
 薫は結局、助け出される間はずっと泣いていた。



「帰ったら暖かいご飯食べような」
「……うん」
 薫はお父さんに抱かれたまま、家へと向かっていた。雪まみれだった身体をほろうと、急に寒さがやってくる。お父さんの身体にぎゅっと自分の身体を引き寄せて、その暖かさに包まろうとした。
 同じ包まれるなら暖かいほうがいいということだろう。
「もう泣くな。帰ったらお前の好きなアイスがあるから」
 その言葉に、薫はぱっと顔を明るくした。寒さに赤く染まっていた頬が、今度は身体の奥底からの熱によって温められる。
「アイス! アイス! ソーダアイス!」
「はは。あれだけ雪を怖がってたのに現金だな」
「アイスはアイス!」
 薫はもう完璧に機嫌を取り直し、お父さんの胸の中で身体をくねらせていた。時折顔に当たる腕が痛かったが、薫の元気さにお父さんも胸をなでおろす。
「あ、雪だ」
 夕焼けがかすかに雲間から降りる世界に、白い雪がちらほらと舞う。薫はその光景に目を光らせ、また体をゆすった。
「雪きれいー」
(単純だなぁ)
 埋もれて怖かったのも雪で、降って綺麗だというのも雪。
 分けて考えるその単純さに、お父さんはくすっと笑った。
「明日は雪だるま作るー」
「おし。パパも手伝うからな」
「うんー」
 上機嫌の二人は、そのままにぎやかに家路についたのだった。


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