『刃の理由』


「昭義様……」
「静(しずか)……」
 それが決められた儀式のように、二人は互いに相手の名を呼び、一つに重なった。
 昭義は静の背中まである艶やかな黒髪をゆっくりと手ですき、静は昭義の胸に顔を埋めることで命の鼓動を確かめている。
 月明かりは少なく、風も穏やかな春の夜。
 しかし互いの胸中は、数刻の後に来る出陣により離れ離れとなる時を思い、ざわめいていた。
「昭義様。今度の戦は我等の国の行く末を決めるとのこと。激しい物となりましょう……私は、不安でしかたがないのです」
「静。確かに、此度の戦は厳しい物となろう。私の全ての力を尽くしても、なお余る物かもしれぬ」
 静の頭部を優しく包んでいた両腕を外し、静の肩に置く昭義。自然と目に映る静の顔を昭義はじっと見つめた。月明かりに照らされた思い人の顔は、普段よりも更に美しく、愛しい思いを募らせる。奥底から込み上げる感情を、昭義は唇を通して静の中に送り込む。
「……ぅむ」
 突然の接吻に戸惑いを隠せなかった静だったが、すぐに目を閉じて昭義の起こす感情の波に身を委ねた。舌が絡み合い、唾液の中を踊る。湧き上がる快楽に身体の力が抜けていく。そこで昭義の唇が離れ、静は火照った頬の片側を手で抑えた。幾度となく繰り返してきた行為といえども、その後に来る羞恥に慣れるものではない。
「必ず、帰って来る。勝利してそなたの顔を見ようぞ」
「……はいっ」
 もう一度互いを強く抱きしめ、二人は屋敷の中へと身体を引いた。強く互いを感じ、いかなる時も切れぬ絆を確かめあうために。


* * * * *


(――夢、か)
 平野昭義は思考の海から顔を出した。視界を埋める暗闇と土の匂い。指一本動かすにも意識をしっかりと持たねばならぬほどの疲労。ゆっくりと自らの状況を思い出し、昭義は狭い穴の中で身を起こした。ちょうど立ち上がったところで頭が天井へと付く。大地の変動で自然発生的に作られた空洞へと隠れて、どれだけの時が流れたのかすでに把握することが出来なくなっている。まずはこの洞穴から出なければいけないだろうと考え、昭義は耳を済ませた。自分への追っ手の気配は感じられない。
(……出るか)
 そう思い、歩こうとして身体の重さに歩が揺れる。自らを守る鎧の重さに、身体が耐え切れなくなっている。激しい戦闘で。そして敗走で蓄積された疲労は少々の睡眠では取れるものではなかったらしい。
 一つの選択の時だった。
(鎧を脱ぎ、逃げ切れるか……)
 鎧を脱げば昭義の身軽さを十分に発揮できる。幾度となく自分達の領地内で戦場となり、今は自分の墓場となるかもしれないこの三雲山は昭義には子供の頃からの遊び場だった。どのように行けば他の国へと行けるのか手に取るように分かる。ただ、普段の体調ならば鎧を着たまま進み、追っ手とも交戦出来たかもしれないが、今は逃げる体力しか残ってはいないと悟っている。
 敗走した仲間が同盟国の一軍と共にこの戦場へと来る可能性も十分あるが、残された兵糧はせいぜいあと一日持つのが関の山だろう。
 鎧を脱ぎ、逃げ切るか。
 このままここに隠れ続けるか。
 迷いは一瞬で消え去った。
「座して待つのは性にあわんな」
 誰かに語りかけるように呟き、兜からゆっくりと鎧を外し始める昭義。大きく物音を立てて敵軍に気づかれる愚は避けなくてはならない。また余分な体力を消費することも避けねばならない。
 肩当、胴当て、篭手など自分へ負担をかける防具を丁寧に外し、置いていく。その過程で昭義の脳裏に過ぎったのは最愛の妻である静のことだった。
 敗色が濃厚となった際に、武将達の妻や自国民達を逃がすための手はずは取った。だがそれが成功したのかは分からない。最後まで自分達の軍の勝利を信じ、留まった女性達はもしかすれば、敵国の捕虜となったのかもしれない。そして女性が辿る捕虜の道は限られる。静がおぞましい光景の中にいることを考え、昭義は身を震わせた。鎧を全て剥ぎ取り、名残は腰に差す刀一本だけ。幾度も昭義と共に戦で勝利を味わった業物である。
「必ず、帰るぞ」
 それは決意。それは確信。自らを奮い立たせ、昭義は深呼吸を数度繰り返した後で洞穴の入り口へと向かった。少し前で止まり、ゆっくりと身体を進ませる。注意深く穴の外を覗き、危険がないことを確認。
(――ふっ)
 短く鋭い息に押し出されるようにして、昭義は外へと身を乗り出した。空は曇り、月明かりは見えない。変わりに昭義の視界に映るのは遠くに群がる松明の光。周囲に目を配っていても傍には捜索の手は及んでいなかった。
(あそこが、陣か)
 そう判断し、自分の中の希望が揺らぐことを昭義は自覚する。敵の本陣は山を降り、ちょうどこの国と隣国を繋ぐ街道へと向かう道にあぐらをかくように居座っていた。
 少なくとも同盟国に助けを求めることは困難となった。松明は山を下る道の全てに配置されており、おそらく傍を通る者を見過ごすようなものではあるまい。
(それでも……行くしかないだろう)
 昭義は覚悟を決め、敵本陣の方向へと歩き出した。ここまでの陣を張っているならばたとえ隠れていた者が逃げようとしても、無謀な事はしないだろう。そう考えている者の裏をかくことを昭義は考えた。だがそれも相手が油断していなければ無駄になるかもしれない危険な賭け。しかし、一度進み始めた昭義の足は止まらなかった。
 座して待つよりも切り開く。
 絶望的な状況だからこそ前に進む。昭義の希望の糸はまだ切れてはいなかった。
 敵軍は自らの勝利を疑う余地もないほどに、此度の戦を快勝した。昭義が暮らす土地を率いる三吉勢と過去から争ってきた隣国の日高勢は、国をあげての祭りの日に攻め込んできた。敵の来週を告げる見張りをすべて先に殺してからの迅速な進軍に体勢を整えきれず、三吉勢は散り散りになり各個で応戦するしかなかった。ここまで見事に決まったからこそ、先ほど考えた油断していない、という選択肢は昭義の中では順位は低い物だった。
(敵陣のすぐ傍をあえて通る。最短距離で抜けられれば、敵兵士との切り結びも最小に収められるはずだ)
 昭義は早歩きから小走りに変え、徐々にそこから速度を上げていく。草むらが足の運びを邪魔するが、昭義は隙間を丁寧に抜けていき、負担を軽くしていく。俊足と剣術の腕ならば、昭義は自軍の中で右に出る者はなかった。たとえ敵と遭遇しても雑兵の類には討ち取られることはないという自信も、今の行動を裏付ける根拠になっている。
 だが、松明の明かりと共に風に乗って人の声が流れてくる辺りまで来た時に心の中に持っていた余裕の隙間が、黒に塗りつぶされた。
 即座に腰の刀を抜いて振りぬくと、甲高い金属音と共に短刀が舞う。空を覆う闇雲が一部途切れ、舞った短刀の刃を照らす。光の先に見えた姿に、昭義は息を飲んだ。
「昭信……か?」
 松明を持ち、ゆっくりと進み出てきた相手の顔はまだ暗闇から出ない。しかし、一瞬の光のうちに昭義はその顔を――自らとほとんど変わらないその顔をはっきりと確認していた。
「兄者。お覚悟を」
 松明が言葉と同時に消えた。一条の月明かりだけになった空間。その、当たらない箇所からまごうことなき殺意の波動が昭義へと襲いくる。咄嗟に掲げた刀に重い衝撃を喰らいつつも、その場に両足を留める。姿は見えねど、相手の体躯から剣筋、動きは昭義には手にとるように分かった。ただ、現状を把握できないために困惑から筋肉は収縮し、防戦一方となる。
「昭信! どういうことだ!? どうして私の命を狙う!」
「あなたが消えれば……三吉は滅ぶからですよ」
 突き、そこから転じての横薙ぎ。勢いを殺さぬまま上段に振り上げてのから竹割り。
 暗闇からくる三連撃を昭義は全て捌ききると距離を取って月明かりの向こう側へと立った。自らの姿も相手に見えやすくなるが、その逆もまたしかり。完全な暗闇だった周囲は、雲が途切れていくにしたがってその明るさを増していく。戦いやすくなる反面、敵に見つかりやすくなることもあるが、更に昭義の中に焦りを生むのは、この戦いの音を聞きつけて敵兵が集まってくるのではという不安だった。
「ここには私だけですよ、兄者。日高勢は勝利の美酒に酔い、見張りも点在している。松明を多く配置しているのはあなたがたを山の中に閉じ込めるためのものです」
 広がった月明かりの元で、昭信の姿を見た昭義は絶句した。自らが今着ている侍装束と同じ色。姿形、全てがまるで鏡に写った実像のように、昭信はそこへ立っていた。
「もう一度問う。どうして私の命を狙う?」
「……静のためだ」
 最愛の者の名が出たにも関わらず、昭義は頬をぴくりと動かしただけで構えはそのままだった。内心では怒りに任せて問い詰めたいと思っていても、昭信が言っていた敵軍の状況が本当だと確信しない限り、目立つ行動は出来ない。
「日高唯平様はおっしゃった。三吉勢を滅ぼすことになれば、私に褒美を取らせると。だから私は、それを求めた」
「お前……静を手にするために自分の国を売ったと申すか!」
「そうだ!」
 薄闇を斬りさいて迫る刃を、昭義は下から受け止める。刃を滑らせて次なる一撃に変換するために昭信は力の方向を変えようとするが、昭義はその動きを相殺するように力を変え続け、結果として二人の顔は間近に近づく。
「お前は、自分が何をしたのか分かっているのか!」
「兄者には分からないさ……全てを兄者に……お前に奪われた俺の憎悪は!」
 均衡が崩れ、一瞬刃が離れたところで昭信は突きを繰り出した。足を草に取られて体勢を崩した昭義は、浅く肩を裂かれたが、その場で回転して遠心力を込めた一撃を胴に叩き込む。
 激しい衝突音と共に、一撃を受けた昭信の身体が宙を移動した。
「ぐぁ!?」
 昭信は、着地に難はなかったが、重い一撃を受けた際に左手首を痛めたのか構えた際に左手に力がこもっていない。右手一本で自らの刀を支える形となっている。
「全て……全て奪われたんだ」
 だが、痛みに震えていた左手で柄をしっかりと握り、昭信は連続して攻撃を仕掛ける。上部から一刀両断しようと振り下ろし、腹部まで来た切っ先を強引に軌道を変えて突きを繰り出す。昭義が横に躱すと、刃を寝かせて横なぎに変換。更に離れた昭義へ横なぎの威力を殺さずに身体を回転させ、より前に斬撃を放つ。
 そのどれもを、昭義はかわし続けた。衣服を掠り取りはするものの、まったく傷を負うことなく。
「全てにおいて、私はお前よりも下だった! 剣術も、駆けも泳ぎも。そして……最愛の女性にも」
 休みなく続けてきた攻撃のために、昭信はすでに肩で息をしていた。唾液が喉につまり、咳で強引に口外へと押し出す。額から噴出した汗で目を赤く染めながらも、視線は閉じることなく昭義に向かっていた。そして昭義も、まっすぐに昭信の姿を捉えている。
「日高は私を私だと認めてくれた。双子だからと言ってお前と私を同じように扱うことはなかった! だからこそ、敵の話に乗ったのだ。お前を殺す。静を手に入れる。二人で、生きていくのだ!」
 語る間に整えていた気息を解き放ち、昭信は昭義の傍に飛び込んだ。上段から渾身の一撃を振り下ろし――刀は半ばから宙を舞う。
「なっ――」
「破っ!」
 刀の最後を視界に収めたまま、昭信は腹部に来た重い衝撃に吹き飛ばされて地面を転がる。二度三度転がっていくうちに草汁が衣装を汚し、止まった際には気高き武将の姿はなかった。
「――はぁっ! ぐはっ! が……はっ!」
「昭信」
 声に気づき、昭信が視線を向けた鼻先へと、刀が止まる。戦っていた間と変わらない瞳の光に、昭義は溜息をつきながら言った。
「お前の静への愛……私には分かる」
「…………」
「私とお前は小さい頃から似ていたからな。静と夫婦になると決めた時のお前の悲しみを押し殺した顔を、私は見て見ぬ振りをしていた」
 昭義は刀を納め、昭信に背中を向けた。一瞬、その意味を理解できなかった昭信だが、自分から離れていく兄を見てようやく悟る。
「私を! 見逃すのか!?」
「今、お前を切れば、静は助からないだろう……日高勢の慰み者になることだけは、耐えられん」
 昭義は振り向かぬままに、言う。
「私は何としてでも包囲を抜け、同盟国にたどり着き、日高を倒す。そして、静を助け出す。それまで、お前が預かるといい」
「それを承諾すると思っているのか?」
 昭義は見なくとも昭信がゆらりと立ち上がり、自分へと折れた刃を向けてくるのが分かった。彼が刃を向ける理由。それは愛しい者を手に入れるために、愛しい者を繋ぎとめている兄を殺すことなのだから。もし今、昭信を殺せば静は間違いなく日高に陵辱の限りをつくされるだろう。だからといって、ただ生かせば自らの無力さに自暴自棄となり、命を絶つかもしれない。
 そう考えた昭義が取ったのは、憎悪を抱かせ続けることだった。
「思うさ。お前は静のために国を裏切った。私に刃を向けたのだから。そしてお前は、生かされた屈辱をただ許すような男ではない」
「貴様――!」
 昭信の折れた刃が昭義へと届く寸前に、昭義は素早く刀を抜いて残りの切っ先までもへし折った。昭信の手に残るのはもう柄のみ。柄のみを残す技量に驚愕し、昭信は数歩後退した。
「私が刃を振るうのは、大事な者を守るためだ」
 それが、昭信への最後の言葉だった。再び背を向けて歩き出す昭義に、もう昭信は向かうことなかった。泣き笑いのような声がかすかに聞こえる中で、昭義は歩行から疾走へと移行する。
 月明かりが広がった分、より慎重に行動しなければいけなくなったが、焦燥感はなかった。今回の日高の行動は汚いと言ってもいい手だが、仮にも武将であり、昭信が生きている限りは静をどうにかすることはないと知ったから。だからこそ、何としても目的を果たさなければいけない。
(私は、愛しい者達を守るために刃を振るう……そう、者達、だ)
 最愛の妻と、弟のために昭義は刀を振るう。自らのいた国のために、刃を突き立てる。
 その強き思いを持ったまま、昭義は深い森へと姿を消していった。



 その後、日高と三吉の同盟国との戦が起こるが、その中に昭義の姿があったかどうかは、伝えられていない。



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