美しきモノ

掌編ページへ



 ふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっ……。
 ふんっのゲシュタルト崩壊を起こしそうになって、卓巳(たくみ)は一度全身の運動を止めた。
 肩から腕へかけて盛り上がった筋肉。胸部から腹部にかけて割れている筋肉。一つ一つをじっくりと、笑みを浮かべながら舐めまわすように視線を滑らせる。
 特に腹部は六つになっており、アニメで見るようなムキムキマッチョと寸分の狂いもない形になっていた。
 友人からイメージトレーニングを勧められたことにより、いつもお気に入りの筋肉美少女アニメを見ながら筋力トレーニングを続けてきた結果だった。これで自分が美少女だったなら完璧だったろうにと卓己は思ったが首を振る。天は二物を与えないのだと考えなおした。
 鏡の前でだらりと両腕を下げているのは膨れ上がった太ももとしっかりと床を踏みしめる足の裏に支えられた上半身。そして申し訳程度に乗っている頭。頭頂部から毛髪が円形に消えたために、肌から吹き出る汗は当然のように頭部からも出てきており、水流の強さが足りてない噴水のように汗が鼻梁を伝って落ちていった。
「ふぅ。さて、と」
 流れ落ちていく汗の軌道もまた筋肉によって変えられる。床に落ちていく汗の流れにも満足した卓己は風にあたろうと卓巳はベランダに出た。眼下を見下ろすと車は一つも走っておらず、ところどころに全裸の男性、女性が倒れていて、卓巳にとっては陰鬱な光景と化していた。
 男も女も遠目で見て分かるほどのたるんだ腹と大きすぎる乳房。アンバランスなパーツは卓巳の美意識から外れてしまう。見なければいいということでもなく、そんなものがその場にあることさえ許せない。
 世界にマネキン病と呼ばれる奇病が広がって早一年。局所的に発生し、いつしか消えてしまうため世界の人口が激減する、ということはなかったが、発生条件も治療方法も分からないために人々はいつ自分たちがマネキン病によって死ぬかもしれないという状況に戦々恐々としながら過ごしていた。
 マネキン病とは人々がマネキンのように固まったまま死ぬことからつけられた病名だが、卓巳は少しだけ違和感を覚える。寄生型のウイルスが体内から外へ出て、最後には着ている服を溶かして全裸にしてしまい、毛までも消失することによる見た目からマネキンに例えたのだろうが、マネキンのように整ったプロポーションでもないのにマネキンに失礼だと卓巳は思っていた。だからこそ、自分は自分が美しいと思った状態のまま死にたい、と卓己は身体を鍛え上げてきたのだ。
 既に卓己がいる街は人が死に絶え、生活を支える基盤も崩壊している。卓巳も一度避難したが、一人で戻ってきた。死ぬまでに身体を鍛えることと同じくらい大切な目的のために。
「行ってきます」
 Tシャツとハーフパンツに身支度を整えて、かつて誰かがいた場所へと告げてから卓巳は部屋を出て、マンションの階段を降りて行った。
 マンションから目的地まで進んでいく間に、ベランダよりも近づいた人間たちを眺めつつ足を進める。近づくと更に醜悪な腹の肉を見せつけられて、吐き気までする。それでも近づかなければ探し人の判別ができない。
(皆、裸だから……逆に見つけづらい、か)
 目的である一人の人間の姿を求めて街をひたすら歩く。何度か裸体を見たことがある相手だったが、卓己には顔も体もうろ覚えだった。かつては空気のように傍にいた相手。だからこそ、卓己は最後に身体を重ねた時には顔すらもちゃんと見ていなかった。
 探し人である女――大切だった恋人は、避難する数日前にマネキン病にかかってどこかで死んだと彼女の両親から聞かされた。住んでいたところに行ってもいない。行きつけの店も、よく買い物をしていたスーパーにもいない。自分の家を拠点に散策して三日経っても、一向に見つかる気配はなかった。
「そろそろ、限界か」
 持ち込んだ食糧は底を尽き、戻っても食事はない。水道も電気も働いていないため、夜になれば探すことはできずに部屋の中で寝るだけ。
 諦めて街から出るか。それとも、そのまま死ぬまで待つか。二つに一つ。
「死ぬか」
 迷わずにこのまま死ぬことを、卓己は口にしていた。胸の内は決まっていた。そもそも、探し人と出会えたならば傍に寄り添って死のうと考えていたし、出会えないとしても、彼女と同じようにマネキン病に犯されて、同じ空の下で死ねれば本望だと、心の底から思っていた。卓己の顔に恐怖はなく笑みが浮かんでいる。
 卓己は一歩、一歩とアスファルトを踏みしめながら無音の街を歩いていく。
「最後に……やっぱり、会いたいよ。俺に、散々文句言っただろう。もっと、傍で言ってくれよ」
 相手のことをゆっくりと思い出す。最後に会った時の喧嘩からさかのぼり、上機嫌だった彼女の顔が思い浮かぶ。怒った顔。泣いた顔。そして、何かを諦めた顔が。
(――っ)
 その時、卓己は頭の中に冷たい風が吹いたように思えた。
 体の細胞の一つ一つが透き通って、風が突き抜けていくよう。そのためには邪魔だとシャツを脱ぎ、ハーフパンツを脱いだ。ボクサーパンツだけになった卓己は吹いてくる風に導かれるように足を速める。ほんの少し前まで吹いていなかった風は急に力を増して、卓己に早く来いという意思を投げかけてくる。風の先に何があるのか。直感的に卓己は悟り、駆け出す。
「はっ……はっ……はっ……はっ……」
 腕を振り、足を大きなストライドで進めると、風の力が更に強まる。向かい風に立ち向かうように突き進む肉弾頭。巨大な砲弾は風を切り裂いてその先にある場所を示した。
(動物園……か……)
 彼女との思い出を掘り下げていくことで見つけた手がかり。そこにすがるように足を進めた卓己の目の前には、やがて最後に体を重ねた後に遊びに行った動物園が見えてくる。
 そこは喧嘩をする前日に行った動物園。これまでどうして気付けなかったのか卓己自身納得できなかったが、入口に倒れている一体のマネキンを見ただけで過去への不安は消えた。
 卓己にはそのマネキンが彼女だった人のものだと確信できる。理屈ではなく細胞が感じ取った波長のようなものに、卓己は引き寄せられていく。
「華!」
 応えはないと分かっていても名前を叫ぶ。かつて自分の隣にいた愛しい人――華だったマネキンは呼びかけに応えない代わりに風に吹かれて体を半分起こす。両腕を前に出して、口を開いて固まっている華の姿。乳房は天使と言ってもいい可愛いらしい大きさで、全身は肉付きが少ない。スレンダーで、すらっとしたプロポーション。それは、卓己の中で「マネキン」に一番近いスタイルだった。
 その姿を見るだけで心地よく思えて、傍にたどり着いた卓己はマネキンを起こすと抱きしめる。肌のぬくもりはなく、ただ固い。しかし、その固さも時が経つと共に風化していく。
「華……お前、やっぱり綺麗だよ……」
 何日も外に放置されたことで表面は薄汚れている。履いていたボクサーパンツを脱いで顔を拭くと、綺麗になった。生前、唇が沈むほど柔らかかった頬は触れても無機質で、沈み込みはしない。それでも、卓己の脳内には柔らかな記憶が蘇る。
「華……ごめんな。俺は、お前と最後までいられなかった」
 卓己は抱き上げてから歩き出した。誰もいない場所だから車に気を付けるということも、誰かとぶつかることを気にする必要もなく、道路の真ん中を進んでいた。
「お前が死ぬ瞬間に一緒にいられなくて……残念だったよ」
 思い出されるのは最後の光景。華が自分の前からいなくなった時のもの。口が動いて、紡がれた言葉。
『別れましょう。あなた、私の体しか見てないんだもの』
 卓己には明確な反論が出来なかった。今でも記憶の中の華の顔を思い出せない。
 マネキンとして無機質になった顔が、泣き、笑い、照れる。喜怒哀楽を表現していたことさえもなかったように錯覚してしまう。だが、そんなことはなく、華は自分の前に確かに存在していたと卓己は信じる。信じると念じなければいけないほどあやふやな記憶からは意識を背けた。
『私が綺麗だから好きだって言ってくれるけど、それって整ってるってだけでしょ? モノ的なものでしょ?』
『死ぬまで一緒にいたいって、マネキン病にかかった私を見て綺麗だって思いたいだけなんじゃないの』
「そんなことないぞ……俺は、お前を愛していた。確かに、整ったものは好きなんだ。それは認める。でも、俺は女としてお前が好きだった」
 別れを告げられた時に何とか口にした言葉を虚空に繰り返す。抱き上げてすぐ傍にいるはずなのに、歩みを進める少し先に一定の距離を保ったまま。
『さよなら』
 去っていく華を卓己は固まったまま見送って。
 次の日から会えないままに死に別れてしまった。
「もうお前は離さない。最後まで一緒にいよう。俺も、マネキン病になってマネキンになって、死ぬから。美しいまま、死ぬ。もう、お前を離さない」
 卓己の言葉は当然ながら、マネキンには届かなかった。
 それでも卓己は構わなかった。綺麗なモノの傍で、綺麗なままに死ねるのならば問題はなかった。
「……腹が減ってきた」
 腹の虫が鳴っても華は料理を作ってはくれない。
 卓己は顔をボクサーパンツで拭き、頬に口づけをしてから息を吹きかけ、また拭いた。
「綺麗だ……ほんとうに……」
 卓己は熱に浮かされたようにパンツでマネキンの頬を拭き続けた。

 ◆ ◇ ◆

「おい、死体があったぞ」
「一人はマネキン病、か……もう一人は、餓死でしょうか?」
「水道も電気も止まってるしな。食料もなかったんだろう。ったく。どうやってこの街に入ったんだ。封鎖班には厳重注意だな」
「死体の状況からだと、死んだのは……一週間以上は経ってますね? 腐敗が酷い……うぇ」
「吐くなよ? 現場をこれ以上汚すな」
「恋人同士……でしょうか? 彼女は綺麗なままで死んだのに。彼氏は、自殺でしょうか」
「彼女がマネキン病で死んで、生きる気力をなくして避難せずに残ったまま自殺。このご時世には、よくあることだ」
 二人の刑事は、卓己だったモノと華だったマネキンに手を合わせた。
 刑事たちの言葉は当然ながら、死体とマネキンには届かなかった。


掌編ページへ


Copyright(c) 2015 sekiya akatsuki all rights reserved.