『友達の時間』


 いつもの教室。いつもの風景。
「音楽……?」
 どこか切なげなメロディー。
 でも、どこから聞こえてくるのかは分からない。
 その音楽を追って、視線を動かす。
 廊下に出ると、そのメロディーは更にはっきりと耳に飛びこんでくる。曲名は分からない。ただ、込められた気持ちは私の心を切なくさせた。
「これって……」
 ふと思いついて、音源へと向かう。
 最初は歩いて。目的の場所まであと少し。
 人目が気にならないわけではない。
 けれども近づいた、そう思うたび音がほんの少しだけ遠くなってしまうような錯覚に陥る。自然、急ぎ足になった。質量はないが、それでも手を伸ばせばつかめそうな気がする。
 足はとうとう走りだし、腕も前後に振られる。風が通り抜ける。息の鼓動が届く。階段を息を止めて駆け上がり、音源――音楽室が見えた。
 まだ、音楽は聞こえていた。この切ないメロディーを奏でているのは一体どんな人なんだろう。期待と、不安。何が期待で、何が不安なのかは分からない。それでも、一気に扉を開いた。この切なさの理由が知りたくて。
 ピアノの鍵盤が旋律を途切れさせた。驚いた顔で私を見ていたのは瑞々しい黒髪が背中に降りた、小柄な女の子。私のクラスの娘だとは分かったけれど、名前が思い出せない。思い出そうと留まっていると、向こうから話し掛けてきた。
「椎子ちゃん」
 返事に窮する。ただの好奇心と言ってしまえばそれだけのこと。けれどももっと違う理由があるような気がして、言葉を探した。私が答えられずにいると、彼女は不思議そうに、そしてどこか哀しそうに、続けてきた。
「どうして、ここに?」
「曲が、きこえたから」
 言えたのは真実だけど、凄い間抜けな答えだった。彼女は口に手を当てて静かに笑った。その笑い方が綺麗で、寂しそうで。急に思い浮かんだ彼女の名前を、私は呼んだ。
「香澄ちゃん!」
 場違いな発言だったかもしれない。それでも、彼女はそれを気にするわけでもなく、笑みを崩さなかった。その静かで綺麗な笑みはどこかお人形のような印象を受けた。
「椎子ちゃん、なんか可笑しい」
 香澄ちゃんは変わらず笑っている。印象は変わらないけれど、近づいていくと人形は徐々に人間に戻っていった。代わりに現れたのは――
「何かあった?」
 何も無いように、彼女は笑みを崩すことなく聞いてきた。
「ううん、なんでもない」
 きっとあれは私の見間違いだから。いるはずの無い、あるはずの無い、モノだから。私は平然を装って続ける。
「そう……それって、なんて曲なの?」
 話題を自然と変える。でも、それは失敗したらしい。笑みが、割れる。人間から、人形に戻り、割れていく。彼女の瞳から、涙が溢れていた。
「やっぱり、私の音楽届いちゃったんだ」
 先ほどの静かなイメージとは変わった無邪気で純粋、そして残酷な子供のような笑顔。何より先に恐いと思った。けれどもその瞳から溢れる涙は本物だと思った。
「香澄……ちゃん?」
 香澄ちゃんは立ち上がり、ピアノから離れた。それだけでまったく別の生き物になってしまったように思える。ゆっくり、ゆっくりと小さな足音を置き去りに、香澄ちゃんは私の前に来た。手が上がり、私の首を包み込むと彼女は顔を私の胸にうずめた。
「一番届いてほしい人には、もう届かないのに」
 彼女は独り言のように続ける。
「なのに、なのに、どうして貴女なんかに届くのよ……」
 その声には諦めと絶望、そして後悔が入り混じっているような気がした。彼女の氷のような手で包まれた首と、涙で冷たく濡れた胸は、私の心までをも哀しくさせた。
「……仕方がないじゃない。届いたんだから」
 私は彼女の身体をしっかりと抱きしめた。壊れそうな、消えてしまいそうな彼女をその場に留めるように。しゃくりあげずにただ『泣く』香澄ちゃん。
 答えにならない答えに、どう思ったんだろうか。
「そんな……そんな理由……」
 どこか危うげな彼女の体を強く、強く抱きしめる。うまく言葉は見つからないけれど、きっと私に届いたのは、私に出来ることがあったからだと思うから。私の首に触れていた彼女の手だけが、ただ泣くだけの彼女とは別物のように不意にじわりと力を込めた。
「私は……貴方のこと、知らないよね」
 喉が締められる力は変わらない。でも、強まりも弱まりもしない。何を言おうとしているのか彼女は聞いていて、聞き終わるまでは次の行動を取れないんだ。
「貴方も私のことは知らない。知らないから、言えることってあると思わない?」
「……そんなこと」
 彼女はポツリと呟いた。答えが出るまではこの手はきっと動かないのだろう。私は彼女の哀しみを知らない。でも、きっと彼女も私の哀しみを知らない。
 ならば、少しずつでも、共に――。
「他に弾ける曲ってないの? 香澄ちゃんって」
 跳ねるように上がる顔。急に話題が変わったことに思考が追いついていってないみたい。私だってそうなんだから……動揺してるんだろうな、やっぱり。首にかかった手を掴んでゆっくりと胸の前に持っていく。
 彼女がやっと見せた顔は、涙の後の残る人間の顔。それに私は笑顔を浮かべた。
「あの曲は……私が弾いてたんじゃないの……でも、私が弾いてたの」
 笑顔とも泣き顔ともとれる顔で、彼女は続ける。
「って、意味分からない、よね」
「うん。分からない」
 素直に言うと香澄ちゃんは更に破願した。この娘が凄い笑顔の似合う女の子だったと初めて気づいた。一つずつ、ばらばらだったパズルのピースがはまっていく。
「やっぱり、まだ話せない。だから……」
 彼女は笑顔を浮かべて言った。それに私も笑顔で答えた。
「今さら、そんなこと」
 そして、続ける。
「知らないから言える事ってあるんだから。でも、香澄ちゃんが言いたいって思ったら……いつでも良いから話してね。知ってるから言える事もあるからさ」
「うん。これは……知ってから、聞いてほしい、な」
 語尾が、震えていた。おずおずと私を見てくる香澄ちゃんの瞳には、はっきりと戸惑いが浮かんでる。きっと彼女は、凄く苦しいことを心の中に溜めていたんだろう。その苦しさの中心にいるのが、きっとあの曲を届かせたかった人なのかもしれない。
「いつでも、良いよ。でも、いつか……いつか話してね」
 私がそう言うと、彼女は笑顔を浮かべた。最初に見た静かな笑顔でも、人形のような綺麗なだけの笑顔でも、歪んだ笑顔でもない、彼女に似合う飛び切りの笑顔を。それを見て、彼女の言葉がよみがえる。だから、だからね。
「友達になろうよ」
「……うん」
 香澄ちゃんの手を包み込んだまま、私は勢いよく手を振った。一つはまるパズルのピース。全てがはまる時に見える本当の彼女への第一歩を、私は踏み出した。




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