素直になりたい

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 どうしても言い出せないことがある。
 喉の奥までは上がってくるんだけれど、その先へはどうしても進むことが出来ない。
 越えられない壁。見えない障壁。
 呼び方は何でもいいけれど、一歩が遠い。ぶら下がっている広告を見ながらため息をつく。それと同時に電車が大きく揺れた。身動きがあまり出来ないほどに込んでいる車内は、通勤ラッシュから少し外れた時間帯。制服が皺になるけれどまだ他の人に密着されるよりマシだ。
「陽奈はほんと、元気な時は凄いんだけどね。アクティブで」
 揺れる電車の中、隣に立っている千鶴は私のため息の理由を分かったみたいだった。通勤ラッシュに落ち込んでいるのもあるけれど、今の悩みはもっと別のもの。身体とは違う圧迫感を心に感じていた。
「もう十月だよ? 私達も来年には大学生。陽奈もここから離れちゃうんだし、最後に一花咲かせないと!」
「千鶴はさ、そりゃ彼氏いるからさ。いいんだけどさ。でもさ、私はさ」
「さぁさぁうるさい! まあ、気持ちも分かるけどね。恋は人を臆病にするものよ」
 中学から今までほぼ六年間一緒にいる千鶴だからこそ分かること。私の境遇を今の高校で理解しているのは彼女だけだ。
 そう。私には今、好きな人がいる。私達高校三年生が直面する最大のイベントである受験戦争の真っ只中で、私は別の問題に直面していた。大学自体は少し前に引退した部活でスポーツ推薦を取るくらいは活躍できたから、問題ない。怪我をしない程度に身体を鍛えなければいけないけど、それも最近流行のキャンプに入隊したから何とかなる。
 あとは、意中の人に思いを伝えるだけが重荷だった。
 まず相手はどうやら一年生だということ。去年見たことなかったから、おそらく。でも私や千鶴が通う私立榮凛学園高校は全員で大体1100人くらいで、科も四つに分かれてるから自信はない。ただ、三年生ではないことだけは分かった。さすがに三年間同じ学年の人は名前は分からなくても姿は見たことがあったし。
 二番目の問題は、接点がほとんどないこと。私と同じく普通科だけれど三年は二階で一年生は四階。二階の差は大きい。三年にとって昇る用事なんてないじゃないか。
「ないじゃないの」
「そうね。ないねって、あるじゃないの」
「あるの?」
「あるある」
 千鶴は何をないと言って、何をあると言っているのか分かってるんだろうか? でもあるあるないないと言ってるのが楽しくなった。確かにある気がしてくる……。
「あ、あった」
「あったでしょ?」
「なんとも自然に四階に行けるわ!」
 興奮して思わず叫んでしまった。ここが電車の中だと忘れて。私の声量は周りの人たちの不評を買うには十分だったんだろう。刺すような視線が痛くて私は縮こまった。でも心の中は今日の期待に膨らんでいた。
「学校の施設を利用しない手は、ないわ!」
 小さく鋭く言った私に千鶴はうんうん頷いた。



 満員電車を降りて、学校の前まで来たまではよかった。頭の中は思いついたアイディアでばら色だった。昼休みに生徒達の休憩スポットとして開放されてる屋上にお弁当を食べに行く。帰りに一年生の廊下を通って彼の姿を見に行く。クラスが分かれば靴箱に手紙を入れたりとか次の行動へと移れるかもしれない。
 でも、校門に入ったところで身体に違和感を感じた。頭と身体が重くなる。下腹部の奥が痛み始めて、私は月に一回の血祭りのことを思い出した。そろそろだと思って一応用意はしてきたけれど、まさかこのタイミングでなるなんて。明日明後日だと思っていたし、グッドアイディアを思いついた直後だっただけにかなり痛い。始めは特に重いから、一日中教室から動けなくなる。屋上までの階段を昇り降りなんて不可能だった。
「うえぇ。憂鬱」
「陽奈、タイミング悪いだけだよ。気持ちまで沈んでたら今日一日廃人だよ」
「静けさや、蛙ぶち込む、水の音」
「保険室行って寝てなさい」
「突っ込みなしは辛いよ」
 そう言い合って、千鶴と別れて保健室に向かった。なんだかんだ言って私を心配してくれているから、気分を紛らわせようとしてくれる。気持ちが分かるからこそ、このまま大人しく寝ていよう。
 保健室はエントランスで靴を履き替えてから左に進むとすぐ見えた。職員室の隣だから保健室の先生に言えば一時間目は休ませてもらえるだろう。
 でも、私は保健室の先生は少し苦手だ。だって。
「あ」
 まだ朝のホームルームが始まる前。ほとんどの生徒がクラスに集まっている中で、男子が保険室から出てきた。その顔に満足感を称えて。それも足を進めて行くほど潜めていく。私は靴箱の陰に隠れてその生徒をやり過ごした。見覚えがある。確か、隣のクラスの藤崎君のはずだ。身長もあるし筋肉もあるし、おまけに口調が古くさいから他の男子と混ざっていても目立つ。
 目立つ男子が目立つ時間帯に保健室から出てくる。やっぱり、無理してでもホームルームでようかな。考えを変えて教室に向かおうとしたけれど、一瞬視界が黒くなった。あ、駄目だって……。
「大丈夫? 明石さん!」
 切羽詰った声が私を現実に戻した。咄嗟に手が靴箱にかかったおかげで倒れずにすむ。自分の運動神経にも感謝をしなければ。あと、声をかけてくれた人にも。
「大丈夫です……佐倉先生」
 私の言葉に佐倉先生は綺麗な顔を安心にほころばせた。その顔が私から見ても美しくて、嫉妬してしまいそうになる。仕事中はいつもアップされてる髪の毛が今は肩口の辺りでそろっていた。そうか。男の子との情事の時は下ろしてるんだ。
 下腹部がまた痛くなって、いらつく。自然と頼む言葉もきつくなった。
「今日、貧血なんで一時間目の間休ませてもらっていいですか?」
「……ええ。いいわよ。お薬いる?」
「寝ていれば治ると思います」
 保険室に男の先生っているのかな? こういう時に女の先生だとすぐ分かってくれるし、女子も言いやすいだろう。保健室に用があるのは女子が多いだろうし。受け入れられた安心感からだろうか。佐倉先生に誘われて保健室に入った時には不愉快間も収まっていた。
 保険室に入って、三つあるベッドの内一番窓側を選ぶ。廊下側よりは窓側が落ち着いた。私をベッドに寝かせた先生はクラスと名前を聞き、担任に連絡すると約束して保健室を出て行った。これから先生方も朝の会議。それから私達のホームルーム。
 この時間帯は傍に生徒もいない。先生達も壁を挟んで違う部屋にいる。
 私だけが、静けさの中にいた。
「寂しいけど、嫌いじゃないんだよね。この雰囲気」
 かけられた毛布の中に落ち着いたところで、痛みも少しやわらぐ。すると疲れていた身体が睡眠を欲したのか、急に眠くなってきた。まどろみの中で私はさっきの男子生徒と先生のことを考える。
 佐倉桃香。
 保険医。私の歳からすれば、少しおばさんの域にあるんだろうけど、正直私よりも若く見えたし、綺麗だった。きっと学生時代はもてたに違いなかった。何しろたくさんの男子生徒と関係を持っているはずなんだから。
 その噂は私がこの高校に入った時からちらほらとささやかれていた。主に放課後、保険室や空いている教室なんかで、夕焼けに染まりながら先生と男子生徒が抱き合っているのを部活で残ってた男子や女子が見ている。それでも決定的な証拠がないからか、特に問題になったことはなかった。そういうのに煩そうな先生も佐倉先生には手を出さない。その先生も佐倉先生と不倫していて、手を出したら自分のことも明るみになるからだと蔑まれていた。
 美人は、得よね。
 そんなことを考えていると意識は一気に闇に落ちる。私の想像も暗闇に溶け込んでいった。



「熱も下がったみたいね。よかった」
「ありがとうございます」
 結局、三時間目までずっとベッドで寝ていた。一時間目が終わったところで一度目を開けたけれど、微熱と下腹部から来る痛みとで身体がだるくて何もする気が起きなかった。先生もそのあたりは理解してくれたのか、私の担任に午前中は無理かもしれないと伝えてくれた。結局、一時間早く復活することになったんだけれど。
「私は保険医なんだから皆の疲れを少しでも取るのが仕事。だから、申し訳なさそうにしなくていいの」
 まるで親が子供に言い聞かせるような口調だ。そこまで差は離れてないのに、この安心感はなんだろう。同年代の女の子とは違う。そこまで大人じゃないはずなのに、子供でもない。つけている香水もそんなにきつくない。そういえば緊張を和らげる匂いがあるみたいだけれど、それかもしれない。
「先生。そんなに優しいから男子に人気あるんですね」
 完全に油断してた。安心して口が軽くなっていた。先生は私に背を向けて机に向かっていたけれど、身体を震わせた後で動きを止めた。しまったと思った時はもう遅くて。取り返しのつかない。少ししてこっちを向いた先生に私は謝っていた。
「あ、ご、ごめんなさい」
「いいのよ。事実だもの」
 先生の声に含まれていたのは諦めだった。凄く寂しそうで、どう声をかけたらいいか分からない。そもそも、恋愛なんて怖くて出来なかった私が経験豊富そうな先生に何が言えるんだろう。
「明石さんは、恋したこと、ある?」
「あ、あります、けど」
 語尾が消えそうになった。自分の声が頼りない。大会の時、走る時は信じるものがあった。
 練習してきた時間。それに耐えてきた身体と心。
 経験値が私の自身となっていた。でも恋愛に関しては私は初心者もいいところだ。自身なんて持てるるわけがない。
「私は、あなたが思ってるよりもずっと、駄目な女なのよ」
 先生はとても悲しそうに口を開いていた。


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