『理由』


 身体を包んでいる炎は、熱さを感じなかった。
 分かってる。これは夢で、私が見た光景でも何でもない。ただ、想像しただけだって。体験したわけでもないのに、これだけリアルな映像が浮かぶのは何故だろうか。いくら考えても答えはでない。ただ、ちょっと前に見た戦争のドキュメントの映像と少し似ていたから、脳内で変換されたのだろうと思う。
 炎に包まれたままで周りを見回すと、みんな私と同じだった。違うのは全く動かないこと。匂いは感じないけれど、きっと胃の中の物を全部吐き出してしまうに違いない。
 やがて、息苦しさを感じてきた。それに合わせて身体を包む炎も大きくなっていく。さっきまで感じてなかった熱さが広がっていって――
「――ぁあ!」
 起き上がると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。好きな、青いカーテン。日光が起きぬけの目に焼き付いて、カーテンの表面にぽつんと残像が残る。それが乾いた血の後のように思えて、身体が震えた。きつく抱きしめると、パジャマが汗をかいている。薄暗いからはっきりとは分からないけれど、パジャマのピンク色が濡れて濃くなっていた。
「……最悪」
 だるさが残る身体を強引にベッドから出して部屋を横切る。カーテンを開ける前に着替えないと。いつもは前のボタンを外さないでシャツを脱ぐようにするけど、生地が肌に張り付いてくる。しょうがないから一つ一つボタンを外した。
 露になる胸元には引っかき傷があった。昨日まではなかった気がする。でも、あった気もする。
『あの日』から何日が経ったのか記憶が曖昧だった。ただ、最初の数日は寝られなかった気がするから、夢を見るようになってるだけでも進歩はしているのかもしれない。
『どちらに対して進歩なのか』は分からないけれど。
「…………」
 頭と身体が遊離している感覚が、あった。
 ふらふらと私は窓際に近づいてカーテンを開くと、裸の上半身に日光が当たる。浮かび上がる赤い筋。爪の跡。細めた瞼を通りぬけて入ってくる光が脳を刺激したのか、私の身体と意識がしっかりと繋がるような気がした。
「――っ」
 露出した肌が恥ずかしくなって窓から離れる。誰かに見られたのか心配だったけど、時計を見ると午前九時だ。近所の高校生なら学校だろうし、井戸端会議もないだろう。
 馬鹿みたいだ。自分がどうなってもいいと思っているから、こんなことができるんだろう。一瞬、何も気にしなくなった後で、後悔する。そんなことが続いていた気がする。
 ……今、私は何をしようとしたのか?

 私は、窓から飛び降りようとしていた。

「……嫌よ。死ぬなんて」
 言葉は力になる。呟くと自然と身体に活力がみなぎった。今日はそうじゃなくても覚悟を決めていかなければいけない。みなぎる力が虚構のものだと分かっていても、すがるしかなかった。
 勉強机に置いてある写真立て。そこにいる、私と彼。
 昨日に聞いた言葉を思い出す。
『彼が最後に伝えたかった言葉を、教えてあげる』
 彼の中にいた、私じゃない誰か。最後の言葉を、聞いた女性。
 最後に彼は、彼女を選んだ。自分を押しつぶす焼けた死体の中で。
「隆(たかし)……」
 主を持たない名前が、部屋の中に消えた。



 歩いているうちに、道路が沈み込まないか心配になる。別にアスファルトなんだからそんなことはないと分かってる。でもずぶり、と何かを踏み潰す感触に視線を向けると、焼け焦げた死体があった。
 足から頭まで電撃が走る。でも、瞬きすると死体は消えていた。分かってる。幻覚だ。
 何度、分かってるという言葉を使っただろう。自分を納得させるため……なんだろうか。
 考え込んで、ちょうど足が止まったところが電気屋の前だった。外に向けて置かれているテレビではニュースが流されている。
『二週間前に起きた電車の脱線事故により死亡した人々の遺族が――』
 あれから二週間しか経ってないんだ。隆の乗る電車が炎に焼かれた時から。
 時間の流れが遅く感じる。いや、速かったり遅かったりと安定しない。時間のブレと一緒に私自身もブレていく。
 うっすらとガラスに映っている自分の姿は、幽霊のように見えた。ガラスに映っているからじゃなくて、本当に薄いんじゃないだろうか? 行き交う人々が私の身体を通り抜けていくんじゃないだろうか……。でもそれは夢想で終わり、立っている私を避けて人の流れは進んでいく。一つ熱を吐き出して、また歩き出す。
 これから会う女性は隆にとってどんな存在だったんだろう。二日前に私の携帯にいきなり連絡をとってきたのは、彼と付き合っている中で何度か名前を聞いたことがある女の人だった。高校時代からの友達というその人のことを語る隆の顔は優しくて、安心する思いが溢れていた。大学から知り合った私にはどうしても入り込めない領域。隆の中で、私との場所があるのは確かだったけど、その隣にもう一つの場所があることも疑いようがなかった。
(私……ずっとあなたに会いたかったのかもしれない)
 私よりもある意味愛されていた彼女に会ってみたかった。声に出して隆に言ったこともあったけれど、いずれと言われて結局その機会は訪れなかった。
 それが、彼が死んだ後にだなんて。
「――にたい」
 信号が赤。前に車が行き交うぎりぎりの位置に止まる。意識が離れたまま、口が動いていた。空気が急に動くのを感じて横を見ると、呟いた言葉が聞こえたのかそこにいた男の人が気味悪そうに私を見ていた。目が合うと即座に視線をそらす。
 私は何を言ったのだろう?
 視線を前に戻すと、しばらく続く自動車の群。
 足を踏み出せばこの流れに乗っていけそうだ。
 足を踏み出そうとして、信号が青になると私を通り越して人が流れ出す。心臓が高鳴り、嫌な汗をかいていた。それでも立ち止まることはせずに横断歩道を渡りきる。
 さっき、私は「死にたい」と言ったんだと理解した。
 目的地を目指しながら考える。何か、心の中にくすぶる物があった。理由は分からないけれど、それが私の心と頭を揺さぶる。そして、私を隆の下へと向かわせようとする。まるでもう一人の自分がいるみたいだ。
 このくすぶりの理由を、彼女は持っているだろうか。
 待ち合わせの場所に着いて周囲を見回す。そこはベビーカーを押した私より少し年上の母親が何人かで話していたり、ベンチでぼんやりと座っている男の人がいたりした。街の中心部にある、比較的大きな公園はこの街のささやかな誇りだ。ここには生の活力が集まっていた。綺麗な砂利が敷き詰められた道を歩くと、足の裏から小さくしゃりしゃりと音がする。植えられている木は青々としていて視界に潤いを与えてくれる。この街が、憩いの場を本当に大事にしているということだろう。こういう場所にいると、この滅入った気分が少しだけ軽くなるような気がしていた。呼び出した相手は私のこんな感情も分かっていたんだろうか。
 中央には噴水があり、今は水を吹き上げていない。その噴水の縁に、女性が腰掛けていた。ワンピースの上に秋物のカーディガンを羽織っていて、どこかお嬢様風な印象を受ける長い黒髪と温和な顔。私の顔とは全然違う。私は、服はシャツとジーンズが主だったし、顔もどちらかというと少年っぽいと言われるし。
 相手は下げていた視線を私に向けてきた。でも私は歩く速さは変えずに、淡々と歩を進める。やがて目の前に立って、互いの顔をじっくり見る形になる。  客観的に見て、この二人が会っているというのはどう見えるんだろう? ただ、明るい話題じゃないってことは分かるだろう。彼女の顔も、私と同じくらい沈んでいたから。きっと、彼女もまた、ここの空気に癒されたいからこの場所を選んだのかもしれなかった。
「香田美緒、さん?」
「三澤薫さんね。初めまして」
 彼女は立ち上がって頭を下げた。肩の辺りにあった髪がさらりと流れる。女の私から見ても、綺麗だと思う。
「来てくれて、ありがとう。断られるかと思った」
 その話し方も容姿と変わらず柔らかかった。きっと、彼女を嫌う人間はどこか素直じゃないに違いないとまで思う。だから、私はきっと素直じゃない。
「電話で言っていたこと、教えて?」
 声に棘が混ざるのを止められなかった。彼女が良い人間だと思えば思うほど、私の中で憎悪が膨れ上がる。この女が嫌いだ。この女に奪われた。
「隆は何を、残したの? 私じゃなくて、あなたに」
 言葉にするとそれはあまりにも単純なことだった。実はすでに答えが出ていて、それを言葉にすれば輪郭が与えられてしまうから避けていただけなのかもしれない。
 美緒さんはきっと急激に変わっていった私の顔を見て、一瞬ひるんだようにも見えたけれど、すぐ立て直した。こうして私の憎悪が向けられることを予想していたんだろうか。私が傷つくことを分かっていたのだろうか。
 なら、なおさら許せない。
「なんで、私じゃなくてあなたに電話したのかしら。隆は。私じゃなくて、あなたに」
 一つになった気がした。それまで私の意識と身体が分離したようなときに身体を動かしていた『私』と、私が。
 答えはあった。でも、曖昧なままだった。その答えが向かう先が、姿を見せなかったから。
 だけど輪郭は与えられてしまった。曖昧なものは、はっきりとしてしまった。
 私を隆の下へと誘う感情の正体を、理解してしまった。
「どうしてあなたなの? どうして私じゃないの? 死ぬ前に電話する相手が!」
 私の叫びに離れたところにいた人達の視線が集中するのが分かった。美緒さんも顔を強張らせたまま私を見ている。言いたいことを、伝えたいことを叩きつけたかった。
「私の中で、隆は一番だったのに! 隆の中じゃ貴方だったのね……分かってたわよ。私を恋人として大事にしてくれるけどに、それとは違う感情で貴方を見てるってことは! でも……それでも最後には私を選ぶと思ってた。同じ重さだとしても、最後に私を取るんだと思ってた!」
 でも、死ぬ前にその声を聞いた相手は、美緒さんだった。それは裏切りに等しかった。極限状況の中で、隆が連絡を取りたかった相手が私じゃなかったということは。
「凄い、情けないじゃない」
 確かに言葉には力があった。確かに情けなかった。これは完璧な八つ当たりだ。きっと、話に聞かされた時から無意識のうちに美緒さんに嫉妬していたんだろう。
 だから私は、これから隆の中に自分の場所を広げていくんだと思っていた。いつか美緒さんとの思い出よりも、私との思い出が大きくなるようにするんだと決意していた。でも、美緒さんとの思い出が重いままに、隆は逝った。どうしようもなかった。
「気が、すんだ?」
 いつの間にか下を向いていた。だから、彼女の声が震えていることに驚いて顔を上げる。
 真っ直ぐに私を見たままで、美緒さんは涙を流していた。頬を伝って落ちる雫を目で追って、地面に溶け込んだところでまた視線を戻す。
「駅の四二三番のロッカーを見て」
「……え?」
 唐突に入ってきた言葉に思わず聞き返す。もう一度、美緒さんは同じ言葉を言った。四二三番のロッカーを見て。
「そこに、隆からあなたへの誕生日プレゼントが入ってるわ」
「誕生日プレゼント……?」
「今日でしょう? 誕生日」
 美緒さんに言われてはっとする。今日の日付を思い出してみると、確かに私の誕生日だった。日付の感覚も分からなくなっていったし、家族も私に声をかけるのを遠慮していたからすっかり忘れていた。
「私は伝言を頼まれたの。あなたの誕生日プレゼントを、その日に渡したいからって。今日の日に自分で渡すつもりだったみたいね……駅でいきなり渡して驚かそうとしたんでしょう。隆君らしいわ」
「でも……どうして? どうしてあなたに?」
「まだ、あの時は……隆は生きるつもりだったのよ」
 初めて、流れ落ちる涙をぬぐって、美緒さんは続けてくる。
「事故に遭って、運良く携帯も壊れてなかったし、身体もさほど怪我してないようだった。ただ、他の乗客に押しつぶされてる状態で苦しそうだったけれど……悲壮感はなかったわ。だから、この電話は保険だって言ってた。助かっても意識なくなるとかがあるかもしれないからって」
 何も言えなかった。結果として隆は死んでいたし、それに、美緒さんの手はこのままだと血が流れ出すんじゃないかというくらい握り締められていたから。私の頭から血と共に怒りが消えていく。
「次の瞬間、大きな音がして……隆君の叫び声が聞こえて……電話が切れたの」
 俯いて、美緒さんはさっきよりも震えていた。涙の量も増していって、ぼろぼろと零れ落ちる。
「きっと、隆君は、死ぬかもって思っていたのかもしれない。だから、私に電話したのよ。死ぬ前の声を、あなたに聞かせたくないからって」
「あ――」
 美緒さんの言葉が胸に突き刺さる。それは本当なのか分からなかったけれど、真実のように思えた。
 私が知ってる隆なら、そうするかもしれないと思った。それはきっと美緒さんも同じだったんだろう。きっと、誰よりも彼を知っている人だから。
「隆君はね、やっぱりあなたが一番だったのよ。あなたが一番大事だったからこそ、あなたに電話するわけにはいかなかった。最後の時に他の人のことを考える余裕がなかったんでしょうね……」
 もう私の中にあるのは悲しさだけだ。彼や美緒さんのことを憎んでいた自分。美緒さんの中にずっとあった、悲しみ。
「この二週間……貴方や隆君のことを恨まない時がないって言ったら嘘になる。でも、どうしても恨みきれなかったのよ。隆君の性格も分かっていたからこそ」
 俯いたままで、美緒さんは私の隣を通り過ぎていく。どう声をかけていいのか分からずに、喉が詰まる。
「これでもう会うことはないわ。電話番号も消してね。……隆君を、思い出にしてあげて」
 美緒さんが去っていくと、ふわっと風に乗って匂いが流れてきた。それに乗るようにして、涙が溢れる。目の前の噴水の縁に腰をかけて、手で顔を覆った。指の隙間から見えたのは美緒さんの後姿。涙で揺らめいている視界の中でも、顔は真っ直ぐ上げて足取りも整っている。
 彼女の中で、隆は思い出になったのだろうか。彼の、私への思いのために断末魔を聞くことになった彼女は、その衝撃から立ち直ってるんだろうか。
 そんなこと、あるわけないんだ。きっと、その声は美緒さんの中で鳴り響いている。それと共に生きていくんだろう。確かめるすべは、もうないだろうけど。
「四二三番のロッカー……」
 ロッカー。そこに、隆の最後の思い出が詰まってる。それを手に入れない限り、彼を思い出にすることは出来ない。ただ、その覚悟がまだつかなかった。
「……ごめんね……ごめんなさい……」
 隆へと、美緒さんへの謝罪の言葉。
 どちらももう届かないけれど、私は呟かずには、いられない。





裏小説ぺージへ