ふわりふわりと、水色の衣が舞う。長いぬばたまの黒髪が、それに連れて揺れていた。
 涼しげな面差しのその青年、名を蜻蛉といい、かつて神職にあった身である。かつて、というのは、彼がすでにこの世ならぬ者――死人であるからだ。だが、彼の要望の匂い立つような艶は、死によっても奪われることはなかった。
「……何をしている?」
 声と衣擦れが唱和する。周囲を包む濃い夜霧は数メートル先でさえ視界を妨げていたが、彼の声は濃霧を突き破り、うずくまっていた人影へと届いたようだった。答えがないことを特に気にすることなく、彼は歩を進める。一歩、また一歩と。
「そこは寒かろう。暗かろう。そなたが望むのであれば、我が祝詞により天へ上れるよう、力を貸してやってもよいぞ?」
 蜻蛉は、言いながらさらに進んでいく。もう少しで、彼の繊細なその手がうずくまる者へ触れるという刹那。
 風が巻き起こり、蜻蛉へと押し寄せた。いや、それは形を持ったものではない。証拠に、周囲を満たす露は揺らめくことさえない。  圧倒的な不可視の一撃を、しかし蜻蛉は手の一振りでかき消した。
「ほう……どういうつもりかな?」
「キサマ……クウ。クウクウクウクウクウクウクウクウクウククククククク」
 しわがれた声は、後半完全にかすれて聞き取れなくなる。意味を成さないうめき声を上げ、それは蜻蛉めがけて突き進んできた。蜻蛉は、物憂げに嘆息する。
「困ったものだな」
 純粋な殺意をぎらつかせ、突進してくる相手に対して蜻蛉は特に慌てることもなく対峙する。
 右手の五指が独立して動き、骨の音が重なる。
「消えろ。永久に」
 祝詞のそれではなく、強制的な消滅が放たれた。
 百光。浄き光は、闇の如き魔物を灼いた。咆吼が上がり、相手は身をよじって後じさる。蜻蛉の生み出した光は、その後も尚その場に白々とした光を投げかけている。蜻蛉は、ようやく相手の姿をその目にして、微かに目をすがめた。
「……子供?」
 百光により、肩口まであったらしい黒髪がちぎれていた。そのことで露になった顔はまだ少女の面影を残している。黒く見えた服装はセーラー服。錯覚だとは蜻蛉は理解していたが、服は霧に濡れているように見えた。
「なんと。これはやっかいな」
 年若くして不慮の死を遂げた者は、ねじれた強い想いを残す。そして、それがために生ける人々に害を成す存在と成りやすい。何より始末に負えないのは、そうした者の大半が、己の死を受け入れず、理解もしていないことだ。
「な……に……?」
 少女の口が人語を紡いだことで、蜻蛉は一つ光明を見出した。どうやら衝撃により錯乱から目覚めたのだろう。上手く立ち回るならば、少女を安らかに眠らせることが出来るかもしれない。
「私は敵ではない。……怪我をさせてしまったがな」
「ああ……う」
「私の言葉がわかるか? そなたは、すでに死んでいる身だ」
「死んで……死んで……う、ああ!」
「狼狽えるな!」
 蜻蛉は少女へと徐々に近づいていく。先ほどまで自分を殺そうとしていた敵はもうどこにもいない。いるのは全身を涙で濡らし、心細さに震えているか弱き仔猫だ。
 二歩進み、一歩少女が後退する。そんな状況をしばらく繰り返してようやく蜻蛉は少女の頬に触れられる距離へと立った。
「我が姿が、見えるか?」
「う……見え……る」
「なれば、我が瞳に、そなたの姿は映っているか?」
 蜻蛉が問うと、少女はじっと彼の顔を――彼の瞳を凝視してきた。黒の双眸。
 そこに映る自分の姿を、少女はゆっくりと吸収していった。自らの主へと還る瞬間を、蜻蛉は口元にかすかに浮かべた笑みとともに見守る。
 やがて少女は一つため息をつくと、蜻蛉へと問いかけた。
「私は……誰……なのでしょう?」
「お前は死した者だ」
「死した者?」
「そうだ。このままこの世に留まり漂い続けるか。はたまた天へ昇るかは、お前自身が決めること。私は、それを手伝ってやろう」
 少女はこくん、と頷き、頭を垂れた。蜻蛉は少女の頭に手を置き、祝詞を紡いでいく。少女の身体は光に包まれ、霧と混ざりあう。輪郭がぼやけ、身体を構成する要素が溶けていった。


 少女がなぜ、死人となったのかは知らない。わからないままだ。蜻蛉には、もとよりそれはどうでもよいこと。そもそも、彼がこうして死人を浄化すること自体、気まぐれによるものなのだ。生前も、神を祀る職にありながら、彼は至って気ままであった。
 今宵、何が作用して彼を行動させたのか分からない。彼自身も理由は正確に把握していないだろう。
「……いくか」
 そして彼はまた、霧の中へ消えていく。
 気ままに、何を求めることもなくただ歩を進めていった。




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