夏の終わり

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 屋上の上にある青く突き抜けた空から、何の前触れもなしに雫が降りてきた。今まで晴れていたのだからもちろん傘など無い。放っておいても止むだろうと、僕はここと空を分けるフェンスに身体を寄りかけ、目を閉じて雨音を楽しむことにした。初秋の空気は真夏に比べると肌寒い気もするけれど、まだまだ半そでのワイシャツで十分だった。
 肌とシャツに染み込む雨水は、僕の体の内まで冷やしてくれるように思えたけれど、実際には心臓の強い鼓動が運ぶ血液の熱さが体温の低下を妨げている。目を閉じたままだからなのか、徐々に眠気が浮き上がる。水底から浮かび上がる泡が眼前に広がる暗幕へと映し出され、次の瞬間には自分がその泡の中に包まれたような錯覚に陥った。
 ゆったりと時が流れて――
「水も滴るいい男、よね」
 背筋に走る震えに即されて、僕は目を開けた。息がかかる距離に、つぶらな瞳を持つ茜の顔がある。少し視線を下に向けるだけで弾力がありそうな唇が見えて、僕が前に顔をずらすだけでその感触を味わうことが出来る。
「目覚めのキス」
 でも、先にずらしてきたのは茜だった。僕を覆う泡を割り、唇が繋がる。乾燥を抑えるリップクリームでも塗っているのか、少しミントの味がした。
「はははははは、はずかしいだろ!」
「誰も見てないし、いいじゃない」
 茜はキスしたのに何の照れも無く、僕の隣にやってくる。視線はフェンス越しに見える風景。この高校から少し離れたところにある小学校では、運動会が開かれているらしく、リレーの時によくかかっている『軽騎兵序曲』が聞こえてきていた。その音楽に過去を回想しているのか、茜は整った顔を笑みの形に変えてその旋律を呟いている。
「この音楽聴いてると楽しくなるよね」
「……そうだなぁ」
 自然とポケットに手が向かっていたらしい。気づけば、ちりんと音が鳴っていた。ポケットの外側からさすり、形状を確かめる。ゆっくりとポケットに手を入れてそれ――風鈴を取り出した。白地に赤と青の線が模様を描いてるだけのシンプルな物。目の前に掲げて揺らすと音が鳴る。さっきよりもおさまってきた雨に当たることでも鳴る音は、遠くからの音楽よりも確かに僕に響き渡る。
「それ、いい色してるよね」
 茜の言葉には本当にそう思っているのか微妙だったけれど、素直に頷く。
「だって、爺ちゃんの形見だもんな」
 もう一度吊り下げて、僕は風鈴の音を聞いた。雨は上がり、出来た水溜りに映った僕等の姿は歪んでいた。



 爺ちゃんが死んだのは、本当に突然だった。僕と並んで甲子園の決勝戦を見ていたら、いきなり僕のほうへと倒れてきた。最初は笑いながら揺さぶって起こしていたけれど、うす目を開けたまま意識を失っていた爺ちゃんの顔は僕の心に不安と恐怖、そして虚無を与えるには十分過ぎた。ぼんやりとしたまま加速した周りの流れに乗り、僕がはっきりと意識を取り戻したのは白い布を顔に被せられた爺ちゃんの前だった。布を取ると、口をぴっと引き締めて、青白い顔を上に向けた爺ちゃん。つけていた時計を見ると午後七時。たった数時間前まで隣で高校生を応援していたのに、その顔が動くことなく僕の前にあった。
 顔に触れて良いのか分からなかったけれど、ちょっとだけ触れてみた。
 冷たくて、固かった。
「――思い出してたの?」
「ん」
 茜の声に思考の水溜りから顔を出したところで、電柱とキス直前まで行っていた。雨上がりのアスファルトからは湿った匂いがしていて、僕は爺ちゃんが死んだ日と同じ空気に染められて回想していたから、ここまで接近してしまったんだろう。
「ぶつかればよかったのに」
「酷いこと言ってない?」
「だって、ぶつかったらすっきりするかなって思ったんだもの」
 茜はそう言って僕の後頭部を叩いた。自然と顔は前に行き、額が電柱へとぶつかる。軽めだったからあまり痛くはなかったけれど、額を抑えつつ僕は茜の後を追う。
 合唱部の活動を終えて遅い昼食に繰り出した僕たち。さっき濡れたシャツはすでに乾いてしまっていたから風邪をひくこともないだろう。
 でも正直、僕は食欲なんてなかった。爺ちゃんが死んでからもうすぐ一月経つけれど、その間に食事の量は減って僕は五キロほど痩せていた。茜はそれを分かっていて誘ってくれたんだろう。それはとてもありがたいが、多分、茜が食べるところを見るだけで終わるだろう。
 友達を合わせて、僕に哀れみの言葉をかけなかったのは茜だけだった。誰もが僕に可哀想とか、気を落とすなとかありがたいけれど当たり前のことしか言わなくて、放っておいて欲しかった僕としては憂鬱をさらに増すことにしかならなかった。だから、茜といるときは落ち着けたし、気を許せたんだと思う。
「ありがとう」
「? 何か言った?」
 本当に小さく呟いたつもりだったけれど、茜にはちょっと届いたらしい。僕は不自然にならないように「ううん」と首を振った。茜は少し不思議そうに僕を見たけれど、すぐに視線を前に向けて歩き出す。そして僕はその後を歩く。何も話す言葉はなくても、退屈はしなかった。
 二人分の足音が響く歩道に、遠くから聞こえる車の走行音。初秋の生暖かさに包まれて、僕はどこか心地よいけれど寂しさを感じていた。ポケットに手を入れて握るのは風鈴。爺ちゃんが昔、どこかに旅行に行った時に買ってきたお土産。爺ちゃんの財産は親が全部管理したから、僕が得られたのは思い出の品くらいしかなかった。まあ、お金なんてもらっても仕方がないし、こうした物のほうが爺ちゃんを忘れなくてすむからいいけれど。
(それがいけないのかもしれないけどな)
 何となく今の状態が良くないとは思ってるんだけれど、そこから脱することに積極的にはならない。一緒に住んできた爺ちゃんだけに、死んでからすぐに前を向くという行為が何か……不義理のような気がしたから。
「着いたよ」
 その声が僕に届いたのは、茜の後頭部に鼻がぶつかってからだった。彼女の背はちょうど僕の鼻の頭くらいまで。それだけにぶつかる位置はちょうどよくて痛打する。
「……着いたって、ここで昼ご飯?」
 相手から誘ってくれたから、てっきり近所の定食屋かと思っていた。でも茜は僕の動揺を全く意に介さず、堂々と玄関横の鉢植えの下に置いてあった合鍵を使って僕の家の中へと入っていった。
「お邪魔します」
「……どうぞ」
 先にいる茜の挨拶に対して後ろから答えるという構図は正しいのだろうかと思う。その前に、僕の家になんの躊躇いもなく入る茜は正しいのだろうかと思う。そりゃあ、キスするような関係ではあるけれど、その辺りはどうなんだろうか?
「入らないの?」
「いや、入るよ」
 どうも考え込むと立ったままでいるらしい。爺ちゃんが死ぬ前まではそんなぼーっとすることはなかった気がする。
 彼女に遅れて居間に入ると、すでに彼女は台所で冷蔵庫の中からレトルトのラーメンを出していた。最近家族中がはまっている味噌ラーメンで、そこにキムチを乗せて食べると味噌とキムチが上手く混ざって美味しくなる。
 それは、爺ちゃんと僕が一番好きな食べ方だった。
 茜は、僕が夏休み前に一時間たっぷりとそのラーメンの魅力について語ったことを覚えていて、それを僕に作ってくれるんだろうか?
 予想は当たったらしく、茜は鍋にお湯を沸かし始めた。
「そう言えばご両親は?」
 普通入る前に聞く気がするんだけれど、そこを突っ込んでも仕方がない。
「仕事に出てるよ。多分、六時ごろ帰るんじゃないかな」
「なら、それまで一緒ね」
 心臓が高鳴った。
 なんというか……艶っぽい発言とでも言えばいいのか。これまでどこかぼんやりとした空気しか感じなかったけれど、急に頭の後ろから広がってきたちくちくとした痛みによって、皮膚の外側で止まっていた気配が体内に入ってきたように思える。
 心臓の音を聞きながらテーブルにつく。その時、ポケットに入れた風鈴が鳴るけれど、その音が呼び起こす爺ちゃんの記憶は身体の奥からの音に妨げられて霧散した。
「少しだけ、いい顔になったかな」
 茜は沸き立った湯に凍ったラーメンを入れて長箸でつつきながら言った。感情の動きが見られない口調だったけれど、僕にはその奥にある暖かい流れが見えた。冷凍されたラーメンが徐々にほぐれていくように、僕の微妙に絡まっていた感情をほぐしてくれるようだ。
「もう少しでできるから」
「……ああ」
「あと二分くらい」
「…………ああ」
「出来るまで、思いきり泣いてきたら?」
「――――」
 いつの間にか鼻の奥がつんとしていた。急に立ち上がったから、椅子が力の限り床を叩く。でも、僕は構わずに自分の部屋まで駆け出した。後ろに感じる茜の視線が、暖かくて優しかった。



「よいしょっと」
 ドアが少し大きめの音と共に開く。僕はベッドに伏せていた顔を上げて、入ってきた茜を見る。お盆の上には出来上がったラーメン。部屋にある掛け時計を見たらさっきから二分。律儀に言った通りの時間で作ってこちらに持ってきたというわけか。おそらく赤くなってるだろう、痛みの残る目をこすっていると、茜は勉強机にラーメンを置いてから立てかけてあった座卓を組み上げた。
「早く食べないと冷めるよ」
 茜はそう言ってラーメンを座卓へと置いてから、本棚を漁っていくつか漫画を取り出すと、その場に腰を下ろして読み始めた。そこまでしてようやく僕は気づいた。
「茜の分、ないじゃん」
 どこをどう見ても座卓の上には一人分しかない。でも茜は意味がわからないという顔をして僕を見ている。分からないのは僕のほうなのに。
「だって、裕一のための昼食なんだし」
「……でも茜、食べないの?」
「今日はダイエットなの」
 今日はって何だろう……。更に問いかけようとした時、腹の虫が鳴った。一度声を出したなら次からは容赦なく、虫達は輪唱していく。あまりに連続して鳴る腹の音に、茜は耐えられなくなったのか本で顔を隠して笑い出す。照れを隠すために、僕は座卓の前に座ってラーメンを一気にすする。行儀悪いと言われるくらいずるずると音を立てながら腹の虫を満たしてやる。
 そうやって一心不乱にラーメンを啜っていたら、最後まで残っていた悲しい感情も胃の中に飲み込まれていくような気がした。
「なんか、今まで以上に美味いよ」
「キムチなくても?」
 確かにキムチが乗ってない。あそこまでキムチの良さを力説したのに僕なのに。キムチの空白を埋めるものが、この味噌ラーメンの中に入っていたってことか。爺ちゃんと同じく好きだったキムチがないこと。それは、一つ『何か』を越えたことを、示しているのかもしれない。
「もう秋だよね」
 茜の声がやけにしんみりとしているから、気になって視線を向けてみると、彼女の視線は外へと向いていた。いつの間にか聞こえている雨音に、また雨が降り出したことを知る。
 晴れから雨へ。夏から秋へ。そして秋から冬へと変わっていく。キムチがなくてもレトルトの味噌ラーメンが美味しく感じるようになった。
 少しずつ何かが変わっていく。
 爺ちゃんが生きて、そして死んでいったのも時間の流れの結果なのかもしれない。さっき泣いたことで黒いものが流れていったのか、今まで思えなかったことがすんなりと受け入れられるようになっていた。
 もうすぐ四十九日。爺ちゃんとの、もう一度の別れを迎えるこの時に。
「お爺さんのこと、まだ辛い?」
「……ああ」
 それは茜が初めてはっきりと爺ちゃんのことを聞いた瞬間だった。僕の返事を聞いてから茜は立ち上がり、僕の後ろに回り込む。ゆっくりと座って、背中から前に腕を回す。抱きとめる形になって、僕は箸を座卓に置いた。
「しばらくはさ、辛くていいんだよきっと。辛くなったら、こうして抱きしめてあげるから」
 僕を包み込んでいる手が下がっていき、ポケットに触れる。ちりん、と爺ちゃんの風鈴が鳴るけれど、それを茜は掌でポケットの上から包み込む。
「大事にしなよ。全部。ぜーんぶ」
「ありがと」
 僕は茜の腕の中で、冷めていく味噌ラーメンを見て、落ちていく雨音を聞いていた。徐々に熱を無くしていく物と、徐々に強さを増していく雨。腕を動かしてポケットから爺ちゃんの風鈴を取り出すと、ゆっくりと左右に振る。
「冷めるよ?」
「いーの」
 何度も綺麗な音を奏でる風鈴を揺らしながら、僕は茜の腕に抱かれていた。
 食べ物を口にしたからか心地よい眠りに誘われていく中で、爺ちゃんの笑ってる顔が見えた気がした。


 ラーメンの湯気が、中空に消えた。


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