『物語』





 春の朝。始業式の日。時刻は八時二十分。移動時間が十五分。

 全ての条件が、揃っていた。

 私は急いで制服を着て、髪の毛をドライヤーで整える。肩まであるふわりとした状態を

保たせたこの髪形はクラスでも人気だ。日によって出来は微妙に違うんだけれど、今日と

言う日に相応しい、絶好調な仕上がり。

「……これで準備万端」

 鏡の前でスマイルを大安売り。今日もこの笑顔で新入生をとりこにしてみようか。でも

その前にやるべきことがある。一桁にも満たないかもしれない、奇跡へと足を踏み出すん

だ。息を思い切り吸って、勢いよく部屋から飛び出す。

 溜めた息を力の限り吐き出しながら。

「遅刻遅刻! 遅刻しちゃうっ!」

 わざと階段を力いっぱい踏みしめながら階下に降りる。壊さんばかりに居間へのドアを

開き、食卓へと駆けつける。上に用意されたトーストと目玉焼き。そこからトーストだけ

取ってきびすを返す。居間でニュースを見ていた母さんが声をかけてきた。

「芹華(せりか)。朝ご飯は?」

「走りながら食べるっ!」

 母さんの顔も見ず声も聞かず。私は勢いをそのままに靴に両足を突っ込み、その場でジ

ャンプしてかかとまで靴にねじ込むと口にトーストをくわえてから玄関の扉を開けた。

 これからしようとしていることに胸が高鳴る。かかとに潰されていたところをちゃんと

直してから、駆け出した。家の前の道をひたすら走るけれど、他に通る人がいないからト

ーストをくわえながら走ってる私を不信そうに見る人はいない。曲がり角が見えたところ

で、湧き上がる熱い思いを吐き出すように、口のトーストをそのままに叫ぶ。

「ひほふひひゃうー!(遅刻しちゃうー!)」

 って、全然言えないじゃないの!

 冷静に考えてみれば当たり前だったけれど、食べながら叫べないんじゃ楽しさ半減じゃ

ない! 騙された怒りに突き動かされて曲がり角へと突入する。ギアは全速のまま、脚力

で強引に慣性を消滅させてほぼ直角に曲がる。傍から惚れ惚れするような曲がり方だった

に違いない。

 ――でもそこで私の目に飛び込んできたのは、男子の学生服だった。

「ひゃっ!」

「うわっ!」

 互いに真正面から激突して、トーストが宙を舞うのが見えた。衝撃に弾き飛ばされて、

私は後ろに倒れこむ。思い切り背中を打ち付けた衝撃で痛みが走るけれど、咄嗟に両手を

後頭部に当てたおかげでどうやら命に関わる怪我にはならなかったらしい。それでも息が

詰まって、しばらく空を見たまま動けなかった。視覚の外から「あいたたた……」とぶつ

かった方のうめき声。でもその声も途中で不自然に途切れる。

 まるで時間がストップしたみたいに。

 風の流れも止まったみたいに。

 それくらい不自然な途切れ方はさすがに気になった。上体を少し起こすと痛みがあるけ

ど、ゆっくり起こせば特に問題はないようだ。徐々に見えてくるのは、私の制服のスカー

トだったりする。相手の顔は隠れていた。

 ……スカート? まさか!

「きゃっ!」

 思い当たる可能性に行き着いて、私は痛みに悲鳴をあげる身体を押してスカートの前を

抑えた。仰向けになっていた時、私は膝を立てていた。ならスカートの中が相手の目に直

接さらされていたことになる。顔中が赤くなるのを自覚しながら相手をにらみつけると案

の定、顔を真っ赤にした男――首元の学年証からみて同じ二年生――がわざとらしく視線

を私から遠ざけた。私じゃなくて、私のスカートの中なんだろうけど……いやらしい。

 ひょろっとしてあまり目立たなそうで。でもこう言う奴に限ってむっつり助平なんだき

っと。さっき湧き上がってきていた熱い思いが怒りに変換されて、形になった。

「ちょっとあなた! 勝手に人のスカートの中見ないでよ!」

「……ごめん。不可抗力、です」

 ……あっさり男の子は謝ってきて逆に拍子抜けだった。

 すぅっと熱が頭から抜けると、出来事の顛末を客観的に見られるようになる。

 正直、速度を落とさないで角を曲がった私が悪い。そして、私に対して申し訳なさそう

にしながら男の子は衝突した時に落とした眼鏡を点検していた。どうやらフレームが少し

曲がったみたい。私はといえば、結局スカートの中を見られただけで特に大事になるよう

な怪我もしてないから、眼鏡代を考えれば私のほうが明らかに悪い。

「ご、ごめんなさい……。私のほうが、悪かった」

 先に立ち上がって男の子に手を伸ばす。男の子は少しの間、私の手をまじまじと見てい

たけれど、やがて伸ばされた手に私の掌が握られる。優男に見えて、意外とがっちりした

掌だ。そう言えば男子の手を取ったのってここ数年なかったっけ。

 なんだかドキドキしてきた私に気づかずに、男の子はちゃんと立ち上がって手を離して

いた。私は次にどう行動しようか思い浮かばなくて、真正面から男の子と向かい合う。

 改めて観察してみると、見たことがない顔だった。同学年なのはさっき確認したけど、

去年一年同じ学年だったならどこかで見ているはずだ。でも全く見覚えのない顔……。

「僕の顔に何か付いてます?」

「あ……別に。ただ、同じ学年なのに知らない顔だなぁって」

 私の言葉に男の子の顔がぱぁあと明るくなった……気がした。実際に光は出てないけれ

ど、砂漠の中を歩いていてオアシスを見つけた人がきっとこんな顔するんだろうなと、十

人中九人は思える顔だ。

「あー! 良かった! 実は今日、転入するんだけれど高校にたどり着けなくて迷ってた

んだ! すみませんが、ついて行かせてください」

 ぺこり、なんて可愛い物じゃなく直角に腰を曲げて頭を下げる男の子。私は驚きに固ま

ってしばらく返答出来なかった。まさかこんな現実が本当に起こるなんて。偶然とはいえ

出来すぎてる……。

「まさかドッキリ――」

「え?」

 さすがに返事がないからか男の子は身体を起こした。互いにあっけに取られた顔を見る

ことになって、また動きが止まる。ちりんちりん、と自転車のベルを微かに鳴らしながら

自転車が私達を横切っていったところで我に返る。

「い、いやいや何でもない! そうなんだ……転校生なんだ! いいよ、一緒に行こう…

…遅刻だけど」

「そうですね。転校初日に遅刻なんて、漫画みたいだ」

 そうだね……。漫画みたいだね。

 口には出さずに、男の子の言葉に笑って返答して、私達は歩き出した。

 今から走っても遅刻は免れない。でも歩いても九時までには学校につける。ホームルー

ムには出られないけれど、体育館での始業式は確か九時半からだったから、十分間に合う

だろう。男の子もきっと初めは職員室に行くはずだ。

「あ、着いたら先に職員室に寄るようにって言われてたんだ。場所教えてくれると助かり

ます」

 やっぱり。本当に漫画みたい。

「なんか本当、漫画みたいですね」

 私の心の中が読めるみたいに、男の子はそう言って私に微笑んだ。眼鏡はぶつかった後

からつけてなくて、綺麗な瞳が私を見つめてくる。意識したら、顔に血が昇っていく。

 眼鏡無しでも私の顔はちゃんと見えるのかな? まさか伊達眼鏡? 眼鏡は素顔がかっ

こいいから目をつけられると思ってしてるのかなって、それほど美形でもない――って!

「あ、あはははは! そうだね。あ、名前は? どこのクラスに行くのか聞いてる?」

 いつの間にか思考が暴走していた。そして何かもやもやする気持ちを紛らわせるために、

聞き忘れていた大事なことを尋ねる。

「あ、名前は橋場秀樹です。クラスは、職員室行ったら聞くことになってるんですよ。学

年主任の、ええと――」

「荒井先生だね。アフロヘヤーの」

「そうそう! なんでアフロなんでしょうね? 初めて会った時、笑いを堪えるの大変で

した」

「そうだよねー。私、一年の時に授業で初めて見て思わず吹き出したよ」

 共通の話題が見つかったからか、徐々に橋場君との間にある壁みたいな物が消えていく。

同じ敬語でも、思いっきり他人へと向ける敬語と、少し親しい人に向ける敬語がある。ほ

んの些細な変化だけど、後者に変化していくのがとても嬉しかった。

「あ、私は本村芹華。芹華でいいよ」

「はい。芹華さん」

 名前を呼ばれて、胸が高鳴る。他の仲がいい男子にも名前で呼ばれてるのに……どうし

て初めて橋場君に言われるとこんなにドキドキするんだ? やっぱり初めて会う人だから

調子が狂ってるんだろうか? 高校に入ってすぐの時ってどうだったっけ……?

「芹華さん?」

「ああごめん! 何?」

「そのまま行くと電――」

 橋場君の言葉を最後まで聞く前に、私の目の前に星が舞った。

 痛烈な痛みが額から広がっていく。しゃがみこみはしなかったけれど、私はうめきなが

ら後退した。

「柱にぶつかると言おうとしたんですが、間に合いませんでしたね」

「そりゃあもう間に合ってないわね」

 涙目になりつつ橋場君を睨みつける。もう少し早く教えてくれてもいいじゃないの。

 心の中で文句を言うと、橋場君は申し訳なさそうに俯いた。本当に私の心が読めるみた

い。なんでだろう。

「橋場君。なんか心が分かるみたいだね」

 本当に、軽く発した一言だった。でも、その一言に橋場君の顔が強張る。さっきまで見

せてくれていた少し緩んだ笑顔がどこにも見えない。同じ人なのかと言うくらい、警戒心

が感じられた。

「あ、ご、ごめんなさい……変なこと聞いたなら謝るから!」

「やっぱり変ですか?」

 込められた感情は、怯えだった。だから精一杯首を振った。言葉で言うよりも、動作で

本心を伝えたほうが今はいいと思ったから。何度も何度も何度も何度も頭を横に振り続け

て。……ふらついた。

「危ない!」

 揺らめく視界に迫ってくる電柱。さっきぶつかった電柱。避けようと思うけれど身体が

言うことを効かなかった。

 駄目! ぶつか――

「……と」

 ――る前に、橋場君の両手が私の身体を包み込んでいた。背中から抱きつかれ、お腹の

辺りに回される両手。しっかりと抑えてくれているけど力を込めすぎない。そこに橋場君

の優しさが現れてる気がした。傍目にはどう映ってるだろうか?

「もう大丈夫だから。手、外してくれる?」

「――はい」

 橋場君は声が少し裏返ってた。私に抱きついたことが恥ずかしいのか、顔を真っ赤に染

めてる。今まで会ったことがないような純なタイプだ。やっぱり転校生はこうでなくっち

ゃね。

 無言のまま歩き出して、しばらくはただ風に身を任せていた。お互いに一定の距離を取

って、もくもくと足を動かし続ける。やがて、校舎が見えたところでようやく橋場君は口

を開いた。

「心が分かるって聞いたけど」

「嫌なら、言わなくていいよ?」

 それは素直な気持ちだった。嫌なことなら言わなくていいし。これから新しい学校生活

をしていく間に聞けるかもしれない。今、無理に聞く気はなかった。でも橋場君は苦笑し

てから先を続ける。

「こんなこと考えてるのかな? っていうのは何となく分かるんです。顔見ると。でも別

にそう思うだけで相手に合わせて発言してるわけじゃないんですよ、本当です」

「うん。信じるよ」

 自分でも信じられないくらい優しい声が出た。橋場君も思わず私の顔を凝視するくらい。

 もう少しでしばらくの間はゆっくり会話出来なくなる。会話を止めたくないから私は口

を開いた。

「橋場君の秘密聞いたから、私も何か教えてあげる。何でもいいよ?」

「秘密、ですか……」

 橋場君は顎に手を当てて「うーん」と考えていたけれど、思ったより早く手を離した。

「あの、角でぶつかった時に芹華さん、トースト食べながら『遅刻しちゃうー』って叫ん

でましたよね。あれって?」

 やっぱり聞かれてたか。そう思うと羞恥に顔が赤くなるけど、話すと言ってしまったか

らには言わねばなるまい。

「実はね私……王道って好きなんだ」

「王道……ですか?」

「そう。王道。水戸黄門で印籠だして『へへー!』とか遠山の金さんで『桜吹雪が目には

いらねぇか!』とか! あと主人公がピンチになると友情パワーで敵を倒すとか!」

 秀樹君に語っていてまた熱い物が込み上げてくる。

 王道。

 それは、全ての物語の原点だと私は思っている。

 人の感性を刺激する、最もシンプルな表現技法。未来に夢をはせる子供から過去を思い

返す老人までも虜にする年代世界共通表現。展開の妙、というものは感じられないかもし

れないけれど、人の心に真っ直ぐに突き進んできてノックをしてくるような印象がある。

 そんな『王道』に、私は骨の髄まで魅せられてしまっているんだ。小さい時から時代劇

が好きな両親と一緒にテレビを見ていたからかもしれないし、何か他に理由もあるかもし

れないけど、どうしてそうなったのか確かなことは分からない。

 ただ確実に言えることは、その言葉を口に出すだけで王道が持つ魅力に身体が溶かされ

てしまいそうになるほど、私は王道を愛しているということ。

 とろとろに溶けた身体が覆うのは私の心。心はその魅力に優しく包み込まれ、ぬるま湯

の中にぷかぷかと浮く。そして私はまったりとした気分のまま、正に心の底から安心しつ

つ話を楽しむことが出来るんだ。

「それでね。今日はちょうど遅刻しそうだったから、一度やってみたかったことをしたの」

「もしかして、『トースト食べながら遅刻しちゃうって言いながら走る』ていうシチュエ

ーションですか?」

「……分かってるんじゃない」

 さすがに私もこの歳になって進んでシチュエーションを試すために遅刻する気はない。

でも今日、目覚めた時に私はチャンスだと思った。大学に行けば毎年毎年の始業式なんて

ない。高校は今年を入れてあと二回だ。つまり、トーストを食べつつ「遅刻しちゃうー」

と走りながら角を曲がるなんてことを出来るチャンスはあと二回しかないんだ。

 今日、この日に寝坊したのは神様の思し召しに違いない!

 そう思ってシチュエーションを実行したんだけれど、ね。

「で、角を曲がったところで転校生とぶつかったわけですね」

「……本当、驚きだよ」

「僕もです」

 正直、トースト食べながら角を曲がるだけじゃこのシチュエーションは不完全だった。

 その日に転校してくる美少年とぶつかり、最悪の第一印象を受けて、始業式のあとに同

じクラスに入ってくる。その後は事あるごとに衝突するんだけれど、いつしか二人の間に

は信頼が生まれてそれが恋愛感情へと変わる。

 ここまで行かないとこのシチュエーションは完成しない。でも、こんな現実ありえない

くらい私にも分かる。

 王道を含めて物語は現実には起こらないから魅力的なんだ。現実を私達はいくらでも体

験しているから、それとは違う物――非現実を求める。現実に起こると何かと否定されが

ちな要素だからこそ、逆に人は惹かれるんだと、私は思う。私の語りを凄く温かい目で見

守ってくれていた橋場君がぽつりと言う。

「現実は小説より奇なり。ですね」

「はは……。本当だね」

 ちょうど話題が途切れたところで私達は校舎内に入った。もう始業式をする体育館へと

人の列が出来ている。橋場君に職員室の場所を教えて、私は自分の教室に鞄を置きに行こ

うと彼に背を向けた。そこで、聞こえてくる言葉。

「放課後、一緒に帰りません?」

 あるはずがないと思っていた。でも、心のどこかで期待していた。

 振り返って、一言。

「うん。ホームルーム終わったら玄関で待ってて!」

 恥ずかしさから逃げ出すように、私は並んだ人の列を掻き分けて行く。橋場君の顔が自

然と脳裏に浮かんだまま。

 ぶつかった男の子はそこまで美少年というわけでもなくて。

 第一印象はかなり良くて。

 王道とは少し違うけれど、それでもこれから友達になりたいと思えた。

 現実は小説より奇なり。

 でも。

 ……きっと。

 現実も、物語の一つなのかもしれないな。

 そんなことを思いながら、私は教室へと走った。

 一歩一歩。現実を踏みしめながら。







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