暗い部屋の片隅で

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 お疲れ様でした、と言って後輩女子が扉を開き出て行く。扉がガチャン、と音を立てて閉まってからシゲルは四十秒を口で呟いていた。この六階建ての建物の一階からエレベーターが上がってくる秒数と、箱に乗って一階へのボタンを押してから扉が閉まるまでの秒数。深夜二十三時半という、ほとんど誰もいなくなっている時間帯ならばそれくらいでいけるというのは何度も何度もシミュレートし、自分でも実際に何度か試したためにほぼ確実な数字だった。
「――四十」
 四十秒を数えきったシゲルは立ち上がる。クールビズのために上着は着ておらず、半袖ワイシャツと黒いスラックス。汗がスラックスについてしまうことが嫌で仕方がなく股引を穿いている。飲み会で同期に説明するとまだ二十代前半なのに爺くさいとショックを受ける感想を受けても実用性を考えて変えなかった。
 そんな鉄の意思を持つシゲルだからこそ、惨劇が起こったのかもしれない。
「ふぅ」
 ゆっくりとワイシャツのボタンを上から外していく。ボタンを人差指と親指で掴み、朝に通した穴を再び通して解放する。二個、三個、四個、五個とボタンが外されて中に来ているジェントルメン・アンダーウェアを露出させる。汗が滲んで白地に異世界の世界地図が描かれているように見る者がいたなら見えただろう。
「ほぅ」
 ベルトを外してからまたウエストを繋ぎとめているボタンを――外さなくてもペロリと外れた。
 もともとウエストのボタンは日ごろの勤務やクリーニングによって犠牲となり、取れてから針仕事をすることもなかったため、ベルトによって強引に穿いていただけだった。
 チャックを下ろしただけで白い股引と、薄く映るトランクスの柄。黒いスラックスが両足から解き放たれ、椅子の背もたれに置かれた。白い肌着と股引。深夜まで頑張った結果による汗臭さが宙空へと解放される。自然と両腕を円軌道で広げたシゲルは止めないままでクロスさせて肌着の下を掴み、一気に引き上げた。汗で肌に貼りついていたために抵抗があったが、ビリっという少し不穏な音を立てつつ体から離れて行った。
 続いて股引とトランクスは仲良く二つ同時に下ろされる。左足の次に右足と引き抜いて、スラックスの上に置いた。白と黒のコントラストを眺めて笑みを浮かべてからシゲルは歩みを進み始めた。
 自分のいる机の場所以外は電気は消されており、遠ざかると共に自分の肌色も黒く染まっていく。自分の格好を見下ろしながらでも目的地には辿りつける。あまり筋肉があるとは思えない細い体。股間から生えている毛に性器。そして黒皮靴に黒靴下。脱ぐのを忘れたと思っても、もう後戻りはできない。時刻は二十三時三十五分。服を脱ぐのに五分もかけてしまった。七月も終わりに近づこうとしている季節に、深夜を過ぎて空調が止まったオフィスにいるのはやはり苦行なのだ。
「だから、こうなるんだ」
 誰かに言い訳するかのようにシゲルは呟いて、目的の場所――コピー機の前に立った。窓際にあるコピー機は、もう使用しないだろうというだれかの判断で電源は消されていた。まずは電源を点けて、コピー機が再起動する。ブーンと起動音を聴きながら、シゲルは傍の窓を見た。
 道路の向かいに立つビル。視線を下げると、道路には車一つ通っていない。歩道にも人はまばらだ。向かいのビルも明かりはほぼ消えていて人の気配はほとんど感じなかった。今、この世界で働いている人間は数人しかいないのではないかと錯覚するほどに。
 外の世界から視線をコピー機に戻すと起動を完了したことを告げる緑ボタン。シゲルが蓋を開くと、コピーする対象を置くためのガラス面が出てくる。シゲルは息を荒くしながらガラス面へと股を広げて乗っかった。
「ふぅはっ! あーっはっはっはぁ!」
 両足でコピー機を挟みこんで体を固定してからシゲルは叫ぶように笑った。細い体のどこからそこまで声量が出せるのかと疑われるほどに、シゲルは吼える。
 自分の中にある秘めた思いを達成する瞬間の絶叫を。
 あるいは、断末魔か。
「先輩。何やってるんですか?」
「はぁああ――え?」
 天井を見上げて吼えていたシゲルは突如として耳に飛び込んできた声に視線を下に移す。そこにはおびえ切った表情でシゲルを見上げている後輩女子がいた。ショートカットの下に黒メガネをかけて、大学を卒業したばかりの女性らしい、若々しい服装。ただ、若い女性らしくない怯えた顔だけが異質だった。
「ああ。佐藤さん。忘れ物?」
「え、あの。お腹痛くてトイレに入ってて。出たところで、いきなりオフィスから大きな笑い声聞こえてきたんでなんだろって思って」
 佐藤さんは現状に全くついていけていないらしく、シゲルの問いにメールに箇条書きするかのごとく答えてからどう動いたらいいかと視線をさまよわせた。いろいろな方向を見ていてもしっかりとシゲルの股間に一度視線を固定しているのを確認して、シゲルは滾る。
「驚かせてごめんな。ちょっと興奮しちゃって」
「そうですか……ちょっとどころじゃない気がするんですけど……といいますか、何をやっているか聞いていいですか?」
「全裸でコピー機の上に乗っている。見ての通りさ」
「見ての通りですけど」
 佐藤さんはシゲルの返答に脱力して、俯く。だがすぐに視線をシゲルの顔に固定した。一瞬だけしっかりとシゲルの股間に一度視線を固定しているのを確認して、シゲルは滾る。
「驚かせてごめんな。ちょっと興奮しちゃって」
「いやちょっとどころじゃ……じゃなくて。見ての通りですけど。なんで全裸で、コピー機の上に乗ってるんですか。まさか、自分のえっとおっそのっ……体をコピーするんですか?」
「そんなことしたら変態だろ。佐藤……お前、変態だったのか」
「オフィスで全裸になるだけでよっぽど変態です!」
 佐藤さんは怒髪天を突く勢いで怒りを露わにしたがすぐに崩れ落ちた。怒りのボルテージが上がってしまって脱力したのかとシゲルは心配してしまう。
「どうした? 体調悪いなら帰った方がいいぞ。明日も朝九時から仕事だし」
「そうなんですけど……チャンスだったし……」
「え、何?」
「なんでもありません」
 佐藤さんはふらつきながらも立ちあがる。シゲルのほうを見ないままにため息を吐いてから、ゆっくりと指を伸ばしてコピーボタンを押した。


 蓋が閉まっていないので、当然の如くエラーメッセージが出ていた。


「なにしてんだ?」
「……先輩も、早く帰った方がいいですよ」
 佐藤さんは今まで以上に体をふらついたまま歩を進めていく。頭が痛いのか左手で額を抑えつつ、右手に持った鞄を振って、振り子のように前に加重をかけてコピー機から離れていった。
 暗闇に消えていく後ろ姿は、扉を開けて外に出たことで消える。
 誰もいなくなって静寂に再び包まれたオフィス。
 全裸の男がコピー機の上に一人。
「……なんだこれぇ。おかしいだろぉ、これよぉ」
 呟いたシゲルの表情は満足げに緩んでいた。眼は潤み、口は半開きで涎が垂れてきているほどに。
 再びシゲルは笑う。
 空調が切れたオフィスに。
 全裸の男がコピー機の上に跨っていた。
 笑い声は今度こそ誰にも邪魔されることなく響き続け、暗闇に消えていくのだった。


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