光の先へ

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 後々、歴史的な瞬間と呼ばれる日をメイファは最果ての土地で迎えた。


 明確な呼称もなく、作物も育ち辛く、人が過ごす場所ではないその土地でその日、メイファは獣を必死に追っていた。くすんだ長い黒髪を風に靡かせて、視界を邪魔する前髪を払いのけながらも飛びついて即席ナイフで獣を絶命させた直後に、空から光が降り注いできたのだ。
 見えたのは赤や青や黄色。他にもメイファが知識として知っているいくつもの色が煌めく半透明な布が空から降りてきたようで、大地に光の先が触れるとゆらゆらと風に揺らめく。その光景は非現実的で美しく、隠れ家の入り口にかけている薄汚れた茶色の布の動きよりも、羽織っている灰色の毛布よりも優雅だった。
「綺麗……」
 光のカーテンの内側にいると暖かくなり、元気が湧いてきたメイファは笑顔になる。丸二日間食事をしておらず、手の中で絶命している獣が久しぶりの食料だったが、何も入っていない胃袋が暖かいモノで満たされると熱が全身に広がり、これまでの暮らしで身体の各所に刻まれた細かい傷も癒えていく。
 何日も洗っていなかった薄汚れた黒髪や体から汚れだけが流れ落ちていくように思えて、波打つように体を震わせていった。
 それは感覚ではなく、現実。
 体に必要な栄養が行き渡り、瞬きを数回しただけでの時間で全身の異常が治癒していた。獣を掴んでおく必要もなくなり、メイファは目を伏せてありがとうと心の中で呟いてから、大地に落とした。
「ギャァアアアアァアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ」
 心の中まで暖かくなって幸福な気分に浸ったのもつかの間、メイファの耳に断末魔が届いた。
 驚いたメイファは声のした方向へ視線を移す。そこには、さっきまでなかったはずの魔物の石像が立っていた。
 唐突に出現した石像は、日々の暮らしの中でたまに見かけていた魔物だ。
 メイファが住んでいる土地周辺を以前からうろついていた魔物で、見かける度にどこかに行くまで隠れ家へと身を潜めていたものだった。
 相手の目を盗んで空腹を満たすための獣を取る。生きるための競争相手。
 恐れていた魔物が石化して、おそらくは絶命している。どうやら天からの光は、メイファが生まれる前から続く魔物との争いを終わらせるためのものらしい。
 メイファはまだ母親がいた頃に聞いた、あてにならない知識の中からそれらしき答えを見つけると、光のカーテンの傍まで歩いて手を触れる。光の内側にいれば食料を新たに取らなくても空腹が満たされ、身体にエネルギーが満ちるのだから、もう食べ物を取るために困ることはないのかもしれない。
《人間だ》
「あれ?」
 不意に聞こえてきた叫び声に反応して、咄嗟に掌を引っ込める。光の外側を見ると、小さな魔物が一体だけ立っていた。全身は赤銅色で、頭には髪の毛が一本もない。目はギョロギョロと周囲に視線を送っていて、上下から牙が生えた口は獲物を求めるようにガチガチと打ち合わされる。
 腰には申し訳程度に茶色いボロ布が巻かれていた。
《人間だ。人間だ。人間だ》
 メイファへと唸りながら近づいてきた小さな魔物は光のカーテンへと手を伸ばしたが、急に体を震わせて後方に下がった。メイファの目には、そこまで知能があるように映っていなかったが、小さな魔物に備わった直感というものかもしれないと思いなおす。
「あなたは、魔物?」
 尋ねたメイファに対して、小さな魔物は身体を大きく見せるように胸を張って一声だけ吼えた。
《俺はそうだ。魔物だ。お前らが、魔物って呼ぶやつら。強いんだ》
「強そう。私なんてすぐ死にそう」
 挑発する意図はなく、メイファは思い浮かんだことを告げる。
 小さくても魔物は魔物。指先から伸びた爪は鋭くて、自分のかさついて弾力を無くした肌を一瞬で斬り裂くだろう。真っ二つに斬り裂かれて血を流して死ぬ自分の姿を想像するとメイファは身震いして、身体を両腕で抱きしめる。一歩ずつでも離れるべきかと考えていると、小さな魔物は両腕を掲げて光のカーテンをなぞるように動かしつつ、メイファに向けて吼えた。
《俺は強いんだ。だから、俺の言うことを聞くんだ。食べ物を寄越せ!》
「食べ物……これ?」
 メイファは傍に落としていた獣と小さな魔物を交互に見る。石化した魔物も同じ獣を取っていた。目の前で涎をまき散らして顔を更に真っ赤に染めている小さな魔物も同じ生き物を食べるのだろうと納得し、静かに獣を掴むと光のカーテンの向こう側へと投げ捨てた。
《飯ぃいいい!》
 絶叫に近い声を出して、小さな魔物は食料を手の中に収めて食らいつく。地面に俯せで倒れたのも両手が塞がっていたからだ。
 鈍い音を立ててゴツゴツした大地に倒れても、小さな魔物は口を動かして手の中の食料を小さくしていく。メイファが自分で食べるときは刃物で細かくしてからにするため、耳の奥を擽るような咀嚼音は耳に慣れない。
「光に当たると、石になっちゃうよ。大変だね」
《ああ? そんなもの魔王様がぶっ壊してくれるさ》
「魔王様なんてやっぱりいるの? 大事にしてくれるの?」
《ああそうだ。俺の父親の他の、もう一人の親。俺ら魔物の全ての親だ。子を守るのは親の役目だ》
「いいなぁ。私には親がいないの」
 がつがつと食べ続ける小さな魔物に話し続けるメイファ。
 たまに空へと吼える小さな魔物。
 光のカーテンを隔てて存在する一人と一体。
 ふと空を見上げたメイファは、カーテンが天候すらも土地へと押し込めたのだと知った。
 小さな魔物がいるのは、魔物たちが湧き出してくる土地の端。カーテンは空高くから降りてきて魔の土地を囲うようにして、黒い雲までも押し込めている。
「お母さん。何年も前に死んじゃった。石になっちゃった魔物と同じで」
《魔物……石になった魔物……父親だ》
「そうなの?」
 魔物の雄と雌の違いなどメイファは分からない。小さな魔物はメイファに視線を向けないままで一心不乱に食事を取っていたが、骨までバリバリと噛み砕いた後で顔を上げて歩き出す。
 石になった魔物の方へと歩いているのだと分かったメイファも、カーテン越しに移動していった。
《父親、寄越せ》
「私は、お父さんを、持っていないよ」
《父親、寄越せ》
 石化した魔物の方に向けて腕を動かす小さな魔物。
 小さな魔物から見れば光の向こう側。
 メイファから見れば自分の側。
 魔物が光のせいで石化したのは間違いない。メイファは小さな魔物を刺激しないように、石像の傍まで歩いていく。
 メイファの目に映るのは、彼女の顔を包み込めるような小さな魔物の掌だ。広がった指についた爪は、彼女を引き裂く力を見せつけるようにぎらついていた。
 石像の傍に着いたメイファは、像に体を預けるようにして力を込めて、カーテンの向こう側へと押す。しかし、体の三倍はある大きさの石像はメイファの体重ではいくら唸っても動かない。
《寄越せ。寄越せ》
 ギャリン、ギャリンと耳障りな音を立てて爪を合わせていた小さな魔物はメイファの様子に怒ったのか、咆哮しながら左手を伸ばした。しかし、光を通り抜けた左腕は即座に石に変わってしまった。
「ギャァアアアアアアアアァアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!」
「危ない!」
 メイファは石になった小さな魔物の手に飛びついて、前方へと押し込んだ。勢いに押された小さな魔物は倒れて、光の向こう側で転げ回る。光による石化は止まっていて、小さな魔物は肘のあたりまで石になった左腕を見て絶叫し続けていた。
「危なかったね。あなたも、お父さんみたくなるところだった」
《ああ……俺の……腕……腕が……》
「お父さん。私の力じゃ押せないんだ。ごめんね」
 メイファの言葉にも、小さな魔物は血を吐くような咆哮を続けたまま左腕を抑えて転がり続ける。しばらくの間、土を跳ね上げ続けた小さな魔物は、ゆっくりと起き上がった。
 すっかり土塗れになった体を震わせている小さな魔物を、メイファは心配して見ることしかできなかった。
《お父さん。もう戻らないのか》
 その口調はこれまでと違ってとても弱々しく、メイファはつられて泣きそうになった。
 涙を流していなくても、小さな魔物の顔は泣いて歪んでいるようにメイファには見えていた。どう答えていいか分からずに、胸の間に両手を添えて相手を見つめることしかできない。
 胸が苦しくなると、心なしか小さな魔物の顔も、歪みを大きくする。
 メイファの感情に同調するように。
「なんて言ったらいいか、分からないんだけど。元気、出して」
 メイファに言えたのはそれだけ。そして、前に出てカーテン越しに両手を広げて、体を抱く真似をする。
 あくまでも光の内と外。境界線は侵さない。
 しかし、小さな魔物は理性を感じさせない動きで、カーテンを越えてメイファへと飛びかかってきた。
「ギャァオアアオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!!!!!!」
 残っていた右腕を広げ、飛び上がった小さな魔物の体。光のカーテンをくぐって飛びかかってきた体は、表面に石の灰色が塗られていくように綺麗に染まっていく。メイファは押し潰されないように横に躱して転がっていく間に、重たいものが地面に落ちる音を聞いた。
「……ハアッ! ハッ! ハアッ! ハァ……はぁ……ふぅ……ふぅー。はぁ……なぁんだ」
 急激な運動をして荒くなった息を整えながらメイファは立ち上がる。視線の先には両腕を広げたまま倒れている石像があった。
「友達になれるかと思ったけど、やっぱダメかぁ」
 石像になってしまった小さな魔物に触れてみても、生きている感触はなかった。
 光のカーテンは魔物の命を一瞬で奪い取り、ただの無機物にしてしまう。そこに一片の慈悲もない。メイファは石像の表面をなぞりながら小さな魔物と、もしかしたら親子『かもしれなかった』もう一体の石像を眺めて独りごちる。
「せっかく話す相手が出来たと思ったのに。誰かいないと声も当てられないよ」
 魔物の住む土地の傍に一人残されたメイファ。
 近くにいるのは食料にするための獣や、人を喰らう天敵の魔物だけ。
 ただの人間のメイファには魔物と話せるはずもなく、しかし孤独には心が壊れそうになっていた。
 ただの少女には、相手の言葉をねつ造して会話を続ける振りをするしかできない。しかし、相手もメイファの思うように動いてくれるわけもなく、言葉を発している場面でも別の動きをしていて、会話ごっこは最初から破綻していた。それでも続けたのは単純に、他にすることもなかったからだ。
 魔物たちには光のカーテンが自分の命を奪うものだという知能さえなく、メイファを食べるという衝動に負けて死を選んだ。
「死ぬって分からなかったんだから、選ぶことさえなかったのかな」
 石になった小さな魔物に頬を触れさせてみる。冷たい石の感触はどこまでも生命がないことをメイファに伝えてくる。
《石に、なってしまったんだな》
「そうだね。君は、馬鹿だよ」
《馬鹿だ。俺は、馬鹿だ。馬鹿。馬鹿。馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿ば》
「か。ばか。ばか。ばか。ばか。ばか。ばか……」
 脳内に広がった言葉がやがて頭から溢れ出して、口から外へと向かう。
 雨が降るように自分の体から流れ落ちていく言葉の粒。
 人間の世界から遠ざけられた最果ての地。
 重い罪を犯した人間が連れてこられて、勝手に死ぬように捨てられた場所。メイファには最後まで母親が犯した罪というのは分からず、死んだあとには離れようと思えば離れられた場所だ。
 それでも、メイファにとっては母親と過ごした思い出の土地だった。
 他の人が倒れ、母親が死んで、自分だけが残る。
 魔の地に近いために誰も近づかない場所でも、多くの即席の墓が立つ土地をメイファは終の住処だと決めていた。
 他に行く当てはない。あったとしても、自分が受け入れられるとも思えない。共に生きてきた人たちはみんな、魔物の餌にでもなれというようにここに送られたのだから。この土地で生まれた自分も、同じように受け入れてもらえないに違いない。
 誰もいなくなって、心に次々と空いていく穴を埋めるために、誰かの意思をねつ造しようとした。
 しかし、それももう叶わない。
「カーテン……ちょっとずつ、進んでるもんね」
 光のカーテンは、微々たる速度で魔の土地を侵食するように進んでいた。おそらくは、何年か先には閉じ込めた土地に全ての魔物の石像が並ぶのだろう。そうして世界は救われる。
 ただ、そのときに自分が生きているのかは分からない。光に包まれたおかげで生物として生きているのだとしても、人として生きているのかはメイファには分からなかった。
「待ってて」
 石化した魔物に告げるとメイファは住処である洞穴へと向かった。離れている場所ではない、小高い丘の下にできた空洞。百歩も歩けば辿り着く距離。入口に悪戦苦闘して付けた毛布を力一杯引っ張って外し、引きずりながら石像の場所へと戻る。
「汚れてるけど、ごめんね」
 メイファは謝りながら地面を引きずった毛布を石像へと被せた。長さが足りず、上半身を覆うだけだ。
「覆ってるところだけでも、石化解けないかな?」
 自分でも無理だと分かっていることを呟く。光は毛布など関係なく魔物の体を貫いていくのだから無意味なのだ。それでもメイファは笑みを浮かべて、嘆息した。光が届かないようにしただけで、彼女は満足だった。
《ありがとう》
「もう、疲れた」
 脳内に響く幻聴。全身を覆う虚脱感。しかし、メイファの足は倒れずに、カーテンの向こう側へとゆっくり歩いていく。
「ご飯を食べるために頑張る必要もないなら……生きる意味も良く分からないよね」
 誰もいない土地でひたすら死なないために生きてきた。
 空腹で餓死する恐怖から逃れるために。魔物から命を脅かされる恐怖がら逃れるために。いくつもの理由が絡み合って、必死になって過ごし続けた。
 でも、光のカーテンの内側にいれば空腹からも怪我からも救われる。
 ここから離れることもなく、ただ座っているだけでも生きていけるのならば、一人で生きる意味がどこにあるのか。
「この世界には、もう。私の居場所はないよね」
 光に包まれた内側と、闇がわだかまる外側。すぐ傍にある薄暗い場所へとメイファは躊躇なく足を踏み入れる。
 光のカーテンを通って外側に出たからといって魔物のように石になることもなく、足は前へと進んでいく。
 満たされた空間から出たメイファの体は食料を欲して腹が鳴った。
「お腹減った」
 体の奥から込み上げてくる生の衝動に従って、メイファは食料になる獣を探し始める。
 生きている魔物を警戒しながら、光が届かない場所へとその身を進ませていった。



 光は世界を覆いつくし、魔物が全て石像となったのは更に三十年の月日が流れた後だった。
 かつて魔物が住みついて荒廃した土地は浄化され、後年には魔物の終焉の地として人々が訪れるようになる。
 しかし、土地を調査した者たちは人が住んでいた形跡や死者の墓は発見できても、最後まで暮らしていた人間は遂に発見することはできなかった。


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