黄昏近い時刻、草原の中を、ラキウスは必死に愛馬を駆っていた。懐には、友より託された紅の旗を抱いている。
 これを、何としてでもあの場所へ、そればかりを彼は念じていた。
 自分を信じてこれを託した友の顔が脳裏を掠める。
 友の瞳の中にあったのは、ひたむきな自分への信頼。不安などの負の感情にそのまなざしが揺らぐことは、最期までなかった。

「この旗は、俺達の誇りだ」
 友は言った。最期の呼吸で、誇らしげに。
「だから、我が友よ、これを必ずあの場所に――」

「――届ける!」
 返答を重ね、ラキウスは愛馬の腹を両足で蹴り続けた。
 彼の思いを受け止め、馬はその速度を上げていった。
 その塔は、すでに敵の手に落ちていた。あの一番高いところに、この旗を。
 空の高いところを吹きすぎる風に、我らが誇りを掲げよう。


 外から伺う限り、敵の数は三十ほどしか確認できない。
 内部にまだ多数存在するのか、それとも戦略拠点としてはさほど有益ではないこの場所から、本隊は離れたのか。どちらにせよ、すでに引くという選択肢は存在しない。
 ラキウスは、剣を抜きはなった。柄に口づけ、そしてそれを高く高く掲げる。
「我が名は、ラキウス・クルバード!」」
 自らの存在自体を賭け、発せられた魂の咆哮に集まる視線。
 突き刺さる不可視の刃の中へと、ラキウスは愛馬と共に向かう。
 速度とラキウス自身の膂力により放たれた一撃が一人の兵の命を絶ち、戦いの狼煙が上がった。


 ――どれくらい斬っただろう。
 すでに愛剣の刃は人の血を吸い尽くし食傷を訴えだし、ラキウス自身も己と、敵の鮮血にまみれていた。
 愛馬は塔へは入れず、今彼は一人……否。
 懐の、旗。敵兵達の血にまみれながらも、傷はつくことなく、そこにあった。
 心なしか暖かさが身体を包んでいくようだ。
「俺は……お前と共にあるぞ。ディウス」
 無二の親友の名を、彼は呼ぶ。
 祖国を守ることを、同じように誇りと掲げた同志。
 いまや彼は二人分の信念を持ち、この場にいるのだ。
 雑兵がいくら挑んだとしても叶わないのは自明の理であり、ラキウスも脅威は感じなかった。
 だが、最上階へと昇る扉を開けた時、彼の身体を戦慄が駆け抜けた。
 それは、殺気であった。雑兵のそれとは、比較にならない。
 命奪う強き意志は形を取って、彼の腹を貫いた。
「どうした? 化け物に腹でも喰われたか? それとも――」
 野太い声に反射的に戦闘体勢を取り、睨みつける。
「喰われたのは、魂か?」」
 死んでしまう。その恐怖はラキウスを侵し、まさに魂までも奪われそうになる。
 だが、すんでの所でラキウスの理性は最後の抵抗を示し、ぎらつく瞳は敵のみをにらみ据え強く輝いた。
「まずは、合格だ」
 男は立ち上がり、自らの背丈以上の長剣を軽々と回し、肩に担いだ。
 太さもラキウスの胴体ほどあり、自らの身体が切断される様子を思わず想像してしまう。
「ここまできたことを誉めてやろう。褒美は、安らかにして速やかな死だ――と、いいたいところだが、部下を大半殺した罪は、お前の命であがなわなければならん」
 思えば、塔に入ってしばらくしてから、敵兵はぞろぞろと撤退していった。あれは、価値のない場所の守護に命をかけるのを割に合わないと見て取ったゆえではなく、この男の命令だったのか。
 ラキウスも剣を構えたが、すでにこの剣は用を為さない。
 思い浮かぶ手は一つしかなく、その結果は確実な生と確実な死の二択しかない。
 旗を懐から出して丁寧に置くと、剣を正眼に構えた。
「その剣で我が剣を受け止めるのか? もうすでに、刃は役に立たないようだが?」
「たとえそうでも、我が剣は――決して折れたりはしない。これは我が誇りにして、我が莫逆の友との約束。命を賭してでも、俺はそれを貫き通さねばならないのだ!」
「よくぞ吼えた!」
 空気の振動と共に飛び込んでくる巨体。ラキウスは真横から迫り来る相手の刀身だけに意識を集中し、自らの剣で敵剣の下腹を叩き上げようとする。
「動きが鈍いぞ!」
 巨漢は、その身体に似合わぬ敏捷な動きでラキウスの攻撃をかわし、逆にラキウスの視界から剣を繰り出してくる。
(かわし、切れない!?)
 迫る剣と絶望。その時、彼の耳にディウスの声が響いた。

『我らが誇りを――!』

 友の、最後の願い。託された、宝物。

「――!」
 刹那、世界が緩やかに流れ出す。
 剛剣の軌跡が見え、ラキウスは自らの剣で軌道をずらすと男の懐へと飛び込む。
 刃を失った剣は、奇跡のように最後の力を与えてくれた。
 男の腹部は革鎧で覆われていたにもかかわらず、ラキウスの渾身の一撃で貫かれ、男の口から悲鳴と血反吐をはき出させる。
「……そうか、これが――」
 男は最後まで言葉を紡ぐことなく倒れ、ラキウスはそれに答えた。
「ああ、我が、剣さ」
 剣は、剣。しかしそこに信念という力が宿るとき、それは奇跡へと変じる。
 男はどうと倒れ、ラキウスは――力を失いそうになる足を叱咤し、上を見上げる。
  「まだ、俺にはやることがある」
 体力と精神力。どちらも限界に近い彼を支える物は、信念の象徴だ。


 塔の頂への階を、ラキウスは一歩一歩踏みしめていく。
 まだつかない、のではない。この一歩一歩が、確実に約束を果たす瞬間へつながっている、
 そう信じて、彼は重い身体を引きずった。
 どれだけの時間が経ったのか、もうラキウスには認識できなかった。
 だが、あと数歩の時点で足が止まる。自らの限界を超えた代償が今頃になって現れたのだ。
 倒れてはいけない、そう思う心とは裏腹に、もうここでいいのではないかという誘惑が頭をもたげている。
 ディウスであれば、その友情に免じて、きっと許してくれるだろうと。
 気づかぬうちに暗闇に閉ざされた視界。ラキウスが意識を優しく包み込むまどろみに身を任せようとした、その時。
「ラキウス!」
 鋭く、鮮やかなその声に、ラキウスの意識は覚醒する。
「ディウス……?」
 かすむ視界を懸命に懲らしたその先には、この腕の中で確かに息を引き取った親友の姿がある。
 ディウスは無言で手を差し出す。
 ラキウスはその手に導かれるように自らの手を伸ばし――二人の手は繋がれた。
「ここが、目指した場所だ」
「ああ……俺は、ここにいるんだな」
「そうだ。さあ、旗を」
 ラキウスはディウスと一緒に、守り通した誇りの証を手に取った。
 目指した場所へと掲げられる旗。風になびくその様を、ラキウスは確かに見た。
 自分を支える、確かな存在を背中に感じながら。
 この旗は、今はもうなくなった、ラキウス達の故国の旗。
 国を守るために戦って、戦って、結局守ることができなかった。
 だが今このときだけ、彼らは恋しい国へと帰っていた。この塔こそ、彼らが主と共に守っていた最後の砦であった。
「これで……良かったな、ディウス」
 その言葉と共に崩れ落ちるラキウス。急速に失われる意識の中でも、彼に恐怖はない。


 生きる者がすべていなくなったその塔の、最も高い場所に掲げられた、紅の旗。
 黄昏に染まる空の中にあって、風を受けそれは凛然と翻る。




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