『フィルム越しの世界』


 カシャ。
 一瞬視界が遮られて、彼の姿を記憶する。
 畳の部屋というのは今となっては珍しくなっていると思う。私の家も賃貸マンションで畳はなかったし、大学卒業するまで家に畳がある人とあうことはなかった。だから、彼の部屋に初めて行ったときは思わず寝転んでしまったものだ。
「何、固まってるの?」
 カメラを構えたまま物思いにふけっていた私に彼が話し掛ける。カメラの中の彼もその通りに動く。
「なんでもなーい。動かないで?」
 猫なで声で言うと彼は頬を赤らめた。もう二十三歳にもなるのに何かうぶだ。だからこそ、その赤らめた顔を写真に取る。
 写真に手を出したのは大学からだった。最初は旅行先の風景をただ撮っていた。今でもあまり変わらないけれど、少しだけピントあわせとか光の加減とかに気を使うようになった。
 使うのはおばあちゃんの形見のカメラ。年代物で、全然今のものとは違うけれど味があって好きだった。デジタルなものよりも写真を撮っている、という感じが出ていて。
「次は横向いてー」
 彼と知り合ってから被写体として写ってもらう事にした。もちろん何かの賞に送ることもしないし、ただ単に楽しむだけのもの。それでもこうして文句無く写ってくれるのは嬉しかった。
 そして――
「あ」
 直接じゃないけれど、彼の立っている足元に光の道が続いていった。埃っぽいわけじゃないからちゃんと見えるわけじゃない。それでも、ファインダーから覗く向こう側には、別の世界が広がっていた。
「シャッターチャンス!」
 彼も私の見ている世界が見えているんだろうか。この世界を一緒に共有したいけれど、彼はいつも世界の中にいる。だからこそ、ちゃんと残しておこう。
 後に二人でその世界を見るために。
「はい、チーズ!」
 カシャ。
 一瞬視界が遮られて、彼と世界の姿を記憶する。

* * * * *

「はい、チーズ」
 決まってそう言う彼女の声が、耳に残っている。
 奥に残る響きに頭が痛むけれど、押し出すことも出来ずに俺は目を開いた。先ほど、目を閉じる前と変わらない景色。古びたカメラと彼女の写真。ちょうど一月前に彼女のカメラで俺が撮ったものだ。
 写真の中で笑ってる彼女は、俺を真っ直ぐに見つめてきていた。
 カメラは祖母の形見だったという。今のデジタルカメラとは大きさも機構も違うカメラを、彼女は味があると言って愛していた。俺には使い方はよく分からないけれど、今でも写真を撮って現像できるらしい。撮られた写真は、デジタルカメラのものよりも綺麗に見えた。画質とかじゃなくて、それとは別の、別の領域にある物が、あった。
 でも――
「残ったのがこれだけって寂しいよな」
 カメラを取り上げて、ファインダーを覗いてみる。狭い世界に縮小された視界。俺の見える世界の中にあるのは、彼女の写真とその周りだけ。
 カメラが写すのは現実の世界。でも、現像された写真に写る光景は、これは現実のものだと言えるんだろうか?
 写真の中で笑ってる彼女が、現実だと言えるんだろうか。
「…………意味、ないじゃないか」
 レンズを超えた光景が歪む。
 俺の、目が揺れる。
 表面に生まれた雫が、映る景色を歪めている。
 たとえ写真に残っていても、映し出された現実がなければ意味がないんじゃないのか?
 永遠に残り続ける彼女と、徐々に姿を変えていく自分。その差を認識するたびに、俺は悲しむのではないだろうか。
「ああ……」
 畳の上にカメラを落としても、拾う気力はもうない。真正面にいる写真の中の彼女を見れずに、俺は俯いたまま泣き続けた。
 情けない涙を、流し続けた。




裏小説ぺージへ