ボタンを押すな

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 タカシは腹を押えながらエレベーターを待っていた。定時のチャイムが鳴ったと同時にさらりと帰宅しようとパソコンをシャットダウンして、コートを着込んだところまでは良かった。逆に言うと、スムーズ過ぎたのかもしれない。
 コートを着てエレベーター前に立った時に起こった腹痛を止めるためにトイレに寄るという発想は「せっかく素早く出られたから出来るだけ早く会社から出て金曜の夜を楽しみたい」という欲求に抑え込まれてしまった。
(でもマジ……お腹痛い。やっぱり、一度トイレに)
 腹痛の原因を取り除きたいという欲求が上回ろうとした矢先に、エレベーター到着を告げる光が明滅する。開かれた扉から見えるのは一つ上の階からの乗客の男が一人で、動きを止めているタカシへとじっと視線を送っている。動きを止めているタカシをじっと見ている。コートは着ておらず、スーツ姿の男。一階の喫煙スペースにでも行くつもりなのだろう。タカシは煙草は吸わないが、吸う人にとってはリラックスできるのだろうと思う。ある意味至福のひと時を邪魔するわけにはいかない。
 頭を下げてタカシはエレベーターへと乗り込んで、エレベーターの角に移動した。男の後ろにつくことで視界から逃れ、出来るだけ尻の筋肉に力を込める。括約筋を締め上げることで、放出の危険を回避しようとした。
(一階にもトイレがあるんだ……そこまでの我慢……)
 エレベーターの扉が閉まったことで階数表示が減っていく。15階建てのビルの14階にある職場から、スムーズに遠ざかる――と思いきやエレベーターは二階降りたところで止まった。
『十階です。ドアが開きます』
 自分の前に立っていた男が開いた扉から出ようと扉の前に移動する。
 最上階と数階下に同じ会社のオフィスがあるようだという冷静な分析をしている一方で、一階まで突っ切るのだと思っていた頭は咄嗟に反応できず、括約筋を緩ませた。
(やば……い!)
 腹の中に溜まったガスが豪快な音を立てて溢れ出すのを我慢したその時、ブボッという音がエレベーター内に響いた。前方から聞こえたその音に咄嗟に視線を向ると、ばつが悪そうに男が頭をかいている。独特の匂いが漂ってくる中で男は言った。
「すみません。腹の調子が悪くて」
「いえ。そういう時もありますよ」
 おそらくは人生で最も共感したと相手に感じさせる声音を出せたと思いながらタカシは閉まる扉で消える申し訳なさそうな顔を最後まで見ていた。
 扉が閉じた後すぐに下へと移動し始めたことで、すでに一階のボタンには光が点っていたことを知る。タカシが押し忘れたのを見て押してくれていたのだろう。自分もまた、腹が痛くて余裕がなかっただろうに。その優しさにタカシはほっこりする。
 一人になったエレベーター内。漂う匂いは男の腹が本当に調子が悪いのだと素人考えながら分かるものだ。
 人間なのだから仕方がない。腹の具合が悪い時は、してしまえばいいのだ。
 だが、先に放屁されたことがショックだったのか、自分の中の衝動は収まっていた。これならば一階まで持つだろう。
 しかし、精神的に余裕ができたことでタカシは気づいてしまった。
 この状況の危険性に。
(これ、もし誰か入ってきたら……俺が屁をしたってことにされるのか?)
 既に自分の鼻は慣れてしまってほとんど臭いは感じないが、別の階から新鮮な空気と共に入ってくる会社員には臭ってしまうだろう。その時、犯人として疑われるのは唯一の乗客であるタカシ。タカシは真犯人を許したが、はたして次に乗ってくる客は許してくれるだろうか。
(誰も乗ってくるな。誰も乗ってくるな)
 階数表示は順調に減っていく。まるで正月のカウントダウンのようにその時が来るのを待ちわびる。順調に、スムーズに終わってくれるように。
 エレベーターを止めるボタンを誰も押さないように願い続ける。
 そして、エレベーターは数字を止めた。
(三階なんだから階段使えよ!)
 終着点まで数字が二つ下りきらずに、扉が開く。乗ってくる人が顔を歪め、続いて侮蔑の表情を浮かべることを覚悟して、タカシはエレベーターの右隅に固まった。
 しかし、エレベーターの前に立っていた女性は慌てた顔で中のタカシへと言う。
「あ、すみません! いいです! 行ってください!」
 理由などどうでもよかった。
 タカシは無言で前に進み、扉を閉じるボタンを押した。エレベーターは扉を閉めてまた降りる。最後の関門を抜けたかとほっとしたが、ここにきて新たな不安要素が体を悪寒と共に昇って行く。

 一階で人が待ってる可能性もゼロではない。

 途中のボタンは押されていなくても、逆に昇ろうと一階に人がいる可能性はあった。定時にちゃっかり帰るタカシと違って残業戦士達は存在するのだ。
『一階です。ドアが開きます』
 アナウンスが最後通告のように聞こえて、タカシは覚悟を決めて歯を食いしばる。
 そして開く扉を見送って、誰も入ってこないことを確認すると足を踏み出した。
(やった。誰もいなかった!)
 15階もあるビルのエレベーター。誰かが乗ってくる可能性は十分あったはず。15階のどこにでも入っている会社。そこに勤める者達で、定時に帰る者は何人もいるだろう。それでも、途中下車以外どこにも止まることなく、一階へとたどり着き、そこにも誰もいなかった。
 湧きあがる勝利者の愉悦に浸りながらエレベーターを出たタカシは、ビルの入口から走ってくる青年が視界に入る。
「あっぶない! 間に合った!」
 全速力でタカシとすれ違ったサラリーマンスーツ青年は、閉じようとしていた扉に右腕を滑り込ませてこじ開ける。若さが漲る男は、ほっとしたのかエレベーターの入口で思いきり息を吸い込んで、そのあとで一瞬だけタカシの方を見た。
 タカシもまた振り返って男の一部始終を見ていた。その顔が歪み、続いて侮蔑の表情を浮かべるのを。
 扉が閉まった後、タカシの尻からプスーッとガスが抜けて玄関ホールの空気に混じっていった。


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