『新しい年もまた』 紅白歌合戦が互いのトリを登場させる頃、携帯電話が震えた。 ソファの上に置いてマナーモードにしていたからか、気づくのが遅れる。立ち上がって両親から距離を取りながら相手を見ないで通話ボタンを押した。ゆうに十回はコールしていたにも関わらず切れなかったことが、相手が誰かを俺に悟らせた。 「美香。どした?」 『こばはー。紅白どっち勝つと思う?』 耳の奥に残る柔らかい声に気が緩む。その声質は電話を通しても色あせることは無い。無性に会いたくはなるけれど。 唐突なクイズに紅組のトリを聞きながら予想してみた。あでやかな着物を着て演歌を高らかに歌い上げる姿は堂々としていて、相手を圧倒しているように見える。実際に、白組も一緒に手拍子をしているけれどその迫力に苦笑いを浮かべている参加者もいる。少し悩んだ末に、答えた。 「紅かな」 『もしかして、今着てる服の色?』 自分の服装を見るまでもなく、今日のシャツは赤だった。派手な色だったけれど家にいるからと着て、そのシャツを隠すようにセーターを着ている。下はジーンズ。特に気を使ってない服装を見下ろしていると、美香が呼びかけてくる。 『もしもし?』 「あー、そうだよ。シャツの色」 『やっぱりー』 待たされたことは特に気にしてないらしい。一緒にいるときも、俺はたまに思考が離れる時があるから、慣れているんだろう。そう思っていると、美香も電話の向こうでむくれた声を出して言ってきた。 『待たされるのはいつものことだもん。気にならないよー』 「おいおい。何も言ってないぞ?」 『匡の考えてることって分かりやすいもん』 互いに笑いあっている間に紅組の歌が終わり、白組が始まった。大御所が演歌を大ぶりな動作とともに歌い上げている。寸前まで紅組に気おされていた感のあった人だったけれど、歌うとやっぱり印象が違った。 「うーん、やっぱり白が勝つかもしれない」 『優柔不断ー』 言葉自体は辛らつなのに口調は普通だ。むしろ楽しんで言っている。口に出している美香の顔がはっきりと脳裏に思い浮かべることが出来た。 少しだけ傾げる首にしたがって耳元にかかる髪が流れる。黒目がちの瞳に優しい微笑みの色が浮かび、口元の形が綺麗に三日月になる。はっきりと想像して、頬が熱くなった。 『あ、終わったね』 脳内に浮かべた美香の口が動き、霧散した。テレビに意識を戻すと大団円、と言わんばかりに出場者が拍手をしながら軽く飛んでいる。これから集計が始まって、紅白が終わる。そして行く年来る年が流れる。 今は他局で格闘技中継が多いけれど、この時間は歌を聞いて静かに過ごしたかった。年が明ける瞬間くらいは。 『行く年来る年始まったら、切るね』 「ん? 了解。今年も初詣行くんだろ?」 『そうだねー。いつも通り、匡が両親と行ってから合流しようか』 「あいよー」 美香の言葉が紡がれるたびに嬉しいような切ないような気持ちになる。幼稚園の時から培ってきた関係が、まだ続いていることの嬉しさ。結局、彼氏彼女にはならなかったけれど、俺はそれ以上の絆があると思っている。そして、こうやって関係が続いているのは、実はとても凄いことなんじゃないかと最近は思うようになった。 二十一年。二十一年だ。 お互いに生まれてから二十一年。 知り合ってからは十七年。その間、ずっと同じ時間を過ごしてきた。今、この時と同じように。 『あ、結果出るね』 テレビは紅と白の玉をアナウンサーが数を数えつつ客席に投げている。ぼんやりとその光景を見ていたとき、すっと差し込まれた声。 『来年、匡はどうするの?』 美香の声にかすかに震えが感じられた。何かに対して不安を抱いている、そんな口調だった。 「多分、大学院に進むことになると思うけど」 『そっか。私は就職だから、離れちゃうね』 寂しそうに語る美香の言葉が俺の心に染み込んでくる。確かに、学部が違うとはいえ大学まで一緒に通えた。互いに彼氏彼女が出来たから一緒にいる時間は減ったけれども、俺達二人の間に流れる空気はけして変わることはなかった。 でも、再来年からは過ごす世界が変わっていく。初めて、本当に離れるときがくる。 「美香、今どこでテレビ見てる?」 『ん? 自分の部屋』 それを聞いて立ち上がる。両親が何かくすぐったい視線を向けてくるのを背中に感じながら、廊下へと出た。外とほとんど変わらない気温に身体が一瞬震える。吐く息の白さを見ながら、携帯越しの美香に語りかける。 「美香」 『うん?』 これから言おうとする言葉は恋人に言うようなものだろう。好きでもそのベクトルが彼女と美香では違う。 言葉にすれば陳腐なのかもしれないけれど『親友』と『彼女』だ。ベクトルが違っても、好きの強さは同じだと思う。 だから、伝えたい。 「これからもっと会う時間が減るだろうけどさ」 一度、言葉を切る。心臓が激しく動いていた。肌が感じる寒さと身体の中の熱さで、全身が震える。火照った顔を空いている手で抑えつつ、一気に舌の上に言葉を乗せた。 「せめて地元いる間は、初詣行こうな」 毎年行こうとは言えない。仕事でどこに離れるかも分からないし、何も決まってない未来の中で確かな約束をするのは無理だ。 いつまでも同じではいられないから、少しでも繋がっていけるようなことを大切にしたいと思った。互いに大事な存在だと、思っているのなら。 少しの沈黙を挟んで、美香が言葉を紡ぐ。 『うん。できるだけそうしようね』 俺の考えていたことが伝わったと思えた。少なくとも、声からはさっきまでの不安は見えない。安堵したところで、腕時計の針が四十五分を過ぎていることに気づいた。居間への扉が閉まっているから、紅白のどちらが勝ったのかは聞こえない。 寒さにも耐えられなくなって居間に入ると、行く年来る年の静かな映像が目に入った。吊り下げられているにも関わらず、無音の空間に除夜の鐘が浮かんでいるように見える。 『そろそろ一度切るね』 「ああ。紅白、どっち勝った?」 『後で教えてあげるよー』 「分かった」 そう言って美香が切るのを待つ。でもいくら待っても電話は切れない。 気まずい沈黙を美香は静かに破った。 『そっちが切ってよ』 声に照れが入っていると思うのは俺の思い違いだろうか。しばらく黙って美香の反応を待っていたけど、俺が切らない限り動く気はないらしい。時計は十一時五十分を指している。そろそろ神社に出かける時間だ。 「分かったよ。じゃあ後で」 心持ち勢いをつけて電話を切る。そうしないと、年が明ける瞬間まで繋げたままにしたかもしれない。自分だけならそうしたのかもしれないけれど、親がいる前で幼馴染とずっと電話しているというのは、想像すると凄く気恥ずかしい光景だった。 「匡。用意できたぞ」 先に玄関に出ていた父さんに答えてから、用意してあったコートに袖を通して外に出た。二人とも既に外に出ていて、母さんは車の中に入っていた。 玄関の電灯は空をきらめく星々を隠さない。肌を突き刺す寒さが生み出した晴れ渡る空。はっきりと見える北斗七星から視線を移して北極星まで確認できる。 この空を両親との初詣の後で美香と一緒に見るんだと思うと、急に嬉しくなる。 今までに何度も初詣を共にして見てきた、ありふれた空なのに。今までとは違う会話を交わしたから、そう思うんだろうか。 「ハァ――」 思い切り空に息を吐く。拡散して消えていく白色を目で追ってから、車へと歩き出した。 今まで続いてきた一年の終わりと、これから続いていく一年の始まり。 新しい年もまた、大切な人達と一緒にいられるように祈ろう。 |