『紅い月の男』



 その人影の背には紅い月があった。
 明人が勉強することに飽きた際に、いつも窓を開けて見る月。
 いつもの月の大きさは親指よりも少し丸く大きいくらい。切り取られたチーズのように黄色く丸い月だった。
 しかし今、人影の姿を超えて見える月の姿は血のように紅く染まり、大きさもまるで人影を包み込むような大きさと化している。
 異常な状況がどうして始まったのかを知るために、明人は意識を過去に向けた。
 まず、勉強に飽きたのでいつものように空を見ていた。その時はまだ月は普通だったはず。
 次に、小腹が空いたことで近所のコンビニへと向かい、ウーロン茶とカツサンドを買って帰ってきた。その時に時計を見たら、二時を少し回ったところだった。
 そして、家まであと百メートルほどだったところで、この人影と出会った。
 ――自分が明確に今までの経緯を思い出したことに明人は驚愕した。
 それはつまり、今の状況が夢でもなんでもなく、紛れも無い現実だということの証明。
 つまり、目の前の人影が握っている血まみれの刀は現実に何かを斬った後だという事だった。
 人影。
 そう、人影だ。
 人の形をしていても、その姿は黒いコートに隠されている。顔もフードに覆われていて、良く見えない。
 だから男か女かも、どのくらいの年齢かも分からない。
 唯一分かるのは、これから自分に危機が迫ってくるという事だけだった。
「……あ……」
 足が震える。
 心臓が収縮する。
 筋肉が硬直し、まるで冷凍庫に入れられたかのように体が冷たくなった。
 動きが生じたのは明人――ではなく人影のほうだった。
 振り上げられる血まみれの刀。後ろに陣取る紅い月がまるで血の刀に力を与えているように、刀は勢いをつけて振り下ろされた。
 足が動いたのは、その直前に響いた犬の鳴き声のおかげだった。
 近くの家の犬だけがこの異常事態に気づいたのか、警告の声を発してくれたのだ。
 犬の声と共に動き出した明人の心臓が、血液を体中に伝えてくれたためにかろうじて足が動く。
 そのまま刀は明人が一瞬前までいた場所に突き刺さった。
「う――わあああ!」
 明人は腹の底から絶叫し、歩いてきた道を逆走する。
 家には戻れない。家に戻ってもこの人影は彼を含めて身内を皆殺しにするだろうという確信があった。
(逃げる当ては警察しかない)
 明人が走り始めた瞬間に耳に入ってきたのは、犬の鳴き声だった。それも殴られたりした時に鳴くような声ではなく、死の間際に放つような鈍い、息が詰まった悲鳴。
 想像しただけで身の毛がよだった。
 明人を助けた犬は、きっとそのために殺されたのだ。
 交番はこの場所から走っても十分はかかる位置にある。
 どうやって人影が追ってきているか分からないが十分も逃げ切れるだろうか? と明人の心に不安がよぎる。
 見えない恐怖が背後から迫ってくる。
 だが特に足音も聞こえず、叫び声も聞こえない。
 やがて、明人は実は自分が勝手に怯えて走っているだけで、背後を見ても何も、誰もいないのではと思い始めた。
 最初の恐怖が大きすぎたために、弾力の無い気配は彼の中から徐々に警戒心を奪っていた。
 そして次に浮かび上がったのは、今の状況を把握できないということに対しての恐怖だった。
 周りが何も見えなくなる闇に対して、人間が恐怖を抱くように。
 だからこそ、彼は後ろを見た。

 後ろには誰もいなかった。

 とたんに、足がもつれて道路に転がる。仰向けに倒れて空を見上げる形となり、何とか起き上がろうとしても動悸が激しく動くことが出来なかった。
 耳に聞こえるのは血が勢い良く血管を通る音。
 目に見えるのは紅い月……
「え?」
 紅い月……
 あかい月……
 あかいつき……
 仰向けに倒れた明人の視界を覆い尽くすように紅い月が広がっていた。
 そして気配を感じさせずに現れる人影。
 それまでよく見えなかったこともあり、人影の容姿というものに気を向けてなかったが、今の状況下で見ると、人影の特徴はとても分かりやすかった。
 紅い月からくる光が、人影の全身を浮かび上がらせ、何故か顔までも綺麗に見えたのだ。本来ならば逆光となり見えなくなるなずなのに。
 見覚えのある顔。
 それは、明人自身の顔だった。
「おれ?」
 明人の呟きに答えるように、明人と同じ顔をした男は手にした刃を振り下ろす。
 絶命の瞬間に明人は思っていた。
(もう一人の自分……)
 もう一人の自分を、人はドッペルゲンガーと呼んだ。



「やはり心臓発作のようです」
 須藤刑事にそう伝えた若い刑事は、すぐに違う刑事のところへと向かった。須藤は自分の足元でブルーシートを被っている遺体に身をかがめ、シートをはぐ。
 そこには物言わぬ明人の死体があった。顔は安らかな寝顔で、とても心臓発作で死んだようには見えない。しかし、特に外傷も見当たらない事から場の刑事達は確証ではないにしろ、そのように思っていた。
「こんな月の綺麗な晩に死ぬとはねぇ……」
 須藤はそう言って空を見上げた。そこには切り取られたチーズのように黄色く丸い月が浮かんでいた。
 周りにはいくつもの星。綺麗な月夜の晩だった。



『紅い月の男・完』



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