にゃーにゃー

 アイズは鳴き声を上げている子猫をずっと見ていた。雨が猫の入っているダンボールの

中まで入り込んでいた。アイズは自分の持っている傘をダンボールの上にかざす。傘に当

たった雨の音が耳に入る。アイズは少し思考した後でダンボールから子猫を取り出し、腕

の中に抱いた。

 にゃー。

 子猫が心地よさそうに鳴く。アイズは微笑を浮かべた。人間に対して、そして同じブレ

ードチルドレンである仲間達にもこういった顔はほとんど見せない。

 子猫はアイズにとって少しだけ幸福だった時期に存在していたのだから。



* * * * *

「可愛いだろー、アイズ」

 カノン・ヒルベルトは自分の両手に子猫を持ち、アイズへと掲げた。アイズは特に反応

らしい反応を示さず、カノンも掲げた腕の行方をどうしようかと考え始めた。

 と、その時。

「名前は何だ?」

「あ――、ベンジャミンっていうんだよ」

 猫を床におき、アイズの元へと送り出してカノンは言った。

 カノンはアイズが少しだけ笑いながら名前を問い掛けてきたことが嬉しかった。昔から

ブレードチルドレンの運命を受け入れ、喜怒哀楽の感情をほとんど捨て去ってきたアイズ

だからこそ、こうしてたまに洩れる笑みが、人間らしさがあるということをカノンに感じ

させる。

「アイズ。君は人間さ。たとえ呪われていても、僕達は人間だ」

「……そうだな。だからこそ、俺は強くならなければならない」

 アイズは猫の頭を撫でながらその強い意志をカノンへと洩らす。カノンはその言葉の中

にある悲しみを感じ取って顔を歪めた。

「でもね、アイズ」

 カノンもしゃがみこんで猫の頭を撫でた。アイズと共に、撫でた。そしてアイズの手を

掴む。

「強くなることは切り捨てることじゃない。絶対に。たとえ押し殺したとしても、けして

棄てないでくれ。そうすればまた取り戻すことが出来る」

 カノンの言葉をアイズは完全には理解できなかったが、それでもアイズは心に安心感が

満たされていくのを感じた。アイズは猫を取り上げ、胸に抱いた。

「いこうか」

「ああ」

 カノンと共に歩むアイズ。



 それは遠い日の、少しだけ幸せだった記憶……



* * * * *

 アイズは今住んでいるマンションへと猫を連れてきた。

 バスルームに浅めにお湯をはり、子猫をいれる。子猫は嫌がってアイズの腕から離れよ

うとしたが、アイズは押さえつけるでもなく、頭を撫で続けた。

「大丈夫だ……おちつけ……」

 次第に動きを緩めていく子猫。そして最後にはじたばたする事を止めてアイズの手に収

まる。アイズは片手に持ったスポンジで汚れた子猫の体を丁寧に洗い出す。子猫は最初は

まだ抵抗していたが、すぐにスポンジの感触が気に入ったのか気持ちよさそうな声を出し

ながらアイズに体を洗われるままになる。 

 そして子猫の体は見違えるように綺麗になった。

 黒系の色かとアイズは思っていたが、少しくすんだ白毛の猫だった。



 にゃ〜にゃ〜



 体を丁寧に撫でているアイズに向けて子猫はねだるように鳴いてくる。アイズは拭き終

えたタオルと猫を置き、冷蔵庫へと歩いて行く。冷蔵庫から取り出したミルクを皿へと注

ぎ、子猫に差し出す。

 猫はやはり空腹だったらしく勢いよくミルクを舐め出した。アイズはしばらくその様子

を眺めていたが、やがてピアノの元へと歩いていった。

 ピアノにゆっくりと指を置き、,眼を閉じて意識を集中する。

 今、この時に感じている物を音として残したい。そうアイズは思っていた。

 アイズの眼が開かれ、指が旋律を奏でる。即興で作られた物とは思えないほど完成され

た旋律が部屋中に響き渡る。ミルクを飲んでいた猫もアイズの演奏が始まるとその動作を

止めてアイズへと顔を向けていた。

 数分してアイズの指が動きを止める。ふう、と軽くため息をついたアイズは視線を横に

ずらす。いつの間にか来ていた猫が鍵盤の上に乗っていた。

 ピン、と高い音の鍵盤が音を出す。アイズは猫へと語りかけた。

「お前も、弾いてみるか?」



 にゃー



 猫が鍵盤の上を走る。意味のないような旋律を奏でていく。しかしアイズの中に安心感

が広がっていった。まるで、カノンといたあの頃のような。

 アイズの中にある感性が猫の旋律に何か意味を見出したのか、それは分からないが、ア

イズの懐に飛び込んだ猫を受け止め、アイズは頭を撫でた。



 にゃ〜にゃ〜



 子猫は自分に構って欲しいというような仕草でアイズの胸に頭を押し付ける。その時、

部屋のインターホンが鳴った。

 応答に出ると、どうやら来客らしい。少しの間考えたアイズは相手に向けて言った。

「今日は来客中だ。一日時間は取れない」

 そう言ってインターホンをきる。胸の中にいた猫はまるでアイズを独占することが嬉し

いように短く鳴いた。

「なかなか頭がいい……」

 アイズは少しあきれたように、しかし顔に笑みを浮かべながら言った。





 次の日、その日もまた雨だった。

 アイズは猫を胸に抱き、片方の手には傘を持って歩いていた。子猫が一匹で部屋にいる

ことを嫌がったこともあるが、まだどこに排泄するかも分かっていない猫を部屋に置いて

おくわけにはいかなかった。

 ふと、昨日猫がいた場所へと足を運んでみる。

 そこには悲しそうに空のダンボールを眺めている女がいた。アイズは一目見てその人物

が猫を捨てた人物だと分かった。

「……お前が探している猫はこの猫か」

 近づいて言ったアイズの声に驚いて振り向いた女は、アイズの腕の中にいる子猫を見て

安堵の表情を浮かべた。

「よかった……ちゃんと人に拾われていて。犬に襲われていないかと心配で……」

「後悔するくらいならば、捨てなければいい」

 アイズの言葉に女は一瞬息を詰まらせるが、すぐに言った。

「そうね。あなたの言う通りだわ……その子、大事にしてね」

「そうはいかない」

 アイズは驚く女の腕に子猫を抱かせた。驚きで何も言えない女にアイズは語る。

「俺のマンションは動物を飼ってはいけない。どうせ捨てた猫だ。また新しい猫が来たと

思って育ててみろ」

「……ありがとう」

 女は礼を言ってアイズから離れていく。子猫の少し悲しそうな声がアイズの耳に入って

くるが、アイズは何も思わないような表情をして歩いて行く。

(還るべき場所へと還れ)

 胸に過ぎった痛みが、アイズを逆に強くする。

 大事な者を守るために、自分を傷つけることすら厭わない強さを得る。

 自分が大事な物を失わない、還るべき場所を守るための強さを得る。

(俺は今の仲間達で充分だ)

 その仲間達の顔が浮かぶ。

 浅月香介、竹内理緒、高町亮子、そして――

「カノン」

 今、自分に近しい、仲間。

 全てを守ることが出来なくても、彼らだけは守りたい。

「じゃあな」

 アイズは子猫へと別れの言葉を贈った。それが聞こえることがなくても良かった。





 一日だけ、アイズは少しだけ幸せなあの頃へと戻れたのだから。





「完」