「鳴海さん」

 結崎ひよのの声に――正確には自分を呼ぶ動作に鳴海歩は気付いて耳栓を取った。最近

は新聞部室で本を読む際、集中できるように耳栓をしている。いつもなら呼ばれても気付

かないふりをするが、ちょうど今、本を最後まで読み終えてしまったのだ。

 というか、自分を包んでいる倦怠感が読み進めようとすることを止めたというか。

 歩はなんとも気だるそうにひよのへと声を返した。

「なんだ? またくだらない情報でも持ってきたのか?」

「そこのリモコンを取ってください」

「……」

 今、ひよのはパソコンに向かっていて歩には体の側面を見せている。確かに歩のほうが

テレビのリモコンには近い。しかしそのためだけに呼ばれたことに歩は何か釈然としない

ものを感じていた。

「……分かった」

 それでも歩は嫌とは言えず、手を伸ばす。しかし僅かに届かない。

「ムリ。届かない」

「そこから動いて取ればいいでしょう! たった二センチくらいですよ」

「二センチの労力は今の俺にはきついんだ」

「若い人が何を言っているんですか。マラソン大会を走ったからって」

 今日、月臣学園では年に一度のマラソン大会だった。女子は十キロだが、男子は何故か

フルマラソンの半分――つまり二十一キロ走らされたために歩はすぐに帰りたかった。し

かし体は言うことを聞かず、結局この場所で休むことにしたのだった。

「疲れたからここで休むつもりなのに、俺にこれ以上労力を強いる気か?」

「鳴海さんにはいい機会ですよ。頭ばっかり使ってないで、体力もつけるべきです。鳴海

さんじゃあ犯人を追い詰めても強引に逃げられますよ?」

「俺はそんな探偵になる気はない。どっかに一戸建てを立てて老後は猫を飼って暮らすん

だ。べんじゃみ〜ん」

 歩の気の抜けた声にひよのは思わず振り返った。あまりにも普段の歩と違っていたから

だ。

「鳴海さん!?」

 ひよのの視線の先には椅子にもたれかかって寝息を立てている歩の姿があった。無防備

に寝顔を見せている歩にひよのは息を吐き、安堵感を得ていた。

 思えば自分にこんな顔を見せてくれるのはあの理緒との闘いの時以来だろう。

(鳴海さんも普通の……普通じゃないかもしれませんが、学生なんですよね。普通なら、

こういう事で疲れるべきなんですよね)

 ひよのは立ち上がると歩の寝ている椅子へと近づき、歩の顔を見た。体が反っているか

らか少し開いている口を見てひよのは胸が高鳴る。そのままひよのは顔を徐々に歩の顔へ

と近づけていった。

「なるみ――歩さん」

 ひよのの口が歩の口へと近づく……その差、二センチ。とその時、急にドアが開かれた。

「鳴海弟〜! 助けてくれ!!」

「逃げんじゃないよ、香介ぇ!」

 急な来客の大声に歩は一瞬で目が覚めた。そしてそれまで微妙なバランスを保っていた体

は見事に後ろに倒れて床に叩きつけられた。

「――ゲホッ!? な、なんだ? 何が起こった?」

「助けてくれ〜!!」

「香介! あたしが学年十位以内に入ったら寿司をおごるんだろ! おごれ!!」

「ぎゃ〜!?」

 浅月香介と高町亮子は一通り歩とひよのの周りを走るとそのまま部室から出て行った。歩

はようやく体を起こし、椅子を片付ける。まだ痛む背中をさすりながらひよのに聞いた。

「結局何だったんだ?」

「邪魔者め……」

「え?」

「あ、な、なんでもないです! もうそろそろ帰りましょうか」

 ひよのは黒い呟きをかき消すように大声で否定すると鞄に道具を詰め込んでいく。歩もま

だ疲れが残る体を起こして鞄を取った。そして先に新聞部室を出ようとした歩にひよのは後

ろから声をかけた。

「今日はお疲れ様でした」

 いつの間にか夕日が部屋に入ってきていた。

 ひよのの顔は歩の側からは逆光になっていて良く見えない。しかし歩の胸は高鳴った。

 よく見えないからこそ、ひよのの顔がやけに綺麗に見えたのだ。

「ああ。さっさと帰って寝よう」

「はい。私も疲れました」

 二人は新聞部室から出て、帰路についた。



* * * * *

 学校から出て少し。ふと歩は気になったことを口にした。

「そう言えば、あんたは大会何着だったんだ? そんなに疲れてなさそうだが」

「私ですか? 鳴海さんより上ですよ」

「だから何着だって」

 ひよのは自慢げに胸を反らせながら言った。

「十一着です」

「な……」

 歩は流石に驚いた。情報収集能力は桁外れで、身体能力もカノンとの闘いで高いことが

証明されていたが、それでもマラソン大会で上位に入るほどの体力があるとは思えなかっ

た。ひよのはふふん、と鼻をならす。

「ちなみに十位が亮子さんでした。あと二センチだったんですよ……悔しいです!」

「そうかそうか」

 歩はさっきの光景を思い出してまた少し疲れた。ひよのから視線を前に戻す。そしてひ

よのはその瞬間を狙っていた。

(鳴海さんと手を繋ぐチャンス!!)

 ひよのは焦らないように心を落ち着かせながら手を制服のスカートで拭いた。そして歩

に気付かれないように深呼吸を二、三度行う。自分の中で決心をつけて歩の手へと手を伸

ばした!

「はうぅううう!?」

 歩の手との間二センチに後ろから疾風が駆け込んできた。ひよのと歩を吹き飛ばしたそ

の風は少し進んだところで見事に転んだ。

「だ、大丈夫か? 竹内……」

「はうぅ……大丈夫です。追ってきてた犬もいなくなったようですし」

(その割には犬の声がまったくしませんでしたけどね)

 ひよのは起き上がる少女を見ながら思う。

 体を起こしたのは竹内理緒だった。偶然を装って歩とひよのの間を抜けていった彼女の

心の内をひよのは見た。

 起き上がった瞬間に理緒は邪悪な笑みを浮かべたのだった。

(どいつもこいつも、鳴海さんと私の仲を邪魔して……)





 結局、ひよのと歩、そして理緒の三人で今回は帰路についた。最後までひよのは歩との

距離を縮めることは出来なかった。

 二センチメートル。

 微妙な距離。

「次こそは必ず!!」

 ひよのは空に輝く星に誓ったのだった。 





 おわり