『起きないから、奇跡って言うんですよ』  かつてそんな言葉を言った少女がいた。  俺はこう答えた。 『少しでも起きる可能性があるから、奇跡って言うんだぜ』  実際、奇跡は起きた。  様々な奇跡が。  どれが欠けても、今の俺の幸せはなかった。  どの奇跡も起きなければ、俺は大事なものを失っていた。  そしてまた、一つの幸せが消えようとしている。  奇跡。  俺は今、それを最も欲してる。  〜Kanon another story final〜  『Thanks A Million』  〜後編〜  AM 1:00  ボクはずっと起きていた。  ボクがうとうとしているうちにかかってきた電話。  祐一君はそのまま呆然としていて、起きてきた秋子さんと三人で病院に行った。  冷たい廊下。  前に体験した事のある感覚にボクは少し怖かった。  でも、怖がってちゃいけなかった。  その時、最も恐怖があったのは秋子さんや祐一君だったからだ。 『娘の、名雪の容態はどうなんですか?』  秋子さんは、表面上は冷静にお医者様に聞いていた。  でもボクや祐一君は知っている。  その時の秋子さんに余裕というものが欠落しているという事を。 『全力を尽くしていますが、今はなんとも言えません』  お医者様はそれだけを言ってボク達の前からいなくなった。  不意に浮かび上がる考え。  ふっと消えてしまうなゆちゃん。  まるで雪の中に消えてしまうように―― (絶対嫌だ! ボク、もっとなゆちゃんに教えてもらいたい事がある)  なゆちゃんがいなくなる事はボクにとっても怖いことになっていた。  秋子さんとなゆちゃんの家に引き取られて、二人はボクの本当の家族になったんだ。 (なゆちゃん……お願い、死なないで……)  ボクはずっと手を握っていた。  いつの間にか夜が明けていた。  そして同時に、手術室のランプも消えていた。  AM 9:30  相沢君の電話を聞いて私と栞は病院に来た。  相沢君の力のない声。  今にも力尽きてしまいそうな声。  その声はひどく私の心を不安にさせた。 「失礼します」  ノックをして病室に入るとあの娘が寝ていた。  いつものように。  いつも授業中に寝ているのと変わらない寝顔でベットに横になっていた。 「相沢君……」 「祐一さん」  名雪のベットの横には相沢君が座っていた。私達のほうを向いて顔が見れる。 「……ちょ、ちょっと! 休まなきゃ駄目よ!」  私は思わず大声を上げてしまう。  相沢君の目は死んだ魚のような目になって、眼の下の隈は深かった。  疲労と、寝不足の相乗効果のようだ。 「……ああ。秋子さんが朝食を買って来たら、仮眠取るさ」  力のない声。  何故か涙が滲む。 「祐一さん。名雪さんの容態は?」 「……手術は成功したけど、まだ予断を許せないそうだ」  栞も極力不安を隠して訪ねるが、やはり完全には消せない。 「そう……」  私は相沢君の隣にあった椅子に座って名雪の顔を覗き込む。  名雪の顔は綺麗だった。  交通事故にあったとは思えない。  相沢君が病室を出て行ったとほぼ同時に私は名雪の手を握った。  強く。  強く、強く。  そうしないとこの娘がどこか遠くに行ってしまう気がしたから。 「名雪……私は、相沢君のあんな顔、見たくなかったわよ。あなたのせいなのよ。  だから……戻ってきて。もう一度、あのとろんとした笑顔見せてよ」  情けない。涙が出てきた。栞も隣で泣いていた。 「私もお姉ちゃんと同じ気持ちです。  いつも楽しそうに祐一さんが笑ってた隣には名雪さんがいたんですよ。  だから……これ以上祐一さんにあんな悲しい顔させないで下さい……」  二人で名雪に懇願していた。 「……私に、あの笑顔で声かけてよ。『おはよう、香里』って……」  私達は二人して泣いてしまっていた。  AM 10:15 「あう〜。名雪ぃ〜」 「真琴。そんな大声を出してはいけません!」  そう真琴をたしなめてはいても、私自身、声を上げないだけよく耐えてるなと思う。  少し支度に戸惑って真琴を連れてくるのが遅れてしまった。  その事をかなり私は後悔している。  すでに見舞い客があったらしく、テーブルの上に果物が並んでいた。  病室には秋子さんと相沢さん。そして寝ている名雪先輩……。 (まるで、人形みたい……)  私は不謹慎にもそう思ってしまった。  傷一つない顔。  雪のように白い肌。  このまま夕食時にでもなったら起き上がってきそうなのに……。 「名雪! 目覚ましてよ! まことと一緒に遊ぼう!」 「うるせぇ! 真琴!」  相沢さんが突然大声を上げて真琴が竦むのが分かった。  真琴は心底恐ろしいといった顔で相沢さんを見る。 「う……、心配して、何が、悪いのよぅ……」  まだ怯えを含んだ声で言い返そうとする真琴。  相沢さんは今度は静かに、しかしはっきりとした声で言った。 「だからって騒ぐな。騒いだからといって名雪が帰ってくるわけじゃない」 「でも――」 「騒ぐな、真琴」  真琴の眼から涙が溢れた。  相沢さんの口調に含まれていたのはあからさまな敵意だった。  この場に真琴は必要ない。  そんな意思表示。 「あ、あう〜!」  涙を流しながら廊下を走り去っていく真琴。私は真琴を追いかけようとしたけど、どうしても言いたかった。 「相沢さん」 「……何だ?」 「真琴に八つ当たりは止めてください」 「……!!」  相沢さんが体中に怒りを滲ませて立とうとするのを秋子さんが止めていた。  相沢さんを見て、ただ首を横に振る。  そのまま相沢さんは椅子に座りなおして名雪先輩を見ていた。私はそのまま真琴を追った。  PM 1:00 「祐一……」 「祐一さん」 「ま、舞。そして佐祐理さん! どうしてここに……」  祐一は心底驚いた顔をしていた。  無理もないけど。  私達の大学は今、いろいろと忙しい時期になっている。  そんな理由で、祐一は私達には知らせない事にしていたようだから。  今、病室には祐一しかいない。どうやら母親はどこかに行っているようだ。 「あゆさんが教えてくれたんです。偶然この近くを通った時に会って」 「……そうか」  祐一はそう言って座り込む。その顔にかつての元気な祐一の面影はなかった。  ベットを見て見ると見たことのある顔が眠っている。  祐一のいとこで、私達よりいっこ下の娘だ。 「佐祐理達と直接会うのは初めてですよね」  佐祐理はそう言ってそのいとこの傍に腰掛ける。 「初めまして。私は倉田佐祐理と言います。こっちが川澄舞。  祐一さんに、大事なものを守っていただいたんです。言うなれば命の恩人ですね」 「はちみつくまさん」  私は同意する。  祐一は顔を赤くして逸らしていた。 「あなたとは一度会ってみたかったんです。祐一さんがあなたの事を面白おかしく話すから。  できれば、こんな出会い方はしたくありませんでした」  佐祐理の悲しみには裏がある。  佐祐理は小さい時に弟を無くしていたはずだ。  その時のことが頭をよぎっているんだろう。  私もよく分かった。  お母さんがいなくなりそうだった時、私は凄く不安だった。  今の祐一もきっとそのぐらいの苦しみはあるはずだ。 「できるなら……いえ、後で必ず自己紹介をしますね」  佐祐理の言葉に私も頷く。 「その時は、あなたの名前もちゃんと教えてくださいね」  佐祐理はそう言って病室から逃げるように出て行った。  私はその理由を知っている。  佐祐理は泣いていたからだ。 「祐一」  私達のほうをずっと見ていた祐一に言う。  祐一は力ない声で相鎚をうって来た。 「苦しい時に苦しそうな顔をしてはいけない」 「……」 「誰もが苦しい。でも絶対に希望を捨ててはいけない」 「俺は……」 「じゃあ」  私は祐一の言葉を聞く事なく病室から出た。  なんとなく出る言葉は分かっていた。  PM 5:00   「祐一さん。あなたは諦めているのでは?」  名雪と俺と秋子さん。三人だけの病室に響く声。 「……そんな事ありません。必ず名雪は……」  秋子さんの目を見ていたら、その先が言えなくなった。  秋子さんの言う通りだ。  俺はどこかで名雪はもう助からないんだと思ってしまっている。  睡眠はまだ取っていない。眠ったら、起きた時にはもう名雪がいない気がする。  言葉を発したら弱音を吐いてしまいそうになる。 「人間というのは弱いものです」  俺は黙って秋子さんの言葉を聞いていた。秋子さんは続ける。 「いつか、私が交通事故に遭った時。名雪は今のあなたのようになったのではないですか?」 「……はい」  俺は素直に頷く。秋子さんは先を続けた。 「その時、あなたは何をしましたか? 名雪を勇気づけたでしょう。そうしなければ、名雪はもう駄目になっていた」 「でも、今の俺には……」  そう。  今の俺にはそうやって支えてくれる人がいなかった。  あゆも、佐祐理さんたちが来てから姿を表さない。  誰も俺を励ましてはくれない。 「励ましてくれないというわけではないですよ」  秋子さんは俺の心の声を聞いたように言ってきた。俺はドキッとする。 「皆さん。相沢祐一という人を信じているんですよ。誰よりも、名雪が戻ってくる事を信じてると」  俺は何も言えなくなる。 「真琴よりも、親友の香里ちゃんよりも、私よりも、あなたが、一番願っていると」 「そんな事……ない!」  俺は頭を抱えた。  俺は弱い。  名雪が助かると信じていられない。 「弱いのは当たり前です。私が何故こうやって落ち着いていると思いますか?」 「……いいえ」  秋子さんは本当に、にこやかに答えた。 「あなたがいるからですよ。祐一さん」 「え……」 「私はあなたと二人でいるから、希望を失わずにいるんです。一人でいたら、今のあなたと同じになっていたでしょう」  秋子さんが俺の手に手を重ねてきた。  思わずどぎまぎしてしまう。 「名雪は死なない。身内の私達がそう信じてあげなくて、どうするんですか?」  俺はその瞬間、涙を流していた。  今まで一度も出なかった涙。  悲しかったのに、しっかりしなければと思って我慢していた涙が溢れる。  俺は子供のように秋子さんにすがりついた。  秋子さんはゆっくりと俺の頭を撫でて落ち着かせてくれた。 「あなたの知らない所で皆が私達を支えてくれています……ほら、来たみたいですよ」 「……え?」  秋子さんの言葉とほぼ同時に病室のドアが開いた。 「おまたせ! 祐一君」 「あゆ……」  俺はあゆの名を呼んではいても、目はあゆの手に下げている物に吸い込まれた。 「今までずっと手伝っていたの。あゆちゃんが作ろうって言って」 「そうです。私も頑張ったんですよ」 「良い出来……」 「佐祐理が一番多く折りましたよ」 「真琴のこんなに変になったけど大丈夫だよね」 「大丈夫よ。真琴の心がたくさん詰まってるから」  香里が、栞が、舞が、佐祐理さんが、真琴が、天野が。  そして――。 「ボク達一人一人は弱いけど、皆が集まれば、きっと何とかなるよ」  あゆが。 「なんとかなるよ。絶対大丈夫だよ」  名雪の口癖。  今ならば、それも現実味を帯びている。  そんな気がした。 「なんとか、なるよな!」  俺はおられた千羽鶴をあゆの手から受け取ると名雪の頭上に飾った。 「ほら見ろ名雪! みんなの想いが……『奇跡』がたくさん詰まった鶴だ!  これだけあればお前もすぐによくなるさ! 絶対大丈夫だ!」  一つ一つの想い。  それ一つ一つが奇跡。  秋子さんが交通事故から復帰したのも。  栞の病気が治って、香里とも仲良くなれたのも。  真琴が本当の人間になって水瀬家に住んでいることも。  天野の顔に笑顔が戻ったのも。  舞と佐祐理さんが一緒にいられた事も。  そして……あゆと出会えた事も。  全ては『奇跡』の産物だったんだ。 『奇跡』なんて実際は周りに溢れてる。  ただそれに気付いていないだけだ!  そうやってありふれた物ならば、この場で起きないはずはない。 「後で謝ってもらうからな! 俺は寝不足で倒れそうだ!」  自然と口が軽口を叩いた。そして……俺の意識は無くなった。  直前に俺は悟っていた。今の顔は笑顔に違いない……。  悪い夢を見ていた気がする。  何か、とても恐ろしい夢。  自分の存在が消えてしまう夢。 (悲しい顔、してる)  お母さんが泣いていた。  あゆちゃんも、真琴も、香里も泣いていた。  そして――祐一も泣いていた。  嫌だった。  祐一のそんな顔を見るのは。 (戻りたい) (戻りたい! 戻りたい!)  叫んで、叫んで。叫び続けて――少女は自分の眼に光が入ってくるのを感じた。  恐る恐る瞳を開ける。  あるのは天井。  横を向く。  そこには寝ている祐一の姿があった。  少女はまだぎこちなさが残っていたが、微笑んだ。  少女の長い夜が今、終わりをつげた。
 あとがき  前後編にしようと思ったら終わりませんでした(汗)  しまったなぁ、中途半端に長い。  完結編は少し考えてから書こうと思います。  ではでは〜。