怒った君。  拗ねた君。  泣いた君。  はしゃいだ君。  そして――笑った君。  少しずつ、忘れていく。  思い出が灰色へと変わっていく。  大事なものが零れ落ちていく。  世界が暗くなる。 「俺の、想いは……」  祐一は泣いていた。  明かりも点けず、カーテンも閉められた暗闇の中で。  祐一の心は少しずつ犯されていった。 『いつか時が流れても』(後編)  美汐との出来事から数日。  祐一は無気力なまま過ごしていた。  あの日以来、鈴の音も聴こえない。  ただの勘だが、あの日に自分は大事なものを同時に失ったんだと祐一は思う。  もうどうすれば良いか、祐一には分からなかった。  起きて、食事をして、ぼーっとして、寝る。  あの日から美汐に会う事も連絡する事もなかった。  自分は苦しみから逃れるために美汐の気持ちを無視してしまった。  もう会う資格はない。  そんな事を考えているから、祐一は外にも出なかったのだ。 「祐一、買い物付き合って」  ある日、一緒に住んでいるいとこ――水瀬名雪がそんな事を言ってきた。 「部屋に閉じ篭ってるよりもすっきりすると思うけど?」  意外と痛いところをすんなりと突いてくる。  名雪は祐一に何があったかなど知らない。  しかし彼女の場合は知っていても同じような態度だっただろう。  その点が彼女の特徴だった。 「……そうだな」  祐一はそんないとこが面白くて、同時にありがたかった。  今はとにかく動こう。  何もしないと気が滅入るばかりだ。  祐一は名雪に内心感謝しながら外套を着た。  街はすでに柔らかな日だまりに包まれている。  まだ風は寒いものの、日差しはすでに春の暖かさが冬の物よりも多い。  雪が所々で融け始めて、祐一は道路がぐしゃぐしゃになる事に腹を立てた。 「歩きにくい……」 「ファイト、だよ」  名雪は別に気にした様子もなく歩いて行く。  運動不足な体にはこの荒れた道を進むだけで足の裏が痛くなっている。 「名雪、少し休憩しようぜ」 「じゃあ、あそこ」  名雪が指を指したのはいつも好物のイチゴサンデーを食べている店だった。 「……おごらないぞ」 「うー……」  名雪は少し残念そうに口を尖らせたが、すぐに鼻歌交じりにその店に向かった。  二人分の席を見つけてそこに座る。 「私、イチゴサンデー」 「つーか、ここそれ以外の物見た種類少ないな」  そんな事を言って新しいものにチャレンジしようと祐一はメニューを見た。  ふと視線が流れる。  そこに映ったものに祐一の動きは止まった。 「祐一さん……」  少し離れた席。  入り口からは死角になる席に美汐は座っていた。  声はかすかに聞こえる程度だったが、美汐がそう言ったのは祐一には分かっていた。 「みし――」  祐一が美汐の名を言おうとしたときには美汐は立ち上がって外套を着ていた。  そして半ば逃げるようにレジに向かう。  ドアから外に出る時、一瞬美汐の顔が祐一に向く。  そこに浮かぶ瞳は悲しみの色を深くたたえていた。 「……」 「祐一、どうしたの?」  名雪の問に祐一は何も答える事ができなかった。  家に帰った後も祐一はずっと美汐の事を考えていた。  真琴がいなくなってからの三年間。  美汐と過ごした日々を思い返してみる。  そして最後には今日のあの顔に帰結した。 「美汐……」  祐一はその名を呟く。  自分の大切な何かを繋ぎ止める最後の物であるかのように。  必死で、しがみつく。 「コンコン」  珍しいノックの音が聞こえる。 「コンコン」 「名雪。今は一人になりたいんだ」 「駄目だよ」  部屋のドアがゆっくりと開いて名雪が顔を出した。  その姿がパジャマ姿だった事に、祐一はかなり時間が経っていたんだという事を認識する。 「祐一、話して」  名雪が言いたい事はそれだけで分かった。  いつものいとこと明らかに違う強引さに祐一はたじろぎ、反発してしまう。 「これは俺のプライバシーだぞ? あまり他人に踏み込んでもらいたく………」 「話して」  祐一は言葉を飲み込んで名雪の瞳を見ていた。  その瞳は昼間、美汐が見せたものと酷似していた。 「……心配して何が悪いの?」  名雪がいつになく厳しい――世間一般ではまだ緩んでいたが――顔で覗き込んでくる。  何か抗えない物を祐一は感じた。 「分かった」  祐一は遂に観念して全てを話した。  美汐という少女と真琴のつながりでいつのまにか付き合っていた事。  久しぶりに会った時、真琴の鈴の音が聞こえてきた事。  それによって自分が真琴の事を忘れかけていると気づいた事。  不安に押しつぶされそうになって、美汐に逃げようとした事。  祐一の説明はうまくまとめる事ができなくて、結局最初から話すことになった。  それでも名雪は根気よく祐一の説明に付き合う。  やがて話が終わると名雪は言った。 「多分、美汐ちゃんは祐一が好きなんだよ」 「……どうしてそう思う?」  名雪は微笑んで言葉を返した。 「祐一の視点が、そう思い込んでなくて今の話になるなら、多分美汐ちゃんは祐一の事が好きだよ」  祐一は考え込む。  名雪はふふふ、と笑った。 「半分は女の勘ってやつだよ」  そのまま立ち上がって入り口まで進む。  一度そこで名雪は振り返った。 「後は祐一の気持ちだけ」 「俺の気持ち……」 「自分の心に正直になって、静かに見直してみなよ」  名雪は自分の胸に手をやった。そして瞳を閉じる。 「そうしたら、本当の想いが見えるはずだよ」  瞳を開けた名雪がその一瞬、祐一にはやけに綺麗に見えた。  思わず訊いてみる。 「お前には……そういう相手がいるのか?」 「私?」  名雪は微妙な笑い顔で返した。 「いたよ。でも、ふられちゃった」  ドアを開けて部屋の外に出て行く。 「おやすみ、祐一」 「ああ、おやすみ」  ドアがゆっくりと閉まった。祐一はしばらく何もしなかった後にベッドに倒れこんだ。 「俺の、本当の想い……」  祐一の意識はそのまま闇に飲まれていった。  街が一目で見渡せる。  風になびく草がなんとなく綺麗で、雰囲気が落ち着く。 (ここは……ものみの丘、か)  祐一にはこれが夢だと分かっていた。  自分は宙に浮いていて、下には丘に立っている二人の人が見えたからだ。 『ここに来るのも、久しぶりです』 『天野は、まだ辛いのか?』  今よりも少しだけ若い祐一と美汐。  まだ、付き合うといった関係になる前だ。 『ええ。でも相沢さんも辛いのですから、私だけ辛いとは言ってはいられないでしょう?』 『無理はしなくていいんだけどな』  二人は丘を歩いて行く。やがて一番見晴らしのいい所へと着くと二人は腰をおろした。 『あの子は幸せだったでしょうね』  美汐が唐突に言ってきた。祐一は無言のまま。 『あの子は相沢さんの心と一つになった。永遠の伴侶として』 『天野は相変わらず歳より臭いぞ』 『照れ隠しが下手ですね』  二人はしばらくお互いを見やってから笑った。  子供のように、無邪気に笑った。  笑いが去ってから美汐がまた言う。 『私も、いつかそういう人を見つけられるでしょうか』 『天野は可愛いからな。きっとすぐ見つかるさ』  美汐が頬を染めてありがとうございます、と呟いた。  その様子に思わず祐一はどきっ、とする。  祐一は照れを隠すのに街を見渡した。  日だまりの街はいつものようにそこに広がっていた。  次から次と甦る思い出。  時には真琴と過ごした思い出。そして美汐と過ごした思い出。  さまざまな思い出が祐一を通り過ぎていく。 (そう、か……分かってきたよ)  ちりん――。  あの鈴の音が聞こえる。 (俺の、本当の想い)  ちりん――。  その音は柔らかく、祐一の心を包んでいった。 (俺の、本当の想いは……!)  ちりん。  鈴が、一際大きな音を立てた。  祐一はふっ、と眼を開けた。  すでにカーテンの隙間からは日が差している。  時計を見ると既に午後三時を回っていた。  不自然な寝方をしたために体の節々が痛い。  それでもなんとか体を起こし、背伸びをする。  だるさはあったが、久しぶりにすがすがしい目覚めだった。 「よし」  祐一は立ち上がった。  軽く食事をした後、祐一は家を出た。  向かうべき場所はただ一つ。  美汐も家を出る前に電話をした。 『これからあの場所に来て欲しい』 『あの場所……?』 『俺達の、始まりの場所』  美汐なら、俺達ならあの言葉で分かるはずだ。  祐一はそう確信していた。  そう。あそこは俺達の始まりの場所なのだ。  祐一は真っ直ぐにその場所に向かっていた。  遠くにあるそこを視界に収める。  その場所、ものみの丘を。  ちりん、ちりん、ちりん――。  ものみの丘に近づくと共に鈴の音が大きくなっていった。  祐一はごく自然な気持ちでその現象を受け止める。  確信していた。  そこに、自分が会いたかった相手がいる。  それは既に祐一の目の前に現れていたのだ。  だが、祐一は自分の本当の想いを見失っていた。  自分の心をしっかりと見つめる事ができなかった。  しかし、今なら見える。  しっかりと。  その、輝かしい光が。 「真琴」  愛しいその名を呟く。  真琴は、そこにいた。 「ゆういち……」  夕暮れの太陽の光に照らされて、黄金色に輝いた草むらの中に少女は立っていた。  三年前に別れた、あの時と同じ姿で。 「真琴!」  祐一は真琴を抱きしめた。  確かな温もりが祐一の手の中にある。  祐一は涙を流しながら、力いっぱい真琴を抱いた。 「ゆういちの想い……伝わってくる」  真琴はくすぐったそうに体を揺らしながら、顔を幸せそうに緩ませて言った。 「あの時、確かめきれなかった想いが、全部伝わってくる。ゆういち。ありがとう」 「真琴……。俺も、ありがとうだよ」  祐一は体を離して真琴を正面から見つめた。 「お前の笑顔。思い出した」  真琴は満面の笑みを浮かべている。そして、そのままの表情で言ってきた。 「でも、もう奇蹟は終わり。真琴はもう消えるよ」 「……ああ」  全てが分かっているわけでもないのに、祐一はさほど驚かなかった。  この、今の瞬間は、全ての事をすんなりと受け止める事ができる。 「真琴、会えて嬉しかったよ」 「俺もだ」  二人は再び抱き合う。  真琴はくぐもった声で祐一に囁いた。 「美汐をよろしくね」 「もちろんだ」  祐一も即、言葉を返す。  祐一が見つけた答え。真実の想いは――。 「俺は、美汐が好きなんだ.お前と同じくらい」 「……思い出を、ありがとう。祐一」  真琴の体が次第に質量を失っていく。祐一は自分の中に真琴の意志が入ってくるのを感じた。 《真琴はずっと、祐一と一緒だよ》 (ずっと、一緒だ) 《いつまでも……》 (俺達は! ずっと一緒だ!!)  光が満ちる。  全てが終わる。  ちりん。  鈴の音が、最後の音を立てた。  祐一が眼を開けたときには真琴の姿はなかった。  後ろを向いてみる。  美汐が涙を流しながら立っていた。 「あの子は……幸せでしたね」 「ああ」  祐一は美汐の傍まで歩くとその瞳をじっと見つめた。 「俺は、美汐といた時間は本当に楽しかった。これからも……俺は美汐といたい」  美汐はしばらく黙っていたが、やがて祐一に抱きつく。 「私は……最初から、祐一さんが好きでした」 「……これから、二人で、一緒にいよう」  祐一も美汐の体を抱く。  美汐は否定するように首を左右に振ってから顔を上げた。 「違います。真琴と私と、祐一さんと三人で、です」 「……」  二人の顔がやがて一つに重なる。  二人を照らす夕焼けは、惜しげもなくその赤を強調していた。  金色の草むら。風が、草を撫でる。  風はこの地に起きた奇蹟の欠片をどこまでも運んでいくだろう。  風の辿り着く場所を探しながら。  どこまでも、どこまでも。  いつか時が流れても。  〜Fin〜
 あとがき  久しぶりに書いた手応えがありましたよ。  どうも、紅月赤哉でし。  キャラクターとしてはさほど僕の中では……なんですが、  ストーリーはやはり一番感動しますね。  これを書いて正解でした。  では、またいつか。