『恋はいつだって唐突だ』  祐一は、今は主のいない部屋で、何度も繰り返し読んだ本を読んでいた。  繰り返される物語。幾つもの波乱を乗り越えて、最後に約束する二人。 『分かった。絶対に迎えに来るから』 『そのときは二人で一緒になろう。結婚しよう』 『そのときまで……』  パタン。  祐一は本を閉じた。  どうしても、最後の台詞が言えなかった。 「もう、三年か」  祐一はぼんやりと呟く。  季節は三度春を迎え、雪の季節は終わっていた。 「もう、三年なんだぞ。真琴……」  祐一の目に涙が浮かぶ。  心の中の何かが崩れていくような気がしていた。  Kanon another story  『いつか時が流れても』(前編)  空。  空は蒼かった。  どこまでも空は蒼く、雲一つない良い天気だった。  春の日差しは微妙な温かさで体を包み、祐一は駅前のベンチに座ったまままどろんでいた。 (……)  夢はいつも見る夢だった。  目の前に立つ一人の少女。  快活で、小憎らしくて。  でも、一緒にいてとても楽しい人。  しかし祐一が手を差し出したらその姿が瞬時に掻き消える。  残るのは一つの鈴だけ。 (真琴―っ!!!)  祐一は叫ぶ。  しかしその叫びは暗闇に呑みこまれ、自分も徐々に消えていく。 「――――――さん」 「―――、一さん」 「祐一さん」 「……」  祐一は揺すられる感覚に意識が覚醒する。  眼を開けると眩しい日差しが入ってきて一瞬眼を閉じるが、すぐに開く。  次第に焦点が合ってくる瞳に映ったのは少女の姿。 「目が覚めましたか? 祐一さん」 「ああ。……美汐」  祐一は少女――天野美汐に笑いかけた。すると美汐は顔を赤らめて俯いてしまう。 「どうした?」 「笑顔が……」  それっきり美汐は黙ってしまう。祐一は少々の居心地の悪さを覚えたが気を取り直して立ち上がった。 「さて……久しぶりのデートだ。存分に楽しもうぜ」 「そう言われると恥ずかしいです」  美汐はそう言いつつ祐一の手を握った。  二人はベンチから離れて歩き出す。 「今、見てみたい映画があるんだ。それ見てもいいだろ?」 「久しぶりですから、最後まで付き合いますよ」  美汐がそう言って浮かべた笑顔に祐一は思わずどきっ、とした。 (久しぶりに会うと、かなり可愛くなったな。やっぱ大学生となると……)  チリン…… 「!?」  祐一は突然周りを見渡した。美汐はそんな祐一を不思議そうな顔で見ている。 「今、何か聞こえなかったか?」  祐一は焦って美汐に訊くが、美汐は何も、と言って首を振るだけだった。 (今の……?)  祐一も何の音かまでは分からなかった。  しかし祐一にはひどく懐かしい音に感じられた。 「んー、なんでもない。ごめん」  祐一は再び目的地に向けて歩き出した。 (いつからだったかな。美汐とこんな関係になったのは)  祐一は映画を見ながらそんな事をぼんやりと考えていた。  自分にとって最愛の人――真琴がいなくなってから、祐一と美汐は前にもまして会う機会が増えた。  同じような別れを経験した二人だから、普通の友人以上に親しくなるのは意外とすぐだった。  しかし、祐一は考える。 (俺らはお互い好きだとも言ってないのに、恋人同士なんて言えないだろう)  隣を見る。  暗闇にスクリーンの光で浮かびあがった美汐の顔は最初に会った時よりも本当に可愛くなった。  それは自分とこういうふうにデートらしき事をするようになってから特に顕著に表れたと思う。  しかしこれは『ごっこ』だ。  祐一の心には美汐でない、別の女性がいる。  美汐もそれを分かっていて今の関係を受け入れている。  美汐の本当の気持ちを祐一は訊いた事はない。  しかし今のままでは美汐を傷つけているのでは、と思うようになった。  それは美汐の大学受験の関係でしばらく会わなかった時間で考えた事だった。 (俺は……もう、疲れたのか?)  待つ事に。  いつか、自分の下へと真琴が帰ってきてくれると信じる事ができなくなっているのか。 (真琴……)  祐一は瞳が潤むのを抑えることができなかった。 「祐一さん。泣くほど感動したんですか?」 「そんなことはないぞ」  映画の後、祐一と美汐はファーストフード店で昼食を取っていた。 「確かに最後のシーンはある意味感動的でしたが、あの映画ではあまり意味がありません」 「まあ、あれだけ暴力的なシーンをやってきたなら最後まで通してほしかったな」  祐一は涙の訳を詮索されないうちに美汐の話に乗る事にした。  結局、そのまま映画の評論に話は移り、涙の件はあやふやになった。 「……じゃあ、もうそろそろ行くか」 「次は私に付き合ってもらいます」 「オッケー。それじゃ……」  話も一段落し、祐一は席を立とうとした。  チリンッ……。 「!?」  また、何かの音が聞こえた。  今度はさっきよりもはっきりと。  もう久しく聞いていなかった、鈴の音。 「どうしました?」  美汐が祐一を見つめてくる。  祐一は今の音の事を美汐に言おうと思った。  しかし、思いとどまる。 (空耳かもしれない。別に美汐に絶対話さなければいけない事じゃない) 「なんでもない。行こう」 「……ええ」  祐一は極力平静を装って美汐を連れて店内から出た。  チリン……  二人が座っていた場所に、また音が響いた。  それから二人は商店街を散策した。  美汐が祐一に付き合ってといって連れてきたのは服屋だった。 「今の服も十分可愛いと思うけどな」 「そんな恥ずかしい事を平気で言えるなんて祐一さんらしいですね」  ちりん……  服を十分物色した後はゲームセンター。  クレーンゲームやエアホッケー。  得意の格闘ゲームで美汐に祐一はいい所を見せようとする。 「おおし! この人形、美汐にあげるよ」  祐一が差し出したのはアリクイの人形だった。 「……そんな酷な事はないでしょう」  美汐は心底嫌そうだった。  ちりん…… 「この映画、私が前から見たかったんですよ」 「最初に続けてみればよかったのに」 「続けて見ては、疲れてしまいます」  時刻は夕方。  二人は再び映画館にいた。  朝に見た映画とは違う映画。  今度は美汐の希望だった。  ちりん…… (間違いない。これは鈴の音だ)  祐一は行く先々で聞こえる音が鈴の音だと確信した。 (真琴がつけていた鈴と同じ音……)  祐一は自分が、その音が真琴の鈴と知った時に抱いた感情が信じられなかった。  鈴の音だと確信した時、祐一は少し残念だと感じてしまったのだ。 (俺は真琴が帰ってくる事を喜んではいないの、か……?)  映画を見ている最中、ずっと祐一は思考のループを回りつづけていた。 (嬉しいはずだ。待ち望んでいた事じゃないか。まだ決まったわけじゃないけど、俺には分かる。  真琴はもう少しで帰ってくるはずだ)  祐一は美汐に気づかれないように顔を見た。 (真琴が帰ってきたら……この時間は終わるって事なのか、な)  美汐は目に判るほど大粒の涙を流していた。  よほど感動する映画らしい。  自分は考え事をしていたから内容など全くわからないが。 (俺は真琴が……好きなんだ。あいつの笑顔がまた見たくて……)  祐一はそこではっとする。  真琴と過ごした日々。  いろいろ悪戯された事。  心を通わせて、仲良く暮らした事。  消滅の時が近づいて、皆で外食した事、プリクラを撮った事。  ものみの丘での結婚式の事。  真琴と過ごした日々は祐一の記憶の大半を占めていた。  しかし、祐一は気づいた。  その中の、真琴の顔を思い出せなくなっている事に。 (あいつの笑い顔は、どんな顔だった!?)  思い出せない。  大切な人の笑顔。  三年という歳月は、記憶を色あせさせるには十分だったのか。 「ま、真琴……」  祐一は情けなくて涙が出た。最愛の人を忘れていく。  表情の次は何だろう?  いずれにせよ、いつか忘れてしまう。  それは、あまりにも辛すぎた。 (鈴の音は幻聴だったのかもしれない。俺が真琴に会いたい気持ちが作り出したものかも)  祐一が選んだ選択は……逃げる事だった。  思い込む事で、自分が抱いている苦しみから逃れようとした。  そう思い込もうとしている祐一の耳には、あの鈴の音が聞こえていた。 「今日は久しぶりに楽しんだな」 「ええ」  映画が終わった後はもうあたりは暗く、今日のデートはここまでと言う事になった。  祐一は美汐を家の前まで送り届けた。 「春休みが終わったら、一緒に大学通えるな」 「ええ」 「……」  帰り道から美汐はそんな感じだった。  心ここにあらずといったような感じ。  そんなやり取りを繰り返して美汐の家の前に着く。 「それじゃあ、な」 「……祐一さん」  祐一が帰ろうと方向を変えた時、美汐から声がかかってきた。  振り返ると美汐の寂しそうな顔が目に入ってくる。 「祐一さん。どうして、真琴を否定するのですか?」 「どういうことだ?」  祐一は極力冷静に問い返す。 「今日の祐一さんはいつも以上に嬉しそうで……何かを吹っ切るように」 「久しぶりに会えたんだ。嬉しいに決まってるだろう」 「違います」  美汐ははっきりと否定した。祐一は思わずたじろぐ。 「祐一さんは、待つことに疲れています」  思っていた事を鋭く抉られて、祐一は遂に顔を歪めた。 「……そうだ、よ。俺は疲れてる」  嘆息し、肩の力を抜く。 「もう、待つ事は限界なのかもしれない。俺は……」  祐一は少し躊躇った後、居住まいを正して言った。 「俺は、美汐に惹かれている」  逃げだ。これは逃げだ。  辛い現実から逃げて、今ある仮初めの温もりへと自分を無理矢理誘おうとしている。 「え……?」  美汐は驚いたように祐一を見返す。 「美汐はどう思ってるんだ? 俺の事。同情して付き合ってくれていたのか?  本当の気持ちは何処にあるんだ?」  祐一はまくしたてる。  心の拠り所が揺らいでいる今、何か新たな場所を見つけなければ自分は駄目になる。  そんな危機感が祐一の口を動かしていた。 「わ、私は……」  祐一は口ごもる美汐に近づいていって腕を取った。 「な、何を……!?」  言葉を喋ろうとする美汐の口を祐一は自分の口で塞いだ。  パンッ  頭の中に乾いた音が響く。  やがて頬が熱い痛みを運んできた。 「感情で……行動しないで下さい」  美汐は泣いていた。  感動の涙ではない。  悲しみの涙を絶え間なくこぼしていた。 「あなたは! 逃げているだけです!!」  泣き叫んで、美汐は家へと入っていった。  祐一は呆然とそこに佇む。  熱を持った頬に手をやりながら呟いた。 「最低だな。俺は」  ちりん――ちりん――  はっきりと聞こえる鈴の音。  今の祐一には、その音は届いていなかった。  大事な事を忘れかけている祐一に耳には。  春先の夜風は微妙に寒く、祐一の体を冷たく冷やしていく。  このまま、心も凍ってしまえば……。  祐一はそう、思った。  続く
 あとがき  真琴シナリオを一回しかやってないのに書くのはどうかとおもう紅月赤哉です。  真琴SSは全く読んだ事がないのでこんなSSは、もうあるかもしれないんですが、  まあそうだったら知らなかったのでご容赦を。  SS内の映画は趣味です。何のやつか分かるかな?  後編はより気合入れてかくぞ〜