それは数日前にさかのぼる。 「今日も冷えるわね」  水瀬秋子は窓の外を見て溜息をついた。  左手を頬に持ってくるいつものポーズだ。 「水道管、凍らなければいいけど……」  その呟きは秋子以外誰もいない部屋の中に拡散していった。 (やはりこの家には一人だと寂しいですね)  そんな事を思いつつ、秋子は呟き通りに水道管が凍結していないかを調べに行った。  居間を通り過ぎる時につけっ放しだったテレビから天気予報が流れてきている。  予報は今年最大の寒さがこの地に訪れる事を伝えていた。 「名雪、早くしろよ」 「もう少し〜」  俺はいとこ――もう少女って歳じゃないな――の水瀬名雪に言って部屋の外に出た。  マンションの廊下の縁に寄りかかって見る街並みは、名雪と共に過ごした高校時代のものとは違っている。  都会だけあって雪が少ない。  冷え込みはするが、ここには冬特有の雪が本当に少なかった。  そんな景色にもう慣れたんだなぁ  俺はそれこそが、俺達が一年間大学生活を営んできた証だと考えて感慨深い気持ちになる。  もうすぐ一年なんだな。名雪と同棲しながら大学に通うのも。 「おまたせ〜」  ようやく名雪が支度を済ましてドアを開けて出てきた。  その姿を見て俺は思わず訊いていた。 「名雪、その格好……」 「祐一聞いてないの? もうすぐ最大の寒波っていうのが来るんだって」 「最大の……カンパ?」  かんぱ、と言えばやはり寒波だろう。  どうやら里帰りは寒くなりそうだ。そして最大と言うからには今まで俺が体験した事がないものが。  加えてこの名雪の格好……。 「マジ、か?」  名雪は俺よりも寒さに対する耐性がある。  流石18年間寒い地帯に住んでいただけのことはある。  その名雪がこんないつもよりも1,5倍は大きくなってるなんて。  それは俺にとって戦慄を感じさせるに十分だった。 「俺も、もう少し着てくる」  俺は再び部屋の中に入った。 「早くしてね〜」  名雪の呑気な声が後ろから聞こえた。  それはある日の物語  ある不思議な、そして素敵な物語。  そして、俺にとって最高の思い出。  〜Kanon another story〜        『真冬の花火』 「ただいま〜」  名雪が多少翳(かげ)りが残ってはいるが、元気に帰宅の挨拶を玄関に響かせた。 「おかえりなさい」  名雪の声に反応して秋子さんがすぐに玄関先に姿を現す。 「おかあさん、寂しかったでしょう?」 「ええ、また楽しい話を聞かせてね」 「うん!」  そのやりとりを俺はじっと見ていた。  俺は少しも動かない。いや、動けなかった。 「……」 「あの、祐一さん大丈夫ですか? 顔色がすぐれないようですけど」 「……さ、さむ……」  俺の唇は完全に寒さに負けていた。 「祐一、あんまり寒くて駅から出たら動かなくなっちゃったんだよ。だから私が何とか連れてきたの」 「あらあら、じゃあ早く暖まらないといけませんね」 「お、ね、が、い、し、……」  最後まで言えなかった。  俺は十分に暖められた居間でストーブに自分の体を近づけていた。  暖気に当てられた部分がチクチクと痛み出す。  血が急激に通っている証拠だ。 「祐一さん。コーヒーいかがですか?」 「ありがとうございます、秋子さん」  秋子さんは俺をいつでも本当の家族のように扱ってくれる。  それが俺には嬉しい。  俺は差し出されたコーヒーを受け取り、早速口に入れた。  口の中に広がる味はやはりいつも飲んでいるものよりもおいしい。  食卓ではテーブルを挟んで名雪と秋子さんが話をしていた。 「テスト、どう?」 「うん。香里や祐一がいるから何とかなっているよ」 「そう? ちゃんと起きれているの?」 「う〜、お母さんの意地悪」  ……  本当に仲のいい親子だ。  見ていて本当に微笑ましい。  名雪の笑顔は本当に可愛くて――俺の心に一抹の不安を残していく。  秋子さんに対する名雪の思いは本物だ。  以前、秋子さんが事故にあった時、名雪は自分の殻に閉じこもってしまった。  もう誰も頼れない。自分には誰もいない。そこまで自分を追い込んでしまったほどだ。  その時は、俺は本気で名雪を支えていくと言い、名雪もその言葉を信じてくれた。  しかし今は俺のほうが自信を無くしかけてる。  この不安が何処から来るのかは分かっていた。だからこそ、どうしようもなかった。  食事を終えると今度は本格的に秋子さんと俺と名雪の会話が始まる。  基本的に名雪が言って、俺がつっこむといった形のものだ。  名雪と俺が大学に通うためにこの家を出なければいけないとなった時、一番反対したのは名雪だった。 「お母さんを一人にしたくないよ」  その時の名雪は猫を前にした時と同じように頑固な一面を見せた。  結局秋子さん自身が名雪を説得し、俺と一緒に住むという条件で一人暮らしを了承した。  そんな経緯があるから、名雪は休みが来るたびにこの家へと帰ってくる。  今年の冬休み、新年は同じ大学に行った北川や香里と共に小旅行をしていたために帰ることができなかった。  初日の出さえ、地元で見てないのだ。  だからこのテスト期間休みを利用してここに帰ってきている。  大学の事、香里達と行った旅行の事、新年明けてからのこと、期末テストの事。  様々な話題を秋子さんは笑顔を浮かべて聞き、そして反応してくれる。  本当にいい母親だな。  俺は不意に秋子さんに自分の母親を重ね合わせる。  すでに秋子さんは俺の母親以上の存在だった、  外国に行っているために年に数回しか会わない両親よりもこの人は俺の親だった。  この家もそうだ。  この家はすでにいとこの少女だけが帰る場所ではなかった。  俺が帰ってくる場所は、ここしかない。ない、はずだ……。  また俺の心に不安が広がっていく。  俺は名雪と秋子さんとの会話に何とか内心を隠しつつ入っていった。  時間はあっという間に過ぎ、夜になる。  俺は風呂上りの状態で入浴前に十分に暖めておいた自分の部屋のベッドに寝転んだ。 「今日は疲れたな」  おそらく寒さのせいもあるだろう。そして、気を使ったせいも。  時刻は午前零時を回ったところだ。 「そう言えば、もうバレンタインデーだっけ」  俺は壁にかけられたカレンダーを眺めて呟いた。  去年か一昨年、確か酷い目にあったな。  寒い中歩かされて結局骨折り損で。  名雪にチョコは貰えたけど後で秋子さんに……。  どうもそこらへんの記憶が曖昧だな。 「もう寝るか」  俺はだるい体に気合を入れるように一言呟くと何とか上体を起こしで布団に潜り込んだ。  するとすぐに眠気は襲ってきた。  俺の意識は徐々に消えていった。  名雪は机に本を広げながら寝ぼけ眼を必死に開いていた。 「今年は、大事な日にしたい」  名雪は自分の部屋にあるカレンダーを眺める。  2月14日。  次の日――正確にはすでに今日――の所に赤く丸をつけている。  バレンタインデー。  世間一般ではそう呼ばれる日。 「ふう……」  名雪は溜息をついて椅子から立ち上がり、窓の外を見た。  眠気を少しでも覚まそうというのか背伸びなど体操をする。  そうしている名雪の姿が急に止まる。  しばらくの硬直の後、名雪は顔に今まで以上の笑みを浮かべた。 「これだよ〜」  名雪は本当に嬉しそうに笑っていた。  次の日。  俺は夜道を名雪に連れられて歩いていた。  ――寒い。桁外れに寒い。 「ななな、なゆ、き……」 「何? 祐一」  名雪に問いかけようとして自分が何故ここにいることさえも一瞬忘れた。  寒くて思考が完全に回ってない。  それもそのはずだ。確か俺が出る前に見た天気予報は、今夜が最大の冷え込みだと告げていた。  どうしてそんな中、しかも夜に俺は外に連れ出されているんだ?  そう言葉にしようとしたが唇が動いてはくれなかった。  歩く事に全神経を集中しなければその場から動けなくなりそうだ。 「行けば分かるよ」  名雪は俺の心中を察したかのように俺へと言ってくる。  その顔には寒さのために赤味が差している。  俺を引っ張っている手が微かだが震えていた。  名雪も十分に寒いんだ。  そんな中、俺を連れてどこかへ行こうとしている。  俺はもう何も言わない事にした。実際には言えてはいなかったが。  しばらく歩いて名雪が俺の手を離した。 「ここ、だよ」  俺はそこを見渡す。  何の変哲もない公園だ。  中央に今は使われていない噴水があり、公園の周囲を囲むように街灯が輝いている。 「こ、ここか」  何とか少しだけ寒さに慣れたために言葉が出る。 「ここ」  名雪は、笑っていた。  俺はその笑顔に冷たい夜気の中で頬が熱くなってくるのを感じる。  ふと、名雪が上を指差した。 「……?」  俺はつられて上を見る。そして、感嘆した。 「……すげぇ」  空。  雲一つない空には星々が煌(きらめ)いている。  しかしそんな事よりも、俺へと降り注いでくる光の粒のほうが重要だった。  空いっぱいに広がった光の粒が地面へと降り注いでくるのだ。  それはまるで、冬に打ち上げられた花火が空に咲くように――。 「ダイアモンド・ダストだよ」  名雪の声が聞こえてくるが、俺はそれが作り出す幻想的な光景に眼を奪われたままだ。 「よく分からないけど、すごく寒いとこんな事が起こるんだって」  俺は名雪のほうへと顔を向けた。  いつのまにか俺のすぐ傍に、チョコを差し出してきている名雪がいた。 「私、知ってたよ。祐一が私とお母さんを見て、時々寂しそうにしてる事」 「……」  そう、か。名雪は気づいてたんだな。  俺の心の奥底にあった、思い。  相次ぐ転勤で友達とすぐに別れなければいけない事。  そんな父親だからあまりかまってもらえなかった事。  親を心配させたくないから大人びていかなくてはならなかった事。  俺は寂しかったのだ。  自分の本当の思いを押し込めて、大人にならなくてはならなかった事に。  だから、自分が本当の思いを伝えた相手に必要とされない事が怖かったんだ。  秋子さんという人がいれば、俺は必要なくなるんじゃないかと考えてしまった。 「私は、言ったよね」  名雪の言葉に俺はあの冬の日を思い出す。  全てを拒絶した名雪。  そしてひたすら待ちつづけた自分。 「一人じゃ笑えない。祐一に頼っていい? って」 「……言ったな」  名雪が俺に近寄ってきてチョコを手渡した。 「大丈夫だよ。祐一の居場所はここにある。私は、祐一がいなきゃ駄目だよ」  その時の名雪の笑顔を俺は一生忘れないだろう。  俺には、その笑顔は名雪の今までの思いが全て込められていたように感じた。  手渡されたチョコを俺は手袋を外してラッピングを外した。  手に夜気がしみるが細かい事は気にしない。  名雪が少し驚いた顔で俺を見ている間に俺はチョコを食べ終えていた。 「おいしい」  俺は言う。俺の、全ての思いを込めて。 「今までで、一番、おいしい」 「祐一……」  名雪が俺に肩を寄せた。  俺も名雪の肩に手を回し、その場に立ちつくす。 「「しばらく、このままで」」  降り注ぐ光の粒を見ながら俺たちはただ、立っているだけだった。  今はただ、自然が起こした一つの奇跡を見続けていたかった。  俺達を包むように降り注ぐ光の粒は、俺達を祝福してくれるかのようにいつまでも降り注いでいた。 「名雪」 「何?」 「俺はどんなときでも、お前の傍にいる」 「……うん」 「俺は、名雪の事……」 「……」 「名雪の事、本当に、好きだから」 「――うんっ!」  それはある日の物語。  幾つかの偶然が呼んだ、不思議で、素敵な物語。  そして俺は、最高の思い出を手に入れた。  それは一つの奇跡の上に―― 『真冬の花火』 closed
 あとがき  どうも、紅月赤哉です。  やはりギャグよりもこちらのほうが落ち着くと言うかなんと言うか。  名雪に集中するために他のキャラは抜かしました。  ちなみにダイアモンド・ダストには突っ込みを入れないで下さい(謝)  あと『冬の花火』という曲があることを知ったのはこれを書き始めてからなので偶然です。  書きたかったのは見て分かりそうですが祐一の内面です。  自分なりの考えなので違う! と思う人は広い眼で見てください。  こういう解釈の仕方もあるんだな、と。  今度は栞にでも挑戦するかな、ではではまた来世〜。                            作者・紅月赤哉