もう一人の自分。

 それはけして妄想なんかじゃなかった。

 あの夏、経験した事。

 住人さんと出会って始まったあの夏。

 もう一人の自分の悲しみ。苦しみ。

 わたしは辛かった。

 でも、住人さんのおかげで全てを受け入れられた。

 住人さんのおかげで、わたしは幸せを手に入れる事ができた。

『家族』を、手に入れる事ができた。

 そしてまた夏がやってくる……。







「……寝起き最悪や」

 神尾晴子は寝癖がついたまま台所に立った。

 積みあがった皿。

 生活を正しくして、保育園で働き出して一年。

 仕事は板についてきたが家事は相変わらずだった。

「しっかし、なんの夢だったんかいな〜。何か懐かしいような……」

 確かにいい夢だったはずだ。

 しかしどうにも内容を思い出す事はできない。

 更に何か違和感がある事も晴子の気分がすぐれない原因だった。

「何か忘れてる……、そうや!」

 晴子はようやく合点がいったのか台所から走って洗面所に行く。

 荒々しく髪を洗って整え、急いで戻る。

 服に着替えて向かったのは仏壇だった。

「なんで忘れ取ったんだろな……。今日はあの娘の命日やのに」

 仏壇には一枚の写真。

 手を突き出してピースサインを作っている少女の写真。

 他にも写真はあったがこの写真が一番この娘らしいと言って飾った物だった。

「もう一年経ったんやな……観鈴」

 悲しげに、静かに晴子はその名前を呟いた。







 AIR オリジナルSS

『鳥の詩』







「それにしても、今日は暇やなぁ」

 晴子は供え物を仏壇に置くと居間に寝転んでテレビをつけた。

 保育園も夏休みに入り、子供達は各家庭で親と戯れているんだろう。

「何か退屈しない事はないかいな……っと?」

 晴子はテレビから庭に視線を移した時、何かいつもと違う物を発見した。

 立ち上がって縁側に出る。

 庭には確かにその場には異質な物がいた。

「あんた、怪我してんのか?」

 晴子は『それ』を抱き上げた。

『それ』はじっとしていて抵抗する気配は無い。

「いやに慣れとるな。大した怪我じゃないみたいやし、うちが手当てしたるわ」

 晴子は『それ』を抱えたまま部屋に入った。

 テーブルの上に置いて救急箱を取ってくる。

 その間、『それ』はじっと晴子を見ていた。

「なんや。ほんまにけったいな鳩やな」

『それ』――白い鳩はその言葉に反応したように鳴いた。

「まあ、まっとれ。今すぐ手当てしたるさかい」

 慣れた手つきで翼に包帯を巻く。

「手馴れたもんやろ。保育園の子供等は毎日元気にはしゃぎまくって怪我しよるんや」

 鳩は再び鳴いた。

「お前、うちの言葉が分かるみたいやな。不思議なやっちゃ」

 やがて手当てが終わると晴子は言った。

「まあ、明日になれば治っとるやろ。それまで大人しくしてや」

 鳩はテーブルの上に腰を落ち着けた。その様子が人間臭い。

「本当に不思議や。まるで……『そら』みたいや。お前も名前をつけたるかいな」

 以前、観鈴が飼ってた烏を引き合いに出して笑う。

 烏と鳩を比べるなんてこの鳩に失礼だと思ったのだろう。

「……よし。お前の名前は『つばさ』や。怪我が治るまでうちの娘や。雄か雌かは知らんけどな」

 晴子の言葉に同意したように鳩が――『つばさ』が鳴いた。





 観鈴が死んで一年。

 晴子は観鈴の部屋をそのままにしていた。

 正確に言うと、中に入れなかったのだ。

 主のいない部屋。それは晴子に観鈴の喪失を深く思い起こさせたから。

 観鈴は自分の腕の中で生涯を終えたのだ。

 観鈴の実の父親には立ち直ったと言ってはいたが、まだまだ自分は縛られている。

 晴子はそれを断ち切るために、観鈴の部屋に入ることを自らに禁じた。

 しかし今、晴子は観鈴の部屋にいる。

 一年と言う歳月は主無き部屋の、人がいない空気というのを嫌がおうでも晴子に思い知らせた。

 床に、本棚に、ベッドに積もった埃。

(どうして使ってないのにここまで汚れるんやろな)

 晴子はそんな事を思いつつ探し物を見つける。

 それを手にとって階下に降りた。相変わらずテーブルに乗ったままの『つばさ』に話し掛ける。

「ほれ、『つばさ』。怪獣や」

 晴子は観鈴が大事にしていた怪獣のぬいぐるみを部屋から持ってきたのだ。

(なんやろな? 今まで入るのが辛かったのに。一年も経つと慣れてしまったんやろか)

 そう考えて何となく悲しい気持ちになる。

 しかし同時に気づいた。

 自分は逃げていたのだと。

 観鈴の死を、認めながらも正視する事を避けたのだ。

 立ち直ったと言って保育園に勤めて、でもそれは逃避だった。

 一年が経ったのだ。

 これ以上逃げていてはいけない。

「……『つばさ』。怪獣と遊んでてや」

 そう言って晴子は観鈴の部屋へと戻っていった。

 手には掃除機を持って。

「さあ、始めるとするかい」

 勢いよく部屋に入ってカーテンを開く。

 一年ぶりに差し込まれた陽光は予想以上に汚れていた床を浮き彫りにする。

「ごめんなぁ、観鈴。今から綺麗にするから」

 晴子は掃除機のスイッチを入れた。





 なんだろう?

 わたしは何を忘れてるんだろう?

 手当てしてくれたおんなのひとは、おおきななにかを置いてどこかに行ってしまった。

 目の前のおおきなものを突いてみる。

 不思議な形だ。

 そして、何か懐かしい。

 また突いた。

 それはごろんと転がった。

 わたしは歩いていって反対側から突いてみる。

 反応は無い。

 どうやら生き物ではないらしい。

 じゃあ、何なのか?

(怪獣)

 何処かで声がした。

 怪獣。

 これは怪獣だ。

 意味は何故か理解できた。

 怪獣。怪獣。

 ……なつかしい。

 わたしは何度も突いた。その度に懐かしい。

 この気持ちは何だろう?

 無性に心の中がかき乱される。

 ……帰って来た。

 何故かそう思った。





「ふう。埃はこれで全部取れたな」

 ベッドカバーを直して晴子は汗を拭った。

 すでに掃除機をかけて四十分が経過していた。

 部屋を覆っていた埃は、大体掃除できた。

「あとは雑巾がけとかやな」

 晴子は雑巾を取りに階下に降りた。そこには怪獣のぬいぐるみを突いている『つばさ』がいた。

「なんや? 『つばさ』、それ気にいったんか?」

 同意のような鳴き声。

「なら、もうしばらく遊んでてな。こっちももう少しで終わるからな」

 晴子はそのまま雑巾とバケツを持って上がっていった。





 あの女の人も懐かしい。

 懐かしいと言えば、この部屋自体も懐かしい。

 ここは知っていた。

 何故知っているのか?

 わたしには分からない。

 でも、ここは安心がある。

 心の奥底から喜びがある。

 何故こんなに安らげるんだろう?

 こんなにも嬉しいのだろう?





「観鈴の日記、か……」

 本棚の掃除の最中、晴子は観鈴が書いていた日記を見つけた。

 何か大切な物を見つけた気がして思わず気が引ける。

(あの娘の考えていた事……分かるわ)

 晴子は日記を開いた。最初の日付けは二年前の夏休み初日。



『みんなと一緒にいられない。夏休みは希望と寂しさがある』



 最初の一文を読んで晴子は目を背けた。

 そうだ。一年前よりも前の観鈴は本当に一人だった。

 今なら理由が分かる、人と触れ合うと癇癪を起こしてしまう事。

 そのために観鈴は自分からみんなと触れ合うのを拒んでいた。

 ページをめくる。

 その間に見えた文字は寂しさを押し殺した文章。

 精一杯元気でいようとした文章。

 そして日付は一年前の夏休み初日に。



『今日は不思議な人に出会った。旅人だって言ってた。この街の人で無いなら、仲良くしてくれるかな?』



(住人の事やな)

 旅をして流れてきた男。

 観鈴のただ一人の友人で、観鈴が死ぬ事を予言した男。

 結局、どこかに行ってしまったが、その青年のおかげで自分は観鈴と親子になれたと分かっていた。



『明日、声かけてみよう。必要なのは、ほんの一欠片の勇気』



 そして観鈴はかけがえのない友人を得たのだ。

(何もかも、昨日の事のようや)

 それからの日記は住人との出来事がつづられていた。

 だいたいは二人の遭遇した出来事やささいな事が。

 たまに晴子も交えた事柄。

 それは体調を崩す日まで続いた。

(よう、頑張ったな、観鈴)

 晴子は日記を閉じて本棚に戻し、掃除を再開した。

 いつのまにか何時間も過ぎていた。





 目の前の餌はとてもおいしい。

 女の人が出してくれた。

 女の人はわたしの目の前でご飯を食べているみたいだ。

 この光景はわたしの目にはとても眩しく見える。

 なんだろう?

 昔からこの光景を望んでいた気がする。

 どこからこの想いが来るのか?

 何故こんな想いをするのか?

 わたしには分からない。

 大事な何かをわたしは忘れているのだろうか?

(それは幸せだった頃の記憶)

 また声が聞こえた。

 知っている声。

 これは……

(既に気づいているわ。あなたが、存在する意味を)

 これは、わたし自身の声?

(もう一度、奇跡を起こして……)





 晴子は目の前の光景が信じられなかった。

 夢なのかと自分の頬を抓ってみる。

「いたたたた! ……じゃあ、これは夢じゃないんか?」

 その瞬間、晴子の目に涙が浮かぶ。

「観鈴ぅ……」

 テーブルを挟んで反対側。

 淡い光に包まれて、永遠に失ったはずの姿。

 神尾観鈴が、最愛の娘が、そこにいた。

《お母さん……》

「な、なんやぁ? 観鈴、会いに来てくれたんか?」

《うん。お母さん、一人じゃ心配だし》

「何言ってるんや。お母ちゃん、一人でちゃんとやっとるで」

 晴子はテーブルから離れて観鈴の傍まで歩いて行く。

《そうだね。寂しかったのは、わたしだけかな。にはは》

 涙が、溢れた。

「寂しかったんはうちや! 観鈴がいなくなって! 一番寂しかったんやで!!」

 晴子は観鈴を抱きしめた。

 温もり、弾力がある体。

 もういないはずの観鈴はとても暖かかった。

《わたしも寂しかったよ。今日、会いに来てよかったぁ》

 観鈴も晴子の背中に手を回す。

 力一杯、一年の重みを手に込めて、晴子は抱きしめる。

《でも、これが最後だと思う》

「……そうやろなぁ。死んだ人間が毎回出てきたら大変やろからな」

《うん。わたし、もう一度言いたかったんだ。だから、少しだけ許してもらったんだ》

「……何を、言いたかったんや?」

 晴子は観鈴を離して真正面に見た。観鈴は息を吐いてからぺこりとおじぎをした。

《ありがとう。わたしのお母さんでいてくれて》

「……そんなん、当たり前や」

 観鈴の姿が徐々に消えていく。晴子はそれを見ても笑みを崩さなかった。

 泣く理由は無かった。

 これは別れではないのだから。

「観鈴は、これからも見守ってくれるんやろ?」

《うん。そうだよ。空から、いつまでも見守ってる》

 そして観鈴の姿は消えた。

 はじけるようして、その場に光の粒子が残っている。

《これからも……》

 観鈴の声の最後のほうは聞こえなかった。

 しかし晴子にはそれが何を差しているか分かった。

 涙が零れる。

 それは悲しさではない、嬉しさの涙。

「お前に恥じん母親に、女になるで。観鈴……」

 視線を戻すと『つばさ』が分けた晩御飯を食べ終わっていた。

 物欲しそうな目線で晴子を見つめている。

「なんやぁ? お前、まだ欲しいんか? しゃあないな」

 晴子は更に『つばさ』への晩御飯を盛り付けた。

 外ではりんりん、と鈴虫が騒ぎ立てていた。

 夏はこれからだ。

(これから何度も夏を体験するんやろが、この二年の夏は格別やな)

 晴子はそう思いつつ冷蔵庫からビールを取り出した。





「お前も、もう怪我治ったやろ」

 晴子は『つばさ』の包帯を取ってやった。

 傷は塞がっているようで、外からだと正常に見える。

「あんたは空にいるんや。観鈴と一緒にうちを見守ってくれんか?」

『つばさ』はそれに同意したようにこくりと頷くとひょこひょこと歩き出した。

 晴子はそれをただ見つめている。

『つばさ』はひょい、とジャンプして塀の上に上がった。

 そしてまた晴子を見つめる。

「行けや。観鈴によろしく言っといてや」

『つばさ』はしばらく晴子を見てから羽ばたいた。

 体が空へと上がっていく。

 空には燦々と輝く太陽。

 太陽の光を背に受けて、『つばさ』は空と言う大海に身を乗り出した。

「達者でな。観鈴……」

 晴子は家へと戻っていった。



 夏はどこまでも続いていく。

 空はどこまでも繋がっている。

 鳥達は何処に行くのだろう?

 分かっているのは――

 それは――

 いつか、鳥達は再び戻ってくるだろう。

 自分達の故郷へ。

 また、違う夏の日に……









『鳥の詩』 〜完〜






 あとがき  AIRのSS第三弾です。  ネタは前から考えていたんですが、筆が進まずにここまで遅れてしまいました(汗)  もう「AIR」編を忘れかけなので微妙に同じようで違うという感じがあります。  というか晴子さんの一人称、忘れました(汗)間違ってたらお許しを。 「AIR」はまだまだ書きたいと思うので次回作をお楽しみに〜 (いつになるか分かりませぬが)  作者・紅月赤哉


1