風の辿り着く場所

モクジ

  【類似】  

 美緒は自転車を駐輪場に止めて、違和感を覚えた。それが何かを周囲を見回しながら考えるとすぐに思い至る。見慣れた自転車がない。いつもならば、自分よりも先に必ずある自転車が、今日に限ってなかった。

(別に先に来てないと駄目ってことじゃないから、今までが今までってことだけど)

 自分達の中で約束されているわけでもないが、いつも通りではないということに、美緒は少しだけリズムが崩れたような気がしていた。

(こんな時って、いろいろ変わるのよね……気にしすぎないようにしないと)

 いつも通りが崩れて連鎖的にいつも通りじゃないことが起こる。それは私生活でもバドミントンでも同じ事。必要なのはすぐさま立て直せる力があるかどうか。
 自転車に鍵をかけてからジーンズのポケットに入れておいたスマートフォンを取り出すと、メールが一件。差出人の名前には『遊佐修平』の文字。嫌な予感を覚えながら開くと、ほぼ予想通りの文面だった。

『悪い。寝坊した。一時間くらい遅れるから、サーブ練習とか、何かしてて!』
「何かって何よ」

 文面に思わず言い返し、美緒は返信ボタンを押してからすらすらと文章を作成する。送信ボタンを押して送られたことを確認すると、またポケットにしまって市民体育館の中に入った。

(昨日も練習ハードだったし。大目に見てあげようか)

 自分もいつもより少し遅く起きてしまい、寝癖が少し残った髪の毛を無理矢理とかしてからきたため、強くは言えない。受付をすませてから足早に更衣室へと飛び込んでロッカーを占有すると、手早く着替えてシャツとハーフパンツ姿になる。着替える前に一度タオルで上半身を拭いたが、じんわりと汗が浮かんできた。湿気が少ないことが救いだが、北海道の夏も最近では気温が上がっており、七月の序盤だろうと汗はかく。私服からより涼しい格好へと代わり一息着くと、フロアへと足を踏み入れた。
 今日はバドミントンと卓球の日ということで、大きなフロアをちょうど半分になるように区切られていた。いくつか置かれた卓球台の周りに小学生以下や家族連れ。自分と同じように自主練に来たような中高生が声を上げている。バドミントンの側には小学生であろう女子が一人でサーブ練習をしているだけで、美緒以外に利用する人はいなかった。

(あの子も私みたいに相手が遅れてくるのかな)

 ロングサーブを黙々と続ける小学生女子を眺めていた美緒だったが、我に返って自分の使う場所にコートを作ろうと歩き出す。遊佐の到着までは時間があったが、自分もサーブ練習をある程度時間をとってやってみたいと考えていた。部活ではどうしてもシャトルのノックや試合形式の練習になるため、基本的なショットの練習は後回しになりがちだ。しかし、サーブをしっかりと奥へ、厳しいコースへと打てるということはシングルスを優位に進めることに繋がる。
 そう考えると、また視線はサーブ練習を続ける少女と向かった。

(あの子……強いな)

 少女の打ち上げたシャトルはコート奥の一点に落ちるような軌道を描いていた。シングルスのサイドラインとバックラインの交差する点。これ以上ないほどに厳しいコースだ。完璧に軌道に乗っているということはないいが、近い場所に落ちて床に跳ねているシャトル群を見て、美緒は反射的に少女の力量を推し量る。

(このあたりの小学生レベルなら、全道大会はいけそうかな)

 県大会レベルだった小学生時代の自分と比べても遜色はないように思えて、美緒は口元を緩ませた。もしかしたら、自分のいる中学に入ってくれるかもしれない。そうなれば、また全道レベル、あるいは全国レベルの選手と成長するかもしれない。未来のことを考えると少し嬉しくなって、美緒は上機嫌になってコート作りを再開した。
 ポールを立ててネットを張る作業を手早く済ませ、五分ほどでできあがる。軽くストレッチをしながらラケットを持ってこようとラケットバッグに向かおうとした時、背中から声をかけられた。

「あの、すみません」

 振り向くと、声の主はサーブを練習していた小学生だった。どれくらいやっていたのか分からないが、息は切れていなくても汗はうっすらと額に浮かんでいる。少女を一通り観察した後で、美緒も答えた。

「なに?」
「えーと……よろしければ、試合していただけますか? 朝比奈、美緒さんですよね?」
「私のこと、知ってるの?」
「ファンですから!」

 唐突にファンを宣言されて美緒は体がむず痒くなる。小学生と中学生の接点は何かあるのかと考えようとしたが、先に少女が種明かしをしていた。

「インターミドルの市内大会、見に行ってたんです。ほんと、誰も寄せ付けない強さで、かっこよくて、素敵で……朝比奈さんかっこいいです!」
「あ、ありがと」

 純粋な好意を年下に熱烈に向けられた経験がないため、美緒は頬を染めてしまう。未経験だが、男子に告白されると同じような気分になるのかと想像してみても意味はなく、目の前の好意の圧力から逃れたいがための意図的な意識そらしだと考えた。一度深呼吸をして頭の中を平静に戻すと、美緒は少女に告げた。

「うん。いいよ。っていっても、連れがくるまでしかできないから、あと五十分くらいかな」
「はい! 私も同じくらいです!」

 少女は目を輝かせて満面の笑みで喜びを露わにした。美緒も少女の煌めく感情の波に少し慣れて、名前さえも聞いていないことを思い出す。

「じゃあ、準備運動からかな。えーと」
「あ、はい! 私、花宮めぐみって言います! 小学五年です!」

 少女――花宮めぐみは自分の名前を美緒へと伝えることだけでも幸福だと言わんばかりに笑っている。一見、屈託のない笑顔。だが、美緒は心の中にかすかに小さな棘が刺さったような感覚を覚えていた。意識しなければ忘れてしまうような小さな痛み。おそらくは、自分以外は気づかないもの。どうしてそこまで思ったのか、美緒自身にも理解できなかった。

(何だろう。この子……似てる?)

 感覚的に「似てる」と思っただけで、誰にという実像は結ばれない。
 心の中に浮かんだ感情は一度置いておき、美緒は花宮に言ったとおりに準備運動から始める。屈伸から膝を前後左右に回し、アキレス腱を伸ばしていく。ふくらはぎの部分は特に念入りにストレッチや両手で解すのを忘れない。
 最上級生になった美緒は、北海道の中でもトップクラスの実力を持っている。客観的に見て、誰もが彼女の全国大会進出は問題ないと思っている。そんな美緒の唯一にして最大の弱点が、足の怪我だった。中学一年からこれまで、全国に直結する大会において、美緒は何度も跳ね返されてきた。上の世代に実力者がいる時はその壁に阻まれたのだが、そうではない場合は自らの右足の怪我で涙を飲んできたのだ。

(最後で、一番のチャンスなんだから……逃さない。絶対に)

 全国へ行くという強い思いを満たすため、中学二年の終わり頃から特に足まわりのストレッチを続けている。他の部員よりも早く部活に来て、早めに始めてから同時に終わるくらいまで。
 そのために市内大会も全地区大会もこれ以上にない調子の良さで誰もを寄せ付けずに全道大会へとコマを進めたのだった。

(ここまでやって怪我するなら、精神的なものよね)

 肌に浮かんだ汗がTシャツに染み込む感覚まで掴めているような気がする。準備運動を通してバドミントンプレイヤーとしての朝比奈美緒が覚醒していく。神経が研ぎ澄まされていくほどに、隣で一緒に準備運動をする花宮からくる気配に不思議な感情が浮かんできた。

(違和感じゃない。これって……懐かしさ?)

 似ているのは誰なのか。脳裏に自然と答えが浮かび上がってくる。闇の中からかすかな光が灯り、逆光になって浮かんできたシルエット。顔は見えなくてもすぐに分かった。

(この子、昔の私に似てるんだ)

 近すぎて最初は分からなかった「誰か」は、自分。それも、引っ越してきて中学に入学したばかりの自分だ。全国大会に出るために力だけを求めて、強い人に師事して、弱い仲間達とは距離を取っていた、馬鹿な自分だった。

「そろそろいいですか!」
「うん。じゃあ、基礎打ちやろうか」
「はい!」

 準備運動を終えてから花宮はシャトルが打てると喜んでラケットを取ってネットの反対側へと足早にかけていく。お尻の部分に透明な犬のしっぽが見えた気がするが、美緒は笑わなかった。かつての自分も、強い先輩と打つのが楽しくて、同じように喜び勇んで離れていったに違いないのだから。

「軽くドロップとかしますかー」
「うん。ドロップアンドネットとハイクリアでいいよ。他は試合中で」
「はい!」

 肩と体を早めに暖めるのに強打を用いないドロップと、前に移動してヘアピンを打つドロップ&ネット。ラケットを振るのに力をできるだけ入れないで軽めに打つことを心がけ、徐々に慣らしていく。前に打ち、前に出て、後ろへと向かう。単調な作業の繰り返しだが、続けるのは技量がある程度以上なければいけない。そして、花宮の技量は美緒を基準にしても大幅に足りないと言うことはなかった。今、部活にいれば間違いないなくトップレベルだろうと結論づける。

(この子……どうやって強くなったのかな?)

 中学一年の自分に似ているという点から不安になってくる。入学したてからその年の九月くらいまでの期間で美緒はかなり上級生と衝突した。実力を上げるために自分で考え、練習をしていくと共に同じ女子の中でも孤立していく。自分が強くなるために他の部員達の指導をするなど考える余地もなく、ひたすらに力を求めていた。結果、部活を辞める寸前までの事態になった。
 実力をつけたいための行動が逆に部活を辞めることになり、試合をする機会を奪ってしまう。そんな矛盾も今なら理解できるが、当時の美緒はそのまま辞めて高校から出直そうとまで決めかけていた。

(もし、この子が私みたいなら……教えてあげないと)

 ドロップ&ネットを終えてハイクリアは短い時間で切り上げると、二人は試合を開始する。時間は残り二十分程度で、一ゲームくらいなら終わる。シャトルを持った美緒は一度息を深く吸い、気合いを入れた。

「一本!」

 シャトルが高く打ち上げられる。美緒の闘志に怯んだ花宮は硬直を慌てて解いて後を追う。だが、出遅れたフットワークでは生きたシャトルを打つことはできず、美緒のスマッシュがシャトルをコートへと叩きつけていた。

 * * *

「――ポイント。トゥエンティワンスリー(21対3)」

 最後のヘアピンを取りに行って膝をついた状態で花宮は顔を上げずに息を切らす。試合は一方的に進み、花宮が上げた三点も美緒が厳しいコースを突いてアウトになった結果のもので、自力で取れたものは一つもなかった。ネット前に立つ美緒は花宮を見下ろす。必要以上に力を見せつけてしまったかと心の中で少し後悔していたが、不安な気持ちを払ったのは花宮が顔を上げて見せた表情だった。

「ありがとうございました! 凄く強かったです!」

 全く、ではないかもしれないが今、この場所で辛い思いを見せない程度には堪えていない。自分と同じように強い相手に倒されることが苦痛ではないタイプなのだろう。自分の弱さを見つけて、修正していく。華やかなプレイの裏に血の滲むような修練が必要なのを本能的に分かっている。

「どうやってそんなに強くなったんですか!? 浅葉中って他の人達はそこまで強くないですよね? やっぱり自主練で、ですか?」
「……そうでもないよ。皆と一緒にいたから強くなれたんだ」

 解答に首を傾げる花宮の様子を見て、美緒は自分の予想通りに花宮が力を求める故に陥る罠にハマっていると理解できた。

「一人で強くなろうとしても限界はあるから、皆に手伝ってもらったんだ。確かに他の部員は私より力はないけど……練習も工夫すれば強くなれるよ。他の人が強くなれば、自分の練習にも応用が利くしね」
「えーでも私、他の人を強くするより自分が強くなりたいんです。早く」
「どうして早く強くなりたいの?」
「中学デビューするためです! だって小学校六年で全国とか、せめて全道で優勝してとか、かっこいいし!」

 花宮の回答に笑いそうになるのを美緒は抑えた。馬鹿にしたということではなく、逆に感心する。自分の欲望に正直に、そこを目指して突き進む花宮が眩しく見える。

「朝比奈さんみたいに強くなりたい!」
「それなら、私が言った通りじゃないと私みたいには強くなれないよ?」

 美緒の言葉を反芻して納得しようとしている花宮。だが、その作業はおそらく滞るだろうと美緒は思う。人から言われて分かることではない。言われたことが正しかったと理解できるのは、やはり自分で経験した上でのこと。美緒自身も先輩達との諍いがおさまった当初は分からず、中学二年の時期を通してようやく分かったのだから。

「今は分からなくてもいいけど、私が言ったこと、たまに考えてみて?」
「……はい」

 不服そうな表情をしていても、美緒の言葉には素直に頷く。二人の会話が落ち着いたところを見計らったかのように、コートの外から声がかけられた。

「おーい、朝比奈ー」

 良く通る声に振り返ると、待ち合わせていた相手、遊佐が駆け足で近づいてきた。手を振って応えていると、少し強い視線を感じ、花宮を見る。身長が美緒より低い花宮は半眼で上目遣いをしつつ美緒を見ていた。どうしたのかと問いかける前に声を潜めて尋ねてくる。

「もしかして、朝比奈さんの彼氏ですか?」
「!? そんなんじゃないよ!」

 慌てて否定したことが悪かったのか、花宮は余計に疑いを強くしたように睨みを強くする。その状況を分からずに遊佐が傍までやってくると今度は二人を見比べる。

(変なこと言わないでよ……)

 花宮が何を言い出すか気が気でない美緒だったが、やがて花宮はため息を付いた。

「なぁんだ。もっとストイックかと思ったけど、普通なんですね」
「そ、そうだよ? 普通なんだよ」

 変な流れになったものの、自分の言いたいことに軌道が戻ったと感じて美緒は言葉を重ねる。それは自分自身への答えでもある。
 バドミントンに邁進することと、他を捨てることとは意味合いは違う。遠回りに見えても、最終的にはより高い場所へと続いている。一人ではいけない頂があると美緒は知った。できれば、目の前の少女にもその頂に気づいて欲しい。
 優しい思いを込めて伝えた言葉に、花宮は笑みを浮かべて頭を下げた。ちょうどそこで花宮の待っていた相手もやってきたらしく、ラケットバッグを大きく揺らしながら小柄な少女がやってきた。

「じゃあ、私も戻ります。今日はありがとうございました。全道大会、応援してます!」
「うん。ありがとうね」

 大きく手を振って離れていく花宮を軽く手を振りながら見送る。やがて手を下ろしたところで遊佐が口を開いた。

「結局、あの子は誰なんだ?」
「将来有望な小学生だよ」

 美緒の言葉に納得したのか、そこまで気になることではなかったのか、遊佐は続きを口にすることはなく改めて遅れてきたことを詫びてから準備運動に入る。その光景を横目で見ながら美緒はほっとして息を吐いた。

(会話、聞かれてなかったみたいね。でも……私と遊佐ってなんなんだろ)

 花宮の言葉に予想外に動揺してしまった。
 中学一年の時から、バドミントンの実力に目を付けて一緒に練習している仲間。先輩達と和解した後も定期的に二人で練習をしているが、部活の仲間以上に何らかの感情があるのか考えようとしても気恥ずかしさに頭が熱くなり、考えられない。

(いつか答え、出るかな?)

 頭を冷やすために息を吐き、頬を張る。自分の中の思いもあるが、まずは目の前の練習に集中しなければ怪我をして過去の繰り返しになるだろう。
 思いに名前を付けるのは、大会が終わってからでも遅くはないはず。

「よし、早くやろうよ!」
「おっけおっけ。でもまずは基礎打ちから……」
「はいはい」

 ラケットを持ち、意識を入れ替えて選手へと変わる。目指す全道大会に向けて、一歩を踏み出した。

 想いに形がつく前に、当の遊佐から告白を受けることになるのは別の話――
モクジ
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