風の辿り着く場所

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  第五話 【不安】  

 熱めのお湯に足先を入れて、美緒は痛みに顔をしかめる。肌の毛穴から湯が入ってくるかのような痛み。それでも、意を決して肩まで浸かった。髪が湯に入らないように頭の上の方でタオルで縛っておいたため、湯船の縁に首の付け根を乗せても問題ない。

「――はぁ」

 口から吐息が漏れる。ホテルの地下に設置された大浴場には、ホテルに泊まっている客の姿が何人か見える。大人から子供まで、自分とは違い観光などが目的だろうと美緒は目を細めながら眺めていた。

(これで、前回と同じ、か)

 前回。中学二年の時のインターミドルで美緒はベスト8で姿を消した。第一日目はちょうど、ベスト8を決めるまでの試合となり、最終日にはベスト8から開始される。
 その第一試合で美緒は敗退していたが、今年の美緒は特に波乱なく勝ち進んでいる。これで少なくとも過去の自分と同じ実績。残るは、新しい道のみ
 二日目はダブルスのベスト8までを決めるため、美緒に出番はない。高山と栄塚のダブルスのためにラインズマンをするくらい。その一日分の休息がどう影響するか、美緒には少し不安だった。

(流れが一度切れた後って、怪我しやすいんだよね)

 湯から右足だけを浮かせて、美緒は内心呟く。根拠はなくあくまで自分が思っているだけだが、自分が右足首を痛めるのはその場合が多かった。
 負傷による不戦敗ほど、悔いが残るものは美緒の中にはなかった。
 挑んで負けたなら納得できるが、戦うことができなかったのは、自分のせいではあっても他者を比較してしまう。自分が出れていれば勝てた。そんな「たられば」という思いに苦しむ。
 そこまで考えて、美緒は映像が頭に浮かんできた。
 一年の初めのインターミドルの直前。
 一年生ながら予選の出場権を部内のランキング戦で獲得し、出場権を手に入れた。その直後、張り切って練習をしていたところでバランスを崩し、右足首を思い切りひねってしまった。結局、そのまま治ることはなく出場は取り消し。繰り上げで出場した先輩はあっさりと地区予選で敗退していた。
 一昨年、去年、そして今年を考える限り、一昨年に出場していてもインターミドルの全国大会に出ることはできなかっただろう。特に美緒が「化け物」と思うプレイヤーが上の世代に二人いて、一人は自分の先輩だ。どこかで倒されていた結果しか浮かばない。
 それでも、出られなかったことに絶望したことは、今まで美緒が生きてきた人生の中で最も辛い出来事となった。
 他人が話を聞いても考えすぎと言われることは美緒にも分かっている。自分が絶望しているのは、厳密には「インターミドルに出られなかった」ことではないのだから。

(バドミントンから、逃げてる、かぁ)

 その言葉を思い浮かべたところで、言った本人が浴場の扉を開けて入ってくるのが見えた。特に美緒は自分の存在を知らせることなく、思考を続ける。

(もしも、全国大会に出場できたら、私はどうするのかな?)

 今まで遠かった目標が近くまで来ている。去年は同じ状態でも次を考える余裕はなかった。次の相手が第一シードだったため、どう攻略するかということしか考えられなかったのだ。
 だが、今は違う。自分自身が優勝候補になっている。自分が一番上の世代で、北海道の中で最も全国に近い場所に美緒は立っている。
 心の立ち位置は大きく異なる。
 それでも、その足場はふわふわとして落ち着かない。

(……バドミントンから逃げてるってやっぱりあるかも)

 自分が高校でもバドミントンを続けている姿を、全く想像できなかった。
 去年までは漠然と、高校でも全国を目指している自分をイメージしていた。しかし、今になってそれは「全国に行くため」という目的先行のイメージだと分かった。
 ここで全国大会に出場して目的を達したならば、抱えた思いがなくなったその時に、自分からバドミントンをする理由まで消えてしまっていると理解してしまう。
 だが、次に浮かんだのは、宮越や遊佐。部の皆と一緒にバドミントンをしているところだ。おそらく進路はみんな異なるはずなのに、浅葉中のものとは異なった同じユニフォームを着て試合をしている姿。
 初めて見る光景に美緒はぼんやりと心が惹かれていく。

「出よう」

 自分にそう言い聞かせなければいけないほど、目の前の空想は甘美なものだった。湯から出て歩いていく間、高山と栄塚が髪を洗っているのを見かける。同じ時間くらいに遊佐も風呂に入っているのかもしれない。
 だが、二人には特に声をかけずに脱衣所に入って、自分の衣服の上に置いておいたタオルを体に巻き付ける。ミニタオルを絞って髪の毛を軽く拭きながら鏡に映る自分をふいに見た。
 そこに、自分より少し背が小さい少女が映っていた。

「――!」

 息を呑み、体を硬直させる美緒。だが、その少女が幽霊でも他人でもない、自分が作り出した妄想だと分かっていた。だからこそ、悲鳴を上げるようなことはしない。バランスを多少崩しただけで動揺を抑え込む。
 鏡に映る幼い美緒。幼いと言っても、年は三歳しか離れていない。小学校卒業する間際の自分だ。今の自分を形作った元となった美緒。
 美緒はドライヤーを使うために洗面台に備え付けられている椅子に腰掛け、そのまま右足首を見る。自分を何度裏切ってきた右足首。自力で回してみても痛みも何もない。

(今回は、大丈夫だよ)

 数年前の自分へと語りかけるように言って鏡を見ると、もう自分しか映っていなかった。今の自分の顔と体が映った鏡を見て、美緒は一つため息を付いてから髪を乾かし始めた。


 * * *


 火照った体を少し冷まそうと、美緒はペットボトルを飲みながら一階にある椅子に腰掛けていた。入り口が近く、外の空気が多少なりとも入ってくる。最も、北海道といえども最近は夏は蒸し暑く、外に出れば湯上がりに出てくるものとはまた違った汗が噴き出してくるだろう。座っていると他の泊まり客が浴場へと向かっていくのが見えた。ホテルの部屋に備え付けられた浴衣であったり、私服だったり、服装は千差万別。特に女性は美緒から見て可愛いと思える服を着ている人が多かった。
 美緒は自分の服装を見下ろしてみる。
 全道大会の会場で買った、西暦が入ったオリジナル記念Tシャツに下は浅葉中指定のジャージ。色気も何もない格好。この場ではこれくらいしか思いつかなかっただけだが、同じ女子なのかと考えてしまう。

(とりあえず部活引退したら、服を買おうかな)

 小さなことでも目標を重ねてみる。
 未来の自分のことが分からないなら、自分で作り出すしかない。そもそも今まで考えてこなかったのだから。
 自分のコーディネイトについて考えていると、ポケットに入れておいたスマートフォンが振動した。取り出してみると二件のメール着信。開いてみると、一番上は宮越からのもの。そして、もう一つの名前。

「……はぁ」

 ため息を付いてから、まず宮越のメールを見る。浴場へと向かう前に送った、今日の連絡への返信。そこには試合のことは全く書かれておらず、遊佐のことが記されていた。

(あゆは応援してくれてるのかどうなのか……)

 下手に何か試合について言うとプレッシャーになると避けているのか、そこは全く見えない。それでも心のどこかでほっとする自分がいた。そして、次のメールを見る。
 見慣れた名前。しばらくは文字でしか交流がないその名前。文面には、今日勝ち残ったことに対しての激励。そして自分も頑張るという思いが書かれていた。
 胸の奥にチクリと刺さる、不可視の棘。
 その痛みがいつから起こり始めたのかと振り返ろうとして、美緒は自分の変化に気づく。

(私……なんでこんなことばかり考えてるんだろ)

 中一から今まで。ずっとバドミントンのことを考えてきた。
 強くなること。試合に出ること。強い相手を倒すこと。
 勉強とバドミントン。二つのことだけを考えてきたはずだった。遊佐のことを呆れ顔で言ってる自分もまた、良くも悪くもバドミントン馬鹿だった。だからこそ、このステージまで上がってこれたと考えている。部員達も美緒のバドミントンに賭ける思いを汲んで協力してくれた。それに応えるように、美緒は強くなり、また、出来る範囲で仲間との時間を大切にした。
 だが、全道大会に来てから一気に雑念が混じってくる。遊佐の告白が原因とも考えられたが、その返答は試合後にすると決着をつけている。今は、全道優勝を狙うために集中するべきではないか。それなのに様々なことを考えている。特に、過去のことはフラッシュバックのごとく自分に訪れる。

(もう戻って寝よう)

 自分の中に確実に変化が生じている。それは、バドミントン中心に見ていた自分には良いことなのかもしれない。だが、それが必要なのはまだこの時ではない。だからこそ、自分を一度リセットしなければ。

「リセットリセット」

 自分で何度か呟きながら、美緒は部屋に向けて歩き出す。エレベーターを使おうと考えたが、隣にある階段を昇ることにした。足を怪我しないように一歩ずつ上がっていく。美緒の泊まっている階は六階であるため、昇りきる頃には汗をかいているだろう。せっかく浴場で暖まったが、体を軽く動かしたい衝動は止められない。
 一段一段昇っていく。効率よく足を動かし、最小の動きとスムーズな体重移動を意識して階段を昇っていく。最前の動きを追求するのには余計な思考は差し挟まれない。
 徐々に先鋭化していく思考。
 美緒は高揚感に包まれる自分に気づき、笑みを浮かべる。

(これが、自分だ)

 まだ。今の自分は、これでいい。
 何かが変わるのは、明後日が終わってからで良い。
 やがて六階の階段入り口が見えて、美緒はショックを膝で和らげるようにして止まった。軽く息を切らせて、汗は体に滲んでいる。部屋に備え付けのシャワーで再度汗を流そうと決めて廊下に出た。
 そこで、目の前の光景に動きを止めた。

「……何やってんの?」

 廊下の端から中央に向けて、ストップとダッシュを繰り返す遊佐の姿が見えた。
 美緒の姿が見えている位置であるが、気づいた様子はなく中央付近で右足を踏み込み、また通路奥へと走っていく。美緒のいる階段入り口は同じくホテルの端側にあり、遊佐は反対側へと遠ざかっていく。美緒の部屋はちょうど中央付近にあり、遊佐へと近づかなければいけない。

(汗くさいの嫌だな……)

 遊佐の様子からするにある程度の時間、同じことをしているらしい。傍に寄れば流れた汗の臭いが届きそうだ。更には、自分も風呂上がりとはいえ少し汗をかいたくらい。あまり遊佐には近づきたくなかった。
 しかし。

「遊佐、何やってんの?」

 意を決して声をかける。ちょうど端から中央へと戻ってきたところ。全力疾走で駆けてきた遊佐は美緒の姿を見て速度を落とし美緒の傍で止まった。

「お、朝比奈。今、風呂上がり?」
「うん。遊佐は……いつからやってたの?」
「三十分くらいかな」

 遊佐はさらりと答えるが、逆に美緒は不満を前面に押し出す。その理由が分からずに困惑する遊佐へと美緒は自分の考えていることを突きつけた。

「あのね。人に足首気をつけろって言っておいて、廊下でそんなことやってたら痛めるでしょうが」
「……ああ、そのあたりは気をつけてるよ。それにここの廊下の床。体育館の床とあまり変わらないみたいだし」

 美緒の言葉を理解して、遊佐は説明を始める。美緒は軽く床を踏んで見る。確かに慣れ親しんだ体育館のものと近いように思える。だから、バドミントンシューズを履けば問題ない。それが遊佐の理論。更には、このフロアには今のところ遊佐と美緒。高山と栄塚。そして庄司しかいない。ならば、話せば分かってくれるだろう。
 そんな理論を展開する遊佐に、根本的に誤っている部分を美緒は突きつける。

「遊佐やここの階は良くても、下の階の人はうるさいでしょうが。ここの床、案外薄いのよ」

 美緒の言葉を裏付けるタイミングで、上の階の廊下を走っていく足音が二人に届く。軽さから、おそらくは子供だろう。トタタタタ……とエレベーターホールの天井のところで止まったのを聞き終えて、美緒は遊佐へと視線を戻す。

「遊佐はもう少し常識持ってよね。傍にいたら恥ずかしいよ」
「反省します」

 遊佐は素直に頭を下げる。すぐに頭を上げて笑うのを見て、美緒も自然と微笑む。バドミントン中心で他人のことを考えられない。そんなことがあってもどこか憎めない。それはきっと純粋にバドミントンが好きだからなのだろう。

「ねえ、何で遊佐はバドミントン強くなりたいの?」
「どうした? 急に」

 遊佐が壁に寄りかかるのにあわせて、美緒も隣で壁に背中をつけた。見上げると首が疲れるが遊佐から視線を外したくなかった。

「別に。単純に気になっただけよ」
「朝比奈の強くなりたい理由の方が皆、気になってると思うけどな」
「……私のはね、いいのよ。遊佐のよ」

 ちくりと刺す棘を気にせず、美緒は促す。遊佐はうなった後で口を開いた。

「別に。強くなりたいからだよ。何も意味はない」
「何か目標とかないの?」
「目標はあるさ。全国優勝。でも、それって結果だからな。自分がやってることを上手くなりたいって思うのは自然のことじゃないか? 余計なもん付けなくてもさ」

 美緒は自分を振り返り、遊佐の言葉に納得がいく。美緒の中にある強くなりたい理由。しかし、練習をしている間にそれを意識したことはない。あくまで目の前の技術を身につけることに全力を注いできた。
 スマッシュが上手く打てない。このラケット振り方、体重移動では上手くいかなかった。ならば次はどうするか。一つの失敗から一つの仮定を生み、実践する。その繰り返しを重ねてきて、上手く打てるようになる。上手く打てるようになり、上手く動けるようになれば、自然と全道で優勝を狙えるところまで来る。

(確かに、自然なことなのかもね)

 感じたことをそのまま遊佐へと告げようとした時だった。

『絶対にいくからね!! 約束だから!』

 泣き叫ぶ自分の姿が思い出されて、美緒は動きを止めた。唐突な停止は遊佐にも気づかれて「どうした?」と心配そうに話しかけてくる。だが、美緒には返答する余裕もなく、なんでもないと告げて背を向けた。

「朝比奈?」
「おやすみ、遊佐。フットワークやりたかったら明日体育館でしなよ。私達は明日出番ないんだから」

 美緒はそのまま部屋の鍵を開けて中に入る。突然会話を止めたことを不思議がる遊佐の視線を感じたまま、美緒は扉を閉めた。
 ゆっくりと息を吸い込み、吐く。まだ電気もついていない暗がりの中、呼吸を繰り返して落ち着かせようとする。
 何度目かの深呼吸の後で呟く。

「約束、か」

 呟きは闇の中へと消えていった。
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