ある密かな恋  午前十一時五十五分。  そろそろ冬の厳しさもゆるんできた時分。街を行く人々は、穏やかに晴れて暖かい 天気を楽しむようにゆったりと流れている。ぼくの立っているこの場所は、植え込み と噴水が人気の大通りに面した小さな広場だ。あたりはぼくと同じように誰かと待ち 合わせをしているのだろう、そわそわとあたりを見回してはひっきりなしに腕時計に 目をやる人や、ケータイのメールに夢中で顔もあげない人、あるいは待人がやってき てうれしそうな顔で会話を交しながらどこかへ向かっていく人、そんな人達でごった がえしていた。  そんな光景をなんとなく穏やかな気持ちで眺めながら、ぼくは今日の予定をもう一 度頭の中でくり返してみる。  まず昼食をとろう。この間クラスメイトに教えてもらって覗いてみたイタリアン料 理の店は、品の良いレンガ造りで、大きなウインドウと外に並んだ植え込みがとって も気持ちのよい感じだった。重めの木材の扉にはかわいいベルがつるしてあって、人 が出入りするたびに軽やかな音を奏でていた。店先に出してある今日のおすすめメニ ューなんかを手書きしてあるボードもさり気なくてきっと気に入ってくれるはず。ちょ うど昼食の時間帯だから混み合っていて少々待たされるかもしれないけど、あのパス タを食べれば待たされてちょっとイライラした気持ちなんか吹き飛んでしまうに決まっ てる。  それから、買い物。春物の服を新調したいといっていた。それなら向こうの大通り にゆけば人気のブティックがたくさん並んでいる。女の子の服というのはよくわから ないけれど、落ち着いて雰囲気のある格好というのは彼女にはとても良く似合ってる と思う。ああ、下見しておけばよかったかも。男一人で女物を見てあるくというのは 少し恥ずかしい気もするけれど、ぼくが見立ててあげるというのもなかなか悪くない かもしれない。  そして……。  とそこでふいと顔をあげると、彼女がこちらに駆けてくるのが見えた。短かめの丈 の淡いピンクのコートの裾を翻してぼくに手をふっている。すぐにぼくの横までやっ てきて、はあ、と一つ息をついた。  腕時計を見ると、ちょうど12時。待ち合わせの時刻ぴったりだ。そんなに急がな くてもいいのに、と言おうと思ったけど、駆け付けてくれたうれしさで一瞬ぽおっと してしまった。 「実はね、タカが時間前から待ってるの見てたの」  下からぼくの顔を覗きこみ、そんなことを言う。そうして、にこっ、と笑ってみせ るのでぼくはもう大変だ。  どうしよう。こんな可愛い子と一緒に歩けるなんて、ぼくはなんて果報者だろう。 顔がにやけそうになるのを必死で引き締めて思わずあたりを見回してみる。  誰もが彼女を放っとくわけがない。証拠に前を通り過ぎるみんなが振り返りつつ彼 女を眺めてゆく。やばい。どこか人目のあまりないところに行かないと、目立ってしょ うがない。  いや、でもみんなに見てほしい。こんなに可愛いのだもの、みんなに見せないで埋 もれさせてどうする。 「ねえ、どこ行こっか」  彼女の声で現実に引き戻された。そうだ、今日は待ちに待った彼女とのデートなの だ。ここは一つきめないと男じゃない。 「あっっ、お腹すいてない?実はクラスメイトにこの間すごくいいイタリアンレスト ランを教えてもらったんだ。とってもオシャレだし、何よりおいしいから君もきっと 気に入るだろうと思う。今は昼時だから混んでるかもしれないけど、そこ行ってみよ うよ」  第一声が裏返ってしまったけど、緊張しまくってるわりには普通にしゃべれた。別 に不自然じゃなかったと思うけど、どうだったろう。 「ホントお?わたしイタリアンって大好きなの!じゃそこ行ってみようよ。うわあ、 楽しみ〜」  大好き、って。別にぼくのことを好きって言ったわけじゃないのに、こんなにどき どきしてしまう自分がちょっといやだ。  ああ、でもずっと探してた相手に出会えた時ってこんな気分なんだ。こうやって何 気ないしぐさや会話でいちいちどきどきしたり、自然な距離感を感じあったり。  肩を並べて歩いてる彼女の横顔を見て、素直にそう感じた。君が隣にいるだけでぼ くはこんなに穏やかな気持ちになれる。ずっとこうやってそばにいられれば、いい。  そう思っていたのに、つい、と手が触れあったとたん、そんな穏やかな気持ちはた ちまちどこかへ吹っ飛んでしまった。息苦しささえ覚えるくらいに心臓が高鳴ってい る。やっぱりそばにいられればそれでいい、なんて嘘だ。触れて、手をつないで、そ れからもっといろんなこともしたい。  こんなこと考えてしまうのって、彼女には失礼だろうか。でもぼくの視線はついつ いグロスをぬったきれいなくちびるや、細いウエストなんかのあたりにいってしまう。  この腰に手なんかまわしてみたら、どんな心地がするだろう。手をつなぐよりよっ ぽどどきどきするけど、もっと距離感が縮まって体温が感じられるに違いない。  どうしよう。思いきってしてみようか。そう考えただけで、鼓動の激しさに死にそ うになる。なのに、腕はすでにそろそろと伸ばしかけていて、止められそうにもない。 突然そんなことをしたら、彼女はなんていうだろう。”いきなり何するのよ”なんて 軽蔑されたらどうしよう。ああ、でも頬を赤らめて照れられたりした日にはぼくは昇 天してしまうに違いない。  そんな妄想を繰り広げている最中だったので、彼女が立ち止まったときには本当に びっくりした。頭の中を見すかされたんじゃないかって思ったくらいだ。 「タカ」  あんまりじっと見つめながら言ってきたので、ぼくは思わず視線をそらしそうになっ てしまった。 「ん?どうしたの?」  精一杯の平常を装って答えてみる。けれども、 「タカ」  彼女はくり返すばかりだ。どうしたのだろう。名前を呼ばれるだけで嬉しくてしか たないのだけれど。 「タカ」 「タカ!!」 「んっっ!?」  すぐ目の前に、シゲの顔がある。なんだってコイツがいるんだ。てゆーか、ぼくは 今彼女とデートをしているんじゃなかったっけ。 「いつまでぼーっとしてる気だよ。とっくの間にホームルーム終わってるぜ」  ホームルーム?あわててあたりを見回してみる。そこはいつもの学校の教室。彼女 も街並みの風景もどこかへいってしまってる。一体何が起こったのだろう。とりあえ ず、目の前のシゲをまじまじと見つめてみる。すると彼は心底呆れたという顔つきで ぼくを見返してきた。 「よだれたらしてるぜ、おまえ。なーに考えていたんだよ。やらしいことか?」  考えて、ってもしかして今のは全部ぼくの想像だったのだろうか。いやまさか。  でも。そういえば、黒板の数学にはなんだか見覚えがある。机の上にのったかばん を開けてみると教科書やノートが入っているけれど、つめた覚えもなんだかあるよう な気がする。 「早く部活いこうぜ。遅れると先輩にどやされちまう」  シゲがぼくのかばんを持ち上げながらそういった。どうやら今のは本当にぼくの想 像だったらしい。しかもホームルームの間ずっと、みんなが教室を出てったのも気付 かないまま。  なんてことだ。恥ずかしすぎる。シゲに言えば大笑いしてぼくを馬鹿にするだろう か。言えない。絶対誰にも言えない。  悶々としながら教室を出るシゲのあとを追いかけた。 「よだれ、ふいとけよ」  彼に言われて、あわててぼくは袖で顔をごしごしとこすった。  帰り道。ぼくたちは五分部活に遅れていったおかげで、先輩たちにいつものメニュー にグラウンド20周の走り込みを追加されて心底疲れきっていた。 「タカ、おまえのせいだぜー。なんかおごれよ。腹へってしょーがねー」  ぼくと同じに脚をひきずりながらシゲがそうぼやく。たしかにぼくがぼうっとして いたおかげで部活に遅刻したのは事実だ。でもグラウンド20周はちょっとひどいと 思う。自分が先輩になったら、絶対不条理なことは押し付けたりしないで、優しい先 輩になりたい。部活で疲れたあとにジュースの一本でもおごってくれるような、そん な先輩に。  それじゃあ、まず始めにシゲに何かおごろう。遅れたのはぼくのせいなのだから、 グラウンド20周は彼はしなくてもよかったはずなのだ。 「シゲ、ハン……」  ハンバーガーでもおごるよ、と言いかけてぼくは口をつぐんだ。というのは、本屋 のショウウインドウが目に飛び込んできたからだ。”本日発売”とかかれた看板の下 に並んでいる雑誌の一つに、彼女、そうぼくがホームルームの間デートする想像をし ていた彼女が表紙を飾っているものがある。入り口を見ると、ぼくと同じくらいの男 子学生が三人、連れ立って入っていくのが見えた。  あの人達、この雑誌を買う気かもしれない。それに、もう夕方だから、何人もの人 達が買っていったことだろう。もしかして、もう売り切れ?  そう思ったとたん、いてもたってもいられなくなった。早く、早く買わないと。 「わり、ちょっと本屋寄らせて」  シゲに言って、ぼくは本屋に飛び込んだ。音楽雑誌、音楽雑誌のコーナーはどこだ。 わりと奥まったところにすぐ見つけられた。焦って目当てのものを探すぼくの目に彼 女が映る。  良かった。安堵のあまり、思わず笑みをもらしそうになりながら、雑誌を手にした。  ぱらぱらとめくってみると、見開きいっぱいに彼女の笑顔があった。アイドルみた いな媚びた笑顔なんかじゃなくて、顔をほんの少しほころばせているだけの、品の良 い笑顔。  さっきまでの部活の疲れなど、たちまちどこかへ吹き飛ぶ。本当に、なんて素敵な 人だろうと思う。歌ももちろんのことだけど、顔を見るだけでこんなに癒されて楽に なる。  生まれてきてくれて、どうもありがとう。  ちょっと恥ずかしいようなことを考えてたところに、ぼくを探していたらしいシゲ の声が聞こえてきた。 「何、お前大原舞好きなの?」  大原舞、というのは彼女の名前だ。見とれていたところに、いきなり話し掛けられ たうえ、彼女の名前が聞こえたのでぼくは口ごもりながら答えた。 「いや、特別好きってわけじゃないけどさ。この雑誌いっつも買っているから」  というのは半分本当で半分嘘だ。この雑誌はほとんど毎月買っているけれど、彼女 のことは、デートを想像するくらい好きなのだ。でも、そんなことは言えるはずがな い。  それにしても、今日はなんだかコイツに邪魔されてばかりのような気がする。これ は、早いところ家へ帰って、ゆっくりと雑誌を眺めるしかなさそうだ。 「これ買ってくる」  雑誌を閉じて、ぼくはレジへと向かった。  夕飯と風呂を済ませ、ぼくは試験勉強をするといって部屋にこもった。試験が近い のは事実だけれど、本当のところは誰にも邪魔されずにゆっくりと雑誌を読みたかっ ただけだ。  ベッドに横たわりながら、1ページずつ写真を眺め、トークを読み進めてゆく。  新しい写真を見るごとに、ぼくはいちいちため息をついてしまう。本当に可愛い。 こんなふうにぼくを誘惑するなんて、確信犯に決まってると思ってしまうくらい、可 愛いと思ってしまう。  ざっと全てのページに目を通し終えて、表紙をもう一度眺めてみる。”MAI OOHARA” のロゴをそっと指でなでていると、ふいにケータイが鳴った。  着メロは、もちろん彼女の曲だ。この間出たばかりの新曲を、苦労して耳コピして ぼくが打ち込んだものだ。  誰からだろう。画面を見ると、”ユミ”と出ていた。ユミというのは、ぼくが付き 合っている子の名前だ。そういえば、ユミとは今日顔を合わせていない。 「もしもし、タカ?」  ケータイに出ると、ユミの声が聞こえてきた。なんだかおずおずとした声だ。 「うん、ユミ?どうしたの?」  ユミはおとなしい方だ。こちらの都合などおかまいなしにしゃべりたてるような子 じゃないから、静かな声を出すのはいつものことだけれど、思わずぼくはどうしたの、 と聞いていた。 「あ、ううん、そんな大したことじゃないんだけど。最近会ってなかったから、どう してるかなと思って」  ユミとはクラスが別だし、家の方向もまるきり正反対だから、登下校も一緒にでき ない。となると、会うのは休みの日か、学校でしかない。ぼくは別に構わないのだけ ど、学校でわざわざ顔を合わせるのは恥ずかしいとかいって、偶然会う以外はあまり 会わないのだ。  つきあうようになったのは彼女からの告白がきっかけだったけれど、そんな奥ゆか しさがぼくは大好きだ。 「もしかして、忙しかった?ごめんね、すぐ切るよ」  そういわれて、こっちが慌てた。全然忙しくなんかない。試験勉強そっちのけで、 雑誌を読んで一人喜んでただけだ。  そう思って、なんだか急にユミに申し訳なくなった。彼女はぼくのことを思ってく れてこうして電話してきてくれているというのに、今日のぼくときたら、大原舞のこ とで頭がいっぱいだったのだ。 「ユミ、ぼく……」  いいかけて、ぼくは黙った。今、ぼくは彼女に何を言おうとしているのだろう。大 原舞のことばかり考えていてごめん、と?  だめだ。それは言えない。付き合ってる子にそんなことは言えない。  ユミも、大原舞も、どっちも大好きだ。でも、その”好き”は同じ感情ではない。  ユミは、現実にぼくのすぐそばにいる、大事な人。  大原舞は、大人気の歌手で、ぼくの手の届かない人。  そう、”大原舞”は手の届かないところにいる人なのだ。 「タカ?」  何かを言いかけたまま黙ったぼくを、不思議そうにユミが声をかけてきた。  その声を聞いたとたん、 「ユミ、大好きだよ」  ぼくは、いつもならとても口にできないことを、さらりと言葉にしていた。  そうだ、ユミを大事にしていこう。今のぼくにできることは、それだけだ。  大原舞も大好きだけれど、その感情は誰にも言わずに、ぼくの心の中にしまってお こう。  誰にも言えないことだけれど、ぼくがそう思っているだけで、いろんなことが頑張っ ていける。  それでいい。何も変わらないけど、それでいい。 「タカ!?」  ユミのびっくりした声を聞きながら、ぼくはそっと雑誌の表紙をなでた。