彼女は蛇の鱗を思う

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 ある日突然、あるものに対する認識がまったく変わってしまうことは、かなりたちが悪い。



 国際魔法擁護団体は、通称<会社>と呼ばれる。国連の条約に基づき、日本では各都道府県に十から二十の<会社>が設置されている。魔法を使うことのできる者達――魔法士達は、生まれたときにどの<会社>所属かを決められ、魔法を使いこなすための訓練をここで受けることになっている。その訓練期間が終了したあと、魔法士達はある選択をすることになる。

「っだーーーーーーー!!!!」

 北海道札幌市にある<会社>の施設内にある実技訓練室で、元気なおたけびがあがっていた。

「ああーーったく! どうして有香にいつも勝てないかな!」

 学校の指定ジャージを着た少女が、どっかりと床に座り込みながら言う。汗だらけの顔を乱暴にタオルでぬぐう、長いおさげが特徴の彼女の名前は秋津朱鷺緒(あきづ ときお)という。視力はいいはずなのに、学校では伊達眼鏡を着用しているので、野暮ったいことこのうえない外見で通している。朱鷺緒曰く「これは私のポリシー」らしいのだが、息を切らしつつもしっかり立ったままの少女――有香にはそのこだわりが理解できない。

 山本有香。朱鷺緒と同級生にして友人。しかし朱鷺緒が明るくていささか元気がよすぎるきらいがあるのに対し、彼女は感情の起伏があまり大きくない。ほとんど正反対の性格のために、逆に親しくなれたのかもしれない。

 高校に入ってから、朱鷺緒と有香は<会社>で出会い、それからずっと縁が続いている。二人とも訓練終了後に同じ選択をしたのは、ただの偶然としか言えない。相談したわけでもないのに、気づけばこうして一緒に、放課後になると頻繁に<会社>にきて、訓練期間と何ら変わりのないことを続けている。

 そして、朱鷺緒が有香と魔法と体術で勝負した場合、有香が勝つのもずっと変わらなかった。

「朱鷺緒は直接戦闘向きじゃない。そんなの、今更でしょ?」

「……そうだけど。だけど、いつまでもそのままってわけにもいかないよ」

 朱鷺緒は、汗用スプレーを勢いよく首の後ろに噴射しながらぼやいた。彼女の姿勢は前向きかもしれないが、人間には向き不向きというのがあるのだ。

「朱鷺緒は、援護向き。魔法の質がそうなんだから、しかたない。私はその逆」

「……」

 納得していないことが見え見えの表情で、朱鷺緒は黙り込む。そして、おもむろに右の腕を持ち上げた。

 ばさばさと、羽音が降りてくる。その音は朱鷺緒の腕で止まった。銀色に輝く烏が、そこに舞い降りたのだ。

 もちろん、この烏は自然の生き物ではない。この烏こそが、朱鷺緒の魔法の性質を如実に語っていると言えるだろう。魔法士が魔法の力でもって生み出す、己のために尽くし仕える存在――使い魔だ。

 使い魔には、二通りある。一つは自然の生き物に魔力を与えるもの、そしてもう一つは、自分の魔力のみで創り出すもの。後者には、高い魔力はもちろんそれなりの技術や経験も必要になる。朱鷺緒も有香も、後者の使い魔を従えているのだから、二人の実力は推して知るべし、である。

 朱鷺緒の使い魔、銀の烏は名前をインウという。その美しさは印象的で、彼女の二つ名になっているほどだ。だが、インウにはもっと秘密がある。

「さて、有香。あんたもクロス呼んでよ」

「……何で?」

 その必要性に思い至らない。有香が眉根を寄せると、朱鷺緒は対照的に満面の笑みを浮かべてくる。

「今日、約束してたじゃないの」

「何を?」

 さらに問い返すと、朱鷺緒は頬を膨らませた。

「使い魔との戦闘をもうちょっとレベルアップしたいから、特訓しようって言い出したの有香でしょ!」

 まくし立てられて、ようやく有香は思い出した。確か、一ヶ月前に<仕事>をしたあと、朱鷺緒に特訓を打診されたのだ。彼女のほうが有香よりも、使い魔に関する能力は秀でているからだ。

 だが。

「なんで今なの? それに私、約束した覚えないけど」

「今日で休暇が終わりだから! 折角の休暇を、特訓して筋肉痛になって潰すなんてもったいないでしょ?」

 わかるようなわからないような理屈を、朱鷺緒は胸を張って言う。しかも、有香の後半の台詞は完全無視だ。そういえば、朱鷺緒はここ一ヶ月、まともに訓練所に顔を出していなかった。

「さー有香! さっきの借りを返すからね! ほらさっさとクロス呼び出して!」

 クロスは、有香の使い魔。コウモリの翼を持つ巨大な蛇の姿をしているが、性質は至って穏和だ。有香の有力な持ち技の一つでもある。

「ほら! ほら! ほら!」

 満面の笑みを浮かべて、朱鷺緒はインウを肩に有香に詰め寄ってくる。楽しそうなのは、さっきの敗北がよほど悔しかったからなのだろう。

 しかし、結局朱鷺緒の雪辱戦への願望は遂げられることはなかった。


 きーんこーんかーんこーん……。


「何ぃぃぃぃ!?」

 やたらと大きな動作で、彼女は天井を見上げた。スピーカーから流れてきたのは、チャイムの音と。

『本日の営業は終了いたしました。社内の皆様は、速やかに退出してください。一日お疲れさまでした。明日もまた、快適な業務を心がけ、がんばりましょう。……』

 どやどやと、多数の人がいっせいに同じ方向へ流れていく。すぐに朱鷺緒と有香、そしてインウだけが取り残され。

「……帰ろう、朱鷺緒」

 なにやらぐったりとはいつくばった朱鷺緒の肩を、有香は気軽にぽんと叩いた。




 遙か昔から、神秘的な力が存在するのか否か、人々は議論してきた。

 西暦2035年、ドイツの物理学者トーマス・シュナイダーが『魔法』の実在を明らかにする。

 西暦2060年、『魔法』を発動させるには発動体である石・ステイオンが必要とされていたが、ステイオンなしでも『魔法』を使うことのできる子供達が現れ始める。子供達は『魔法士』と呼ばれ、その十年後、国連は魔法士保護のために世界各地に『国際魔法擁護団体』の設置を義務づけることを決議。しかし、団体に所属せず犯罪に手を染める魔法士達も徐々に増加。団体はこれの取り締まりも責務とすることになる。

 そして、西暦2087年――。




 札幌駅は、当然といえば当然の事ながら、店が多い。地下街にあるパン屋は、手頃な値段となかなかいける味でちょっとした休憩スポットになっている。有香と朱鷺緒にとっては、<会社>帰りの寄り道ポイントの一つだ。

「腹立つー。結局今日は、私やられっぱなしじゃん」

 がつがつと生クリームたっぷりの菓子パンをほおばりながら、愚痴る朱鷺緒。有香はそれを無視してクロワッサンをかじり、その向かいでは……銀髪の少年がコーヒーを飲んでいる。

 かなり特殊な取り合わせだが、魔法発見から数十年、この少年のような存在はもうめずらしくはなくなっている。魔法士でなくとも、彼が使い魔だと一目でわかる。

 朱鷺緒と有香、二人の使い魔が共に持っているもう一つの能力がこれ――人間と近い形態への変化――だ。この力もまた、主の魔力の高さに関係する。

 インウが人に変化した場合、銀髪に金色の瞳の美しい少年になる。いつも朱鷺緒に忠実で、朱鷺緒を第一に考えている。朱鷺緒もまた、彼を大切にしている。

 今も、二人は目の前で仲良く話をしている。有香はたいてい聞く一方だ。そして、どこかでそれを腹立たしく思っている。

(インウはただの使い魔でしょう?)

 なのになぜ、好意を向けるのだろう。人と同じように、扱うのだろう。

「それでね。明日は必ず有香とクロスと訓練だから。インウ、大丈夫?」

「ああ。絶対勝つから、朱鷺緒」

「そうじゃなくて」

 朱鷺緒は首をかしげ、インウの顔を覗き込んだ。

「怪我しないようにね。インウが痛いのは、私いやだから」

 一瞬目を見開いたが、インウはすぐに微笑んだ。はにかんだように、心から嬉しそうに。

(どうして)




「インウは、おそらく朱鷺緒殿を好いています」

 有香の使い魔は、朱鷺緒とインウについてそう言った。

「あの者が、朱鷺緒殿が窮地に陥るときまって普段の実力以上の力を発揮する。我々使い魔という存在の特徴とは裏腹に」

 主が怪我をすると、通常の場合主自身の身体を護るために、魔法力は身体の内へ向かう。つまり、使い魔に流れ込む魔力が少なくなるため、そうなった場合使い魔は行動不能になることが多い。使い魔とは本来、そういうものだ。

「インウだけ、違う方法で創り出されたという可能性はないの?」

 感情などで使いの魔のもともとの性質まで変わるものだろうか。納得しかねて、有香はそう尋ねたのだが、返ってきた答えは「否」だった。

「我々は、皆同じように生まれます。人間が母親の腹から生まれるように。それは、変えることはできません」

 ならなぜ、インウは。

 問いを重ねる有香に、<彼>は優しく微笑みかけてきた。


「人も同じと聞きました。大切に想う誰かのために、無限に強くなることができるのだと。そして、そういう心を――」




「やめて――――!!」

 叫んで。

 目を開けると、真っ暗。

 ここが自分の部屋で、自分は横になっていたのだと一瞬遅れて有香は気づいた。半身を起こして、額に手を当てて長い溜息をつく。

 なんて夢を見ていたのだろう。いつのまにか、記憶が混ざり合ってしまっていた。

(よりにもよって……)

 もう、あのときのことは過去になったのだと思っていた。もう大丈夫だと、安心していた。

(朱鷺緒達のせいだ)

 朱鷺緒とインウ。あの二人が、目の前で仲むつまじくするから。そこら中どこにでもいる、カップルのように。――人間同士のように。

(馬鹿みたい)

 何度朱鷺緒に言ったかしれない。インウは使い魔なのだと。道具と変わりないのだと。

 そしてそのたび、朱鷺緒を怒らせた。彼女は有香と言い争いをしても、しばらく顔も会わせないような長引く喧嘩をしても、インウに向ける想いを変えなかった。

 インウもまた、そんな彼女の気持ちを無下にするはずはなく。

「どうして……あの二人は」

『マスター?』

 静かな声が、遠慮がちに呼びかけてくる。有香は顔を上げ、枕元にその影を見つけた。巨大な蛇。今は畳まれているが、その背には翼がある。

『ご気分が優れないのですか? 薬を取って参りましょうか?』

「いい」

 必要以上に、声が尖ってしまう。

 クロス。有香の使い魔。もう一年ほどのつきあいになるだろうか。朱鷺緒とインウのそれよりは短いのは確かだが、有香がクロスに素っ気ないのは決して時間だけのせいではない。

「ちょっと、散歩してくる」

『では、お供を』

「いらない。三十分しても戻らなかったら、探しに来ればいいから」

 寝間着を着替えようとして、クロスの存在を意識してしまう。有香は逡巡して、寝間着の上に直にジャケットを羽織った。靴を玄関から魔法で取ってきて、窓を開けた。

 風が、有香の短い髪を流した。夜の匂い。春の終わりを予感させる。

『……お気をつけて』

 やや躊躇いがちな、クロスの言葉にも有香は振り返らなかった。

 窓から、隣家の屋根へ。ふわりと着地して、すぐに跳躍。それを何度も何度も、機械的に繰り返して有香は夜空の中を跳んでいた。

 魔法という力は、人の持つ力を高めることができる力。有香は、肉体の能力を強化する術に長けている。それでも、幼い頃は両親に魔法で身体能力を上げることを禁止されていた。安易に魔法を使うことを覚えないようにという配慮だったのだろう。

 有香は素直にそれに従った。けれど、かわりに自分の力の別な使い方を見出した。

 それが、『使い魔』の能力。

 兄弟のいなかった有香は、偶然とはいえ得られた<友>を喜んだ。いつもいつも、そばにいてくれる兄弟のような友人のような、そして長ずるにつれ自分の子供でもあるような存在を有香は愛していた。

 ――それは、あのときにあまりにあっけなく、終わってしまったことだけれど。



 中島公園。昔からずっと人々の憩いの場であった、かなりの広さを持つ公園。有香がようやく移動をやめてそこへ降りたのは、クロスに言い置いてきた三十分をとうに過ぎた頃だった。

 使い魔と主は、特別な絆でつながる。使い魔は主の魔力を与えられることで生き、それゆえ主がどこへいても必ず見つけ出す。きっと、すぐにここへやってくるだろう。

 有香を追いかけて。

『こちらにいたんですね』

 探しにきてくれるのが嬉しくて。相手も自分を好きでいてくれるのだと、そう思えたから。

『私はあなたを捜せますが、あまり遠くへ行ってしまわないでください。あなたが心配ですから』

 小さな有香を抱き上げて、<彼>は困ったように微笑むのだ。その笑顔が好きで、有香はいつも遠くへ遠くへと足を向けた。探しにきてくれるのを、信じて待ちながら。

 いつでも、<彼>は有香を裏切らなかった。最期まで、<彼>は有香を探してくれた。案じてくれた――。

(――っ!)

 思い出してしまった。忘れていたと思っていたのに。安心していたのに。

『人と同じ感情が、我々にあるというのはばかげているのかもしれない。でも、私は信じたい』

 人よりもずっとずっと、真摯に見つめてくれた。想ってくれた。有香を、大切にしてくれた。

『私は、あなたをお慕いしております。あなたが大切です。何よりも――有香様』

 あの声も。あの温もりも。<彼>がくれた言葉も。すべて、有香の宝物だ。

 ――もう、宝物として胸に抱くことしか、できない。

「……ユーティス……っ!」

『マスター』

 ぎくりと、有香は肩を震わせた。転じた視線の先、今最も見たくない者を見出してしまう。

 巨大な、コウモリの翼を持つ蛇。

「……なんで来たの」

 自分でも、狼狽えているという自覚があった。それを気取られたくなくて、彼女は彼に背を向け声を尖らせる。

『三十分経過しても戻らなければ、探しにこいと』

「……」

 そうだ。有香もわかっていた。他ならぬ自分がそう言ったのだ。

 けれど、心は納得してくれない。

 クロスが憎かった。<彼>とまったく同じように、自分を探しに来る彼が。<彼>ではないのに、自分を見つける使い魔が。

「マスター」

 クロスの声の質が変化した。人の姿を取ったのだ。有香は思わず、自分の身体を抱き締める。

 変化をすると、クロスは長身で褐色の肌の、精悍な面差しの青年になる。その頬には鱗のような模様があり、背中でばさりと音を立てる、コウモリの羽根。

 有香は、そんな姿をした者を求めているのではない。

「もう少し散歩したいの。一人でね。……だから、ついてこないで」

「しかし、」

「来ないで!」

 今の自分では、クロスの存在を許容することができない。翼の生えた、有香に忠実な使い魔の青年。それは有香にとって、たった一人きりでなくてはならない。

「マスター!」

 有香は走り出していた。クロスの声を聞きたくなくて、その一心だけで駆けだしていた。

 公園を抜けて、冷たいアスファルトを蹴って。

 横から強い光を浴びせかけられて、ようやく彼女は我に返る。

 ――すべては、遅かった。

 衝撃。

 悲鳴。

 甲高い、大きな音。

 回る視界。

 一瞬の間の、記憶がない。

 怒鳴り声のようなものを聞いたと思って、彼女はそろそろと目を開けた。全身が痛い。特に肩は、ひどくぶつけたようだ。

 自分が道路に倒れていることも、少し遅れて認識できるようになる。だが、目の前にある現実を、有香の理性はなかなか認めようとはしてくれなかった。

「嘘……でしょ?」

 アスファルトにばさりと広がった髪。有香の身体にしっかり回されていた腕。

 閉じられた、瞼。

 鱗のある、その褐色の頬は――。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!!」

 絶叫して。

 有香の意識と記憶は、今度こそ暗闇に飲まれた。




「ユーティス!」

 自分を探しにきてくれた、大好きな友達を見出して有香はぱっと表情を輝かせる。翼を持つ純白の馬――天馬は、有香の目の前まで降りてくるとその姿を変じた。

「まったく……今日はいつもより遠くまでお出かけですね、有香様」

 金色の髪、青い瞳の青年。背には翼。小さな頃から、彼の美しさが、有香は大好きだった。そして彼の優しさはもっと好きだった。

 中学生になる頃、その気持ちは少しずつ変化していた。ユーティスは兄弟でも友人でもなく、有香にとってかけがえのない存在になった。

 けれど、それを彼に言おうとは思えなかった。彼は使い魔、人のような感情は持っていないかもしれない。だから、半ばあきらめていたのだ。

 そして、その代わりにユーティスが自分を探しに来るようにし向けた。探しにきてくれる瞬間が幸せだった。ユーティスにとっての自分の価値を、噛みしめることができた。

「有香様」

 その日も、ユーティスは彼女を捜しにきてくれた。そして二人、川沿いの道をゆっくり家まで歩いていた。学校帰りのセーラー服姿のままの有香が先を行き、数歩後ろからユーティスがついてきていた。

「あまり、知らない場所にまで行かれるのはお控えください」

 いつもの小言。けれど、彼の口調はいつも優しいから、有香も甘えてしまう。確信犯の『迷子』をやめることができない。

「だって、あちこち行ってみたいんだもの。高校に入ったら、多分私も正式に<会社>に入ることになるんだろうし……今のうちに、札幌の地形くらいは覚えておかないと」

 <会社>、正式名称は国際魔法擁護団体。この団体で実施される適性試験により、魔法士は子供の頃にその素質を見出され、団体に登録される。魔法士であること、並びに魔法士としての心得などは、ある程度の年齢に達してから研修という形で叩き込まれる。

 有香はまだ中学生、むやみに魔法を使ってはいけないと両親に教えられ、また年端もいかない魔法士が力を抑制できずに犯罪に走ることのないようにと、研修終了まで装着を義務づけられている魔力制御の腕輪のため、攻撃的な力は使えない。もしも何かを傷つけるために魔法を使おうとする意志が働いたならば(それは、盗難などの場合にも当てはまる)、魔法が発動する際に特殊な波動が出るらしい。腕輪はそれを感知して、それを抑える働きをする。

 だから、使い魔をそばに置くことはできても、使い魔に攻撃やその他の犯罪を命じることはできないのだ。もっとも、有香には最初からそんなつもりはない。ただ、ユーティスがいればよかったのだから。

 <会社>を引き合いに出した有香の言い訳を、忠実な使い魔は信じたのかどうか。しばらくは、沈黙が続いていた。

「――有香様」

 ややあって、口を開いたのはユーティスだった。

 静かな調子に、彼女も足を止めて彼を振り向いた。彼は、凪いだように揺らがないまなざしで彼女を見ていた。

「この街のすべては、私が覚えています。私が学んでいきます。これからずっと」

「ユーティス?」

「だから、有香様」

 彼は、有香との距離を縮めて、おもむろに膝をついた。有香が驚いている間に、彼は彼女の両手を自分のそれですくい上げて。

「っ!?」

「どうか、あまり危険なことはなさいませんよう」

 いつもは見上げている彼の青の瞳が、低い位置にある。視線の強さと、込められた想いの真摯さに、有香はどぎまぎした。

 ユーティス、と呼ばわる声すら、満足に紡げない。

 対照的に、彼の言葉は流れるようだ。

「あなたが望むなら、私はあなたを見つけにどこまでも行きます。あなたのかわりに、どんな遠いところにも赴きます。だから……有香様、私は」

 奇跡が、降ってきた。それはふわりと優しくて、火のように熱くて。

 有香は、頬を染めて唇を振るわせ、身体を壊してしまいそうなほどに激しく駆けめぐる、強い何かと懸命に戦わなければならなかった。

 けれど、彼女はそれ以上にこのとき、幸せだった。

 右手の指先が、燃えていた。ユーティスが躊躇いがちに唇で触れた箇所。そこは、炎だ。しかしそれでいて、同時に氷のようでもある。熱くて、冷たい。

 それが、この上なく心地よい。

「私は、あなたをお慕いしております」

 この、音律が紡いだ彼の心が。

 最上にして最高の、奇跡。

「あなたが大切です。何よりも――有香様」




 真っ暗だった。音も聞こえなかった。有香は、そこに一人うずくまっていた。

 自分はどうして、ここにいるのだろう。何が起きたのだったろう。思い出せない。思い出したくない。

「……有香」

 肩に、何かが置かれた。反射だけで、有香はのろのろ顔を上げる。

 目の焦点が合わず、目の前に何があるのかわからない。しばらくそうしていると、揺さぶられた。

「有香、しっかりして」

 知っている、少女の声。

「と、きお……?」

「そうだよ。大丈夫? <会社>から連絡うけて飛んできたら、こんな魂抜けたみたいになって」

 <会社>からの連絡。何かあったのだろうか。緊急に、有香達魔法士が動かなければならないような――。

(出かけないと……)

 空洞の中に響くように、頭の中で意思が反響している。

 出かけて、事件を解決しなければならない。自分は魔法士だから。

 それしか、彼女は罪滅ぼしの方法を思いつけなかったから。

「ちょっ、有香!」

 朱鷺緒が、腕をつかんで引いてくる。どうして邪魔をするのだろう。行かなければならないのに。

「行かなきゃ……。私は、魔法士なんだから……」

「クロスがこんな時に、どこに行こうって言うの!?」

 ――頭から、氷の柱を打ち込まれた。

 その一言がもたらしたのは、こう表現するのがふさわしい衝撃だった。

 信じがたい量の情報が、怒濤の勢いで有香に押し寄せた。有香は思い出した。自分がここにいる理由、ここに来ることになった経緯を。

「クロス……」

 自分を庇って、

 鱗と翼を持つ彼女の使い魔は。

「あ……ぁ……!」

 倒れて、動かなくなった。冷たいアスファルトの上で。いくら呼んでも揺さぶっても返事をしなくて目を開けてくれなくて手を握り替えしてもくれず名前を呼んでくれず見つめてくれない触れてくれないもう二度と

「いや……いやああああああああああああああああああ!!」

 帰ってこないまた有香は残されるあのときと同じもういやなのにもう二度とあんなことはいやだったのにどうして!!

「有香っ!!」

 がくん、と頭が震えた。身体の重心が傾いて、彼女はそのまま床に転ぶ。

「しっかりして、有香! 落ち着いてちゃんと考えて!」

 敷き詰められたタイルの冷たさが、ついた掌から伝わってきた。その冷たさと、打たれた頬の痛みで、有香の思考は一瞬だけ途切れた。

 そして、それは幸いした。有香はようやく、泣き出しそうな顔で拳を握りしめる友人に焦点を合わせることができるようになった。

「朱鷺緒」

「そう! 朱鷺緒だよ! 有香、ちょっとはもの考えられるようになった?」

 ぶっきらぼうな言い回しと、心底安心したような表情がちぐはぐだ。朱鷺緒は有香に手を伸ばして、彼女が立ち上がるのを手伝ってくれた。

「……そうだった。クロスが、わたしを庇って……」

「それで、近くの民家から<会社>に連絡がいったの。有香が取り乱してたから、心配だったんだって」

「……」

 その辺りの記憶は、有香自身にはない。相当に取り乱していた事実を突きつけられ、いたたまれなくて彼女は唇を噛んだ。

 けれど、今はそれより何よりも。

「クロスは? クロスはどこ?」

 朱鷺緒の腕を力任せにつかんで、有香は詰め寄った。自分を庇った――守ってくれた彼がどうしているのか。

 友人の少女は、顔を僅かにしかめながらも「大丈夫」とうなずいた。

「私は、それを有香に知らせにきたの」

 彼女の手を外させて、朱鷺緒は有香を促した。

「ついててあげて。もうすぐ目が醒めるはずだって。魔法医の先生が有香を連れてこいっていったの」

 魔法医は、魔法士はもちろん、その使い魔の治療にも携わる医師だ。有香はゆっくりと、朱鷺緒の言葉を頭の中で噛みしめる。

「魔法医の、杉村先生が……目が醒めるって、言ったのね?」

 言葉の一つ一つを、確かめるように区切る。朱鷺緒も、そのたびに首をこくこくと振る。

 そしてその最後には、笑顔。

「そう。だから、有香。目覚めて一番に顔を見せて、安心させてやりなよ」

 クロスは、無事。生きている。ここにいる。

 ――生きている。

「有香!」

 膝がくずおれた彼女を、朱鷺緒があわてて支えてくれた。



 病室のベッドに、巨大な有翼蛇が横たわっている。有香はそのそばに座って、じっと待っていた。朱鷺緒と魔法医の杉村は、気を遣ってくれたのか部屋を出て行ってくれた。何かあっても、コールボタンを押せばすぐに駆けつけてくれるという。

「クロス……」

 ようやく、有香も自分の魔力の動きを感知できるほどに冷静になることができた。自分の中から、魔力がクロスに流れ込んでいっている。クロスを癒すために。

 そう。有香には、わかるはずだった。クロスがもしも死んでしまったのなら、その魔力の変化が彼女に感じられないはずはない。使い魔と主は、一心同体なのだから。

(恥ずかしい)

 らしくもなく、取り乱していた。クロスが動かない、それがひたすら怖かった。

 また、一人残されるのかと思うと、どうしようもなく恐しくて、どうしていいかわからなかった。

 ――こんな形で、一番気づきたくなかったことに気づいてしまうなんて。

 どうすればいいのだろう、これから。変わらないわけにはいかない。目を背けられるほど、有香は強くない。

 どうしよう。

 ある日突然、あるものに対する認識がまったく変わってしまうことは、かなりたちが悪い。

「――!」

 クロスの身体が、動いた。彼女は身体を浮かせて、ベッドの端に両手をついて覗き込む。

『……う……?』「クロス」

 クロスの首が、そろそろと持ち上がった。

『マスター』

 間違いなく、クロスの声。聞きたいと切望した、有香の大切な使い魔の、声。

『……マスター?』

 次に聞こえた彼の言葉は、どういうわけかとても近かった。有香はいつの間にか閉じていた目を開けて――絶句した。

 彼女の両腕の中に、クロスがいた。額も、頬も、彼を感じていた。

『申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました。けれど、大事はありません』

「……」

 彼は、使い魔だけれども現実にいる普通の蛇と同じく、鱗を持っている。だが、掌に触れる彼のそれは、決して不快ではなかった。

 むしろ、ずっとこうして……。

(やっぱり、私)

 考える時間すらなかった。気持ちを整理する前に、身体が、心が動いていた。もう、手遅れだ。

「クロス、私……」

 瞬きすると、頬を何かが流れていった。彼女は、ますますクロスに顔を押しつけた。

 涙しか出てくれない。言葉は、嗚咽に阻まれる。胸がいっぱいで、泣くことしかできない。

 クロスが、こんなにも自分にとって重要なのだ。

 その事実が、痛い。

「泣かないでください、マスター」

 肩が、背中が。

 温かくしっかりと、包み込まれた。

「クロス……」

「泣かないで、ください」

 彼は、人の姿をとっていた。そうして、有香を抱き締めてくれている。

 有香の胸を締めつける何かの、形が変化した。それでも、苦しくて。

 有香は、またはらはらと涙を流す。

「どうして、マスターは泣かれるのですか?」

 クロスが困っているようだ。でも、涙が止まらない。止められない。

 彼を抱く腕に、力がこもってしまう。もう、嗚咽もこらえきれず、有香は小さな子供のように声を上げて泣いていた。

「マスター、どうか」

「ぅっ……う……」

「マスター」

 優しい声。優しい手。失いたくない。そばにいてほしい。もう二度と――。

「いなくならないで……」

 <彼>のように、置いて行かれてしまったら、もうきっと立ち直れない。

「……一人にしないで……」

 あんな悲しい想いは、絶対に絶対に。

 泣きじゃくる彼女の髪を、何かがそっとなでていった。

 驚いて、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、クロスの目が間近にあった。

 褐色の頬に、鱗が。切れ長の瞳は――。

(ああ……!)

 ユーティスの双眸は、晴れた空の青だった。クロスのそれは、闇のような黒。

 けれど、彼女をじっと見つめてくる視線の色は、同じ。

「好き……」

 ぽろり。

 有香の唇から、たった一つの言葉が落ちた。

「あなたが好きなの……」

「マスター?」

 いつからかは、わからない。

 でも、本当はこの気持ちは殺すつもりだった。ユーティスを、裏切るのと同じだと思ったから。ユーティスが最期の最期まで自分に向けてくれた心を、ないがしろにするのと同じだと。

(ごめんなさい)

 心の中で、彼女は今はもうどこにもいない青年を想った。

(ごめんなさい、ユーティス)

 だがもう、自分はこの手を放すことができない。

「マスター、私は」

 クロスの右手が、有香の髪に再び触れた。何かを言いかけ、唇を閉じる。

 有香は、じっと待っていた。

 彼の目が、見つめてくる。強く、深く。吸い込まれそうな錯覚に、有香は瞼を閉じた。

 半ば、それを予感していた。

 そっとそっと、唇に降りてくる温もり。遠慮がちなところが、いかにも彼らしい。くす、と思わず笑いが漏れる。

 と。それに戸惑ったのか、彼が遠ざかっていきそうになる。有香は夢中で伸び上がり、自分から彼を求めた。

 何度も、繰り返していたかもしれない。

 ――離れないで。

 ――放さないで。

 それだけを。




 ユーティスは、有香を好きだと言ってくれた。

 有香も、ユーティスを好きだった。

 それは真実だ。この先も絶対に変わることはない。

 そのために起きてしまった、あの悲しい出来事も、それは同じなのだとしても。

 有香の家の庭、その片隅に小さな小さな墓がある。中学生だった彼女が、自分の手だけで作ったもの。だが、葬られるべきものは、ない。

(ユーティス)

 あの日は、まだ夏だった。

 ――ユーティス!

 自分は、彼を呼んで。



「ユーティス」

 札幌の中心部を、有香とユーティスは歩いていた。特に目的があったわけではない。彼と一緒に歩けることが、とにかく嬉しかったのだ。

「ねえ、次はあっち側に行ってみようよ」

 人の姿になったユーティスの袖を引いて、有香は道路の向こうを指さした。ここは大通公園。平日でも天気のいい日にはたくさんの人が集まる。

 有香とユーティスは、学校が終わると真っ直ぐに公園にきたのだった。デートがしたいと、有香が望んだからだ。とにかくそのときの彼女は、幸福に有頂天になっていた。

 大通公園は、道路をいくつもまたがっている。ゆっくりと、公園の端から端までを散策すると、かなりの距離を歩くことになる。有香達はそうして歩いてきて、いくつ目かの横断歩道を渡ろうとしていた。

 勢いよく、ユーティスが顔を上げたのは、信号が青に変わる関わらないかのときだった。

「ユーティス?」

 目を見開いて、彼女は彼を見上げ。

 直後、身体が持ち上げられた。

「うわああ!?」

「なんだ、あれは!?」

「警察だ、警察を呼べ!!」

 そんな喧噪が、一瞬遅れて有香の耳に届く。彼女はユーティスに抱きかかえられて、もといた位置からかなり離れたところに移動させられていた。

「何……? 何が起きたの?」

「魔法士です、有香様」

 緊迫した口調で、ユーティスはささやいてますます有香を深く抱き込んだ。

 悲鳴が聞こえる。ユーティスの身体に目隠しされて、何が起きているのか彼女には見えなかった。それが怖くて、しっかりと彼にしがみついていた。

「大丈夫です、有香様」

 背中を、なでられる。

「あなたは、私がお守りします」

「……うん」

 それだけで、不安が跡形もなく消えた。彼がいれば何があっても大丈夫、そう思った。

 腕の中の彼女を、彼は見下ろして微笑んでくれた。同じ表情を返そうとしたが、彼が大きく震えたのが伝わってきて、彼女ははっとした。

「どうしたの、ユーティス……?」

「大丈夫です」

 間髪おかず、彼は応えた。そして、ますます深く有香を抱き込む。

 不吉な予感を覚えた。

「ユーティス、ねえ、放して」

「駄目です。今、そこで男が暴れていて……危険です」

 そのときもまだ、確かに悲鳴と怒鳴り声は続いていた。何を言っているのかはわからないが、緊急事態なのは充分わかる。だからこそ、何が起きているのかを有香は知りたかったのだ。

 ユーティスが、心配で。

「放して、お願いだから!」

「駄目です」

 懇願するほど、ユーティスの腕の力は強まっていく。次第に、痛いほどになった。

 それでも、彼は有香を解放してくれようとはしなかった。

 怖くて、不安で、有香はとうとうもがいた。何かが起きている。直感でそう悟っていた。この場にではなく、ユーティスにだ。

「ユーティス! ねえ、さっき何かあったんでしょ? お願いだから、放して!」

「いけません――っ、有香様!」

 くん、と。

 視界が、揺れた。すぐにひどい目眩がやってきて、有香の身体から急激に力が抜けた。

「お許しください……ですが、私はあなたを……」

 わんわんと、頭の中でひどい反響がしていた。その中にとぎれとぎれに、大好きな人の声が混ざる。必死で、彼女は頭を持ち上げた。

 刹那、周囲が遠ざかった。

「あなたは、必ず私がお守りします」

 彼の笑顔は、これまで見てきた中で一番綺麗で、優しかった。

 彼の声は、これまで聞いた中で一番温かく――切なかった。

 心の一点から、冷たい感情が一気に指先まで広がった。

 それが『哀しみ』だったのだと、知るよりも先に彼女は気を失っていた。

 ――目覚めると、病院だった。それからわずか数分後に、有香はそのとき何が起きていたのかを教えられた。そして、大きなものを失ったことも。

 心のえぐり取られた部分を補ったのは、憎しみだった。



「これが……<彼>ですか?」

 音を立てず、クロスが歩み寄ってきた。振り返らずに、有香はうなずいた。

「ユーティス……私を守って、死んでしまった人」

 あの日、有香達を襲った事件。魔法士による大規模なテロ行為の一つとして記録されている、通称<大通り7.3>。犯人の男が一人だったこと、<会社>の対応が早く、けが人も全員軽傷で死者がいなかったことで、魔法士に対する社会の反感はそれほど高まらなかった。

 確かに、『死んだ人間』はいなかった。喪失に泣いたのは、有香だけだった。憎しみに眠れない夜を過ごしたのも、やり場のない怒りに突き動かされて、夜の街を力の続く限り駆けるしかなかったのも。

 有香だけ、だった。

 ユーティスは、死んだ。有香を庇って、犯人が撃った魔法の攻撃に当たったのだ。異変を察知した有香を、それでも微笑んで、抱きすくめて。

 最期の最期まで。

「ユーティスは、私を守りきってくれた……」

 有香が失神してしまったのは、怪我をしたユーティスが一気に有香から魔力を吸収したためだ。だが、彼はその力を自らの治療ではなく、犯人が力尽きるか、或いは取り押さえられるまで彼女の盾となるために使うことを選んだ。

 犯人が、<会社>の魔法士達によって捕縛された直後、彼は消滅したらしい。現場に駆けつけた魔法士の一人から、有香はそのときの様子を聞かされた。

 ――この人を頼む。――

 その言葉を最期に、彼は消滅したのだという。使い魔は、命が終わるとき塵のようになって消えるのだ。

 使い魔は、もともと魔法士が創り出す存在。生殺与奪は、主である者が一切を司る。ゆえに、魔法士の一部と見なされる。

 つまり、たとえ彼らを傷つけても、罪には問われない。

 ユーティスの死を突きつけられ、半狂乱になった有香に、事情を説明してくれた魔法士は静かにそう言った。

 ユーティスにしたことを罪として、あの男を裁くことはできない――。

 ぎり、と奥歯を噛みしめる。あのときの憤りは、悔しさは、憎しみは、きっと一生忘れることなどできない。

 だが。

「……忘れることはできなくても」

 ゆっくりと、有香は温かいものに包まれた。

「どうか、思い詰めることはなさらないでください。これからは、私が」

 身体の前にある、大きな手に有香は自分のそれを重ねた。

「私が、お傍におります。ずっと。お約束します」

「……うん」

 ユーティスを死に至らしめた、あの男が許せなかった。

 その男を裁くことができないという、その事実が許せなかった。

 けれど一番許せなかったのは、彼を犠牲にしてしまった自分。

 有香は、高校合格の通知を受け取ると同時に、正式な<会社>所属の魔法士となった。魔法に関することは無理でも、体力作りはあの日からずっと続けていた。<会社>に入ってからは、死にものぐるいで魔法の理論・実践に取り組んだ。そして、犯罪を犯す魔法士達を、無我夢中で捕縛した。

 それが、ユーティスへの罪滅ぼしになると思ったから。

 有香が<会社>の仕事をするのは、彼のためと、自分への罰だった。

 クロスを使い魔として生み出したのは、<会社>に入って半年後のことだった。

「クロス」

「はい」

「私、あなたに謝らなきゃ」

 そっとクロスの手を外させて、有香は彼のほうに向き直った。一度深く深呼吸して、彼女はきっぱりと口を開いた。

「私、あなたをずっと、道具みたいに思ってた」

 彼は、まったく反応を示さなかった。瞬きすらしない。揺れる瞳を、有香は彼から逸らさないように懸命だった。

 使い魔がいなければ、広範囲での犯人探索は困難だった。そのことを痛感させられた有香は、かなり迷った末に使い魔を生み出すことを決めた。だが、新たに誕生した使い魔の姿を見て、愕然とした。

 青い瞳の天馬、だった。

 すぐに、有香はその使い魔を……別の形に変化させた。

しかし、何度変化を繰り返させても、必ず使い魔の身体から消えないものがあった。

翼。

「あなたの……コウモリの羽根を持った蛇であるあなたの姿になったとき、もういいかなって思ったの。天馬の翼は白鳥のものだけど、あなたのはコウモリで……消せないのなら、しかたないけど、コウモリならって、無理矢理納得することにした」

 人の姿になったその使い魔は、ユーティスとは似ても似つかなくて、それも有香を安堵させていた。

 ユーティスはどこにもいない。ならば、彼ではない使い魔は必要ない。そう思いながらも結局使い魔がいなければ魔法士として思うように働けない自分に苛立ち、ますます彼女は訓練と仕事に打ち込んだ。

 そして、一年。

 やはり自分は、一生ユーティスを背負っていくのだろうと、思い知らされた。

「私は……あなたを好きなんじゃない。あなたにユーティスを重ねてるだけ。だから、あなたが死んでしまうのは耐えられない……そういうことなんだって、わかったの」

 一歩、彼女はクロスから後ずさった。足下にある、ユーティスのための墓石に、視線を転じる。

「ごめんなさい」

 気を抜くと、泣き出しそうだ。

「やっぱり私、あなたを生んじゃいけなかった。彼を通してしかあなたのことを考えられないなら、あなたを使い魔としてそばに置いちゃいけなかった……」 ユーティスを思い出したくなくて、冷たく接した。ユーティスでないのならば、いらない。そう、自分に言い聞かせ続けてきた。

 この使い魔は、道具。自分はユーティスを裏切っていない。

 そうやって、自分を安心させるために。

「謝ってすむ事じゃない。今更こんな事言ったって、どうにもならない。……だけど……私は、あなたに謝ることしかできない……」

 ごめんなさい。

 深く頭を下げて、彼女は言葉を絞り出した。

 欺瞞でしかないと、嘲笑う声が自分のうちから聞こえてくる。

 落とした視界の中で、クロスの足が動いた。

 反射的に強張った有香の肩を。

「――っ!?」

「思い詰めないでくださいと、言ったばかりです」

 クロスが、有香の腕を引いて、抱き込んでいた。

 驚いて、無意識にそこから逃れようとする有香の上に、クロスの声はゆっくり降りてくる。

「あなたが何を想い、私を生み出してくれたのか。少し前ならば、知ることで狼狽えたかもしれません。けれど、今は違います」

「クロス……放して」

「私は、あなたを大切に想っています」

 呼吸が、

 鼓動が、

 思考が、

 ――止まった。

「あなたが大切です。あなたは、私のすべて。あなたが私をどう思っていようと、……私を、誰かの身代わりにしていたとしても、私の心は変わらない」

 一度、クロスの身体が離れ、すぐに。

 彼の唇は、有香の額にそっと触れた。

 信じがたいほど優しく、驚くほど熱く。

「マスター」

 口づけが、額から頬に降りてきて、

 有香は耳朶に触れるささやきに身を震わせた。

 熱い。

「あなたを愛しています、マスター――有香様」

 呼ばれる名前の響き。

 それは、もういないあの人とまったく同じだったのに。

(――違う)

 わき上がってくる想いの色が。もたらされる感情が。

 あの人とは、違う。

「クロス……!」

 彼の名を口にするより早く、有香の唇は、彼のそれにしっとりと覆われていた。

 唇を重ね合う歓びは、有香が知らなかったもの。あの人が、教えてくれなかったもの。

 有香は、泣いていた。

「あなたを愛していくことを、お許しくださいますか?」

 目に涙を一杯にためた彼女が、答えるより早く彼は言葉を続けた。

「それだけで充分です。ですから、有香様」

 こぼれる涙は、クロスの唇が吸っていく。

「……私、ずっとユーティスを忘れられない」

「はい」

「何年経っても、あなたに応えられないかもしれない」

「はい」

「……それでも?」

 問いかけには、口づけが返された。

「あなたの望むままに。ずっと、おそばにおります」

 抱擁。

 有香は、おずおずと腕を持ち上げて、クロスを抱き返した。




「ねー。有香あんた私になんか隠してるでしょ?」

 セーラー服の袖をまくり上げて、下敷きでばたばたと顔を扇ぎつつ、購買のパンを食べていた朱鷺緒が、いきなりそんなことを言い出して有香は思わず箸を止めた。

「何、藪から棒に」

「彼氏できたでしょ」

 ……ここで、箸を落とさなかったのはよくやったと自分でも思った。

「根拠は?」

「最近綺麗になった。雰囲気が柔らかくなった。あと、コスメとかにも気を遣ってる。その他」

 朱鷺緒は、観察力が異様に鋭い。しかも、余計なことによく気づく。

「あんたの考えすぎ。化粧品とかは、もうすぐ夏なんだからしかたないじゃない。日焼けしたらあとで大変なんだし」

「……ほら、やっぱり」

「何が?」

「『日焼けしたら大変』なんて。去年の有香は、まったくそんなこと気にしなかった」

「……」

 本当に、余計なことにばかり記憶力が働く。どうにかして切り抜けないと、彼女はきっと満足幾回答を得られない限りしつこくしつこくしつこくしつこく追求してくるだろう。伊達に一年以上同僚はやっていない。

「さー有香。正直に白状しちゃいなさい! 彼氏できたでしょ!?」

「できてない」

「隠すとためにならないよ〜。なんだかんだ言っても身体は正直なんだから〜」

「わけわかんないよ」

「ねーねーってば、有香〜」

 朱鷺緒は、筋金入りのしつこい性格の持ち主だった。

 どうしたものかと、有香は髪の毛をかき回す。

『マスター』

 ――絶妙なタイミングで、朱鷺緒と有香の間にその影が割って入ってきた。

「クロス」

「ちょっ、どうしたの!?」

 今いいところなのにーと喚く朱鷺緒に、巨大な翼蛇は優雅とさえ表現できる仕草で一礼した。

 そして、すぐに有香を振り返る。

『<会社>より連絡です。できるだけ速やかに、マスターにお越しいただきたいと』

「わかった。今から行く」

「ええー!」

 最後の声は、もちろん朱鷺緒。

「なんで有香だけ!? 私も一緒に行くよ!」

「授業始まるでしょ。それに心当たりあるから、一人で行ってくる」

「何それー!?」

「先生に説明よろしくね、朱鷺緒」

 有無を言わせない勢いで、有香は一方的に指を突きつけ、朱鷺緒を置いて教室を走り出る。少し後ろには、クロスがついてきている。

「ありがとう、助かった」

『いいえ』

 振り返らないで、短く交わす言葉は、今は特別で大切だ。

 愛していると言われてから、もう半月。しかしクロスとの関係が変化したことを、まだ公にするのは気恥ずかしい有香だった。クロスに、人前では「マスター」と呼ばせるのもそのせい。

「ところで、本当に<会社>から呼び出しがあるの?」

 廊下の、人気のないところで、有香は足を止めた。巨大な蛇は、すでに青年の姿に変わっている。

「有香様がいらっしゃるのでしたら、私はお供いたします」

 確信犯の笑みを、二人は交わし合う。

 ――数分後、青い空を横切る巨大な翼持つ蛇の影が、力強く飛び立った。

 その背に、最も大切な存在を乗せて。


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