『手を伸ばせ』



 僕は穴に落ちた。一人ではよじ登れないような、深い深い穴。懸命に、ここからでようとしたのは最初のうちだけだった。今はもう、動く気力も起きなくて座り込んでいる。
 もうどれくらい、僕はここにいるのだろう。穴の入り口から見える小さな小さな空は、晴れたり曇ったり、雨が降ったり、朝になり夜になり。
 その些細な変化は、時折僕を慰めてくれるけれど、僕の心を染め尽くしてしまった感情を払うには至らない。
 僕はもう、あの空まで登ろうとは思えないでいる。もうずいぶんと前、はい上がろうとしたときの懸命さ、それが報われないあの言葉では言い表せない悔しさと無力感が、僕を完膚無きまでに打ちのめした。僕はもう、それに打ち勝つだけの強さを持っていない。すべて奪われてしまった。消えてしまった。
 僕にできるのは、この穴の中で朽ちるのを待つだけだ。
 ああ、今日も空が青い。太陽が昇った。
 雲が流れる。
「ここでなにをしている?」
 ――丸い空が、不意に何かに遮られる。黒い何かは、言葉を発した。
 人、か?
「生きているか? ここからでるなら、手を貸してやるぞ」
 出る?
 出られる?
 ここから?
「ほら、手を伸ばせ」
 黒い影が、動いた。こちらに手をさしのべたのだろう。何となくそれはわかった。
 しかし。
「無理だ」
 立ち上がることすらせず、僕は首を横に振った。
「こんな深い穴で、僕が手を伸ばしたところでどうなる? 届くはずがない。君がロープか何かを持っているなら別だけど」
「あいにく、そんなものはない」
「……なら、無理だ。僕はここから出られない」
 立ち上がって手を伸ばしたところで、届かない。助け手が現れたと思ったけれど、そうではなかった。ロープもないという。やはり、僕はここから出られない。
「ロープをとってきてくれ。そうしたら、出られるかもしれない。だから――」
「俺がロープを探している間、お前はどうするつもりなんだ?」
 僕を遮って、上から問いが降ってきた。どうするなんて、決まっているじゃないか。
「ここで待っている。自力では上がれないから」
 他にどうしようがある?
「甘えたことを言うな!」
 大音声に、僕は震える。僕の身体を打ったのは、紛れもない怒気。
「ロープを持ってきて、降ろしてやればお前はそれを伝ってのぼってくるのか? いや違う、お前はきっと、それを身体に巻き付けて俺に引き上げられるのを待っているだろう。そんな奴のために、力を使うのははっきり言って無駄だ」
「無駄……?」
 無駄。
 無駄か。
 だったらもう、放っておいてくれ。
「僕を助けるつもりがなくなったのなら、行ってくれ」
 微かに、希望を抱いてしまった。でも僕の助けにならないなら、そんなものは苦痛でしかない。
 希望があると思ってしまったら、それにすがりたくて渇望する。でも、手が届かないならその感情は僕を灼くだけだ。
「叶わないなら、このままでいい」
 何も感じず、ただ衰えるのを待つだけの方が、ずっと。
「お前は助かりたくないのか?」
 だが、まだ声は聞こえてくる。もう放っておいてほしいのに。
「助かりたいさ。だけど、君は僕を助けるつもりはないんだろう?」
「そんなこと、一言も言ってないぞ」
 僕は、ゆっくりと顔を上げた。青い空が、人の頭の形に切り抜かれている。
 そして、手が。
「――!」
 その手はまだ、僕に向かって伸ばされていた。
「助かりたい意志があるなら、俺はいくらでも力を貸す。だが、お前がそのため自ら動こうとしないなら、俺が何をしようと無駄になる。ロープを持ってきたとしても、お前がそれを登ってくるつもりがないなら、ロープはただのロープだ。お前がそれをつかんで上を目指して初めて、ロープは命綱になる」
 僕は、思わず立ち上がっていた。
 ――そのロープを、ただ身体に巻き付けて引き上げられるのを待つだけでは、無意味。上から僕を引き上げる力が働かなければ、結局僕はここから出られないのだから。
 そうだ。僕が本当にここから出ることを願うなら。
 僕は、出ようとしなければならない。
「僕は……」
 伸ばされた手までの距離は、それでもかなり大きい。
 躊躇っていると、声はなおも力強く僕に語りかけた。
「手を伸ばせ」
 それは命令であり、叱咤であり、激励。
「お前が手を伸ばせば、それだけ俺の手に近づく。外に近づける。だから、手を伸ばせ」
 手を伸ばせば。
 伸ばした分だけ。
「あの空に……近づける」
 外の世界に。
 僕は、深く息を吸い込んだ。
 あの手までは、少し遠い。
 だから近づくために、僕は土の壁に爪を立てた。




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