トレンドはある日突然やってくる。流行とは流感にほかならない。
――ボンゴレビアンコ評論家アヤノ・ヘミングウェイ



『今日は素晴らしい秋晴れの一日になりそうです。それでは皆さん、ボンゴレビアンコ!』
 朝の七時五十八分。陽気なお天気お姉さんのコーナー終わりの挨拶は、ここ数日いつもこればっかりだ。
「ミユキちゃんってさぁ、すごいカワイイんだけどボンゴレビアンコのセンスはいまいちだよね」
 イタリアンレストランの息子のくせに強固な和食党の弟トモが、味噌汁をすすりながらしたり顔でコメントする。
 まあ、私だって朝からイタリアンは食べないけどね。朝はやっぱりパンだと思うのよ。味噌汁にご飯に焼き魚だなんて、老人みたいじゃない?
「やっぱり朝のボンゴレビアンコは八チャンのアユアユに限るっ」
 おっさんみたいな女子アナ萌え発言をしつつ、すかさずチャンネルを変えるトモ。ったくもう、星占い見たかったのにな。
「馬鹿言ってんじゃないの。ごちそーさま!」
 星占いはさっさと諦めて、食器を片付けながら私は立ち上がる。のんびりしてたら遅刻しちゃうもの。
「あ、アカネ。今日はお店手伝えるの?」
「うん、今日は部活ないし。早く帰るよ」
 流しで手際よく食器を片付けながら、母さんが私を呼び止める。
 平日でも部活がなければ早く帰ってお店を手伝う。父さんがコック長を務める小さな家族経営のレストランを支えるためだし、仕方ない。ほんとは、ちょっと遊びたい年頃なんだけどね。いやぁ、看板娘も楽じゃない。
 とろとろしているトモは無視して、私は玄関から飛び出した。



 自慢だけど、シェフとしての父さんの腕はかなりのものだ。
 スズキ料理店は六つしかテーブルのない、小さなお店。それでも常連さんに愛されてるおかげで、今日もなかなかいい客の入りだ。
「すいませーん」
 二番テーブルから常連のタナベさんとゴトウさんが呼んでいる。看板娘の出番だわ。
「あ、はい、今いきまーす」
「やあ、アカネちゃん、今日も偉いね」
 タナベさんもゴトウさんもご近所さん。こういう人情たっぷりなおつきあいは大切なのよね。
「親孝行は早めにしておいた方がいいかなーなんて思ってますから。ご注文、どうぞ」
「じゃ、僕はボンゴレビアンコ」
 と、なぜか頬を赤らめてタナベさん。
「こっちもボンゴレビアンコ」
 こっちは意味深に視線をそらしたゴトウさん。
「またですかぁ、最近いっつもそればっか頼みますよね?」
 にっこり笑って答える私。ええ、愛想笑いも仕事のうちですから。
「い、いや、スズキさんのボンゴレビアンコはとにかくうまいから」
 わざとらしい言い訳もいい加減聞き飽きてる。いい年して色気づかないでほしい。
「父さんの料理はなんだってオススメですよ。わかりました、少々お待ちくださいね」
 これ以上いじめて客足が遠のいたら困るので、私は笑顔で引き下がることにした。
「あ、ちょっと」
「はい?」
「悪いんだけどさ、一応注文を繰り返してもらえないかなーと思って」
「そ、そうそう! 念のためにさ、頼むよ」
 頼むから、私が笑顔でいられる内に下がらせてくれないかな、オヤジども。
「やっぱり、最近お二人ともちょっと変ですよ。わかりました。ご注文を繰り返させていただきます。ボンゴレビアンコお二つでよろしいですか?」
 人間てすごいなぁ、どんなにイラついてても、笑顔でこういうこと言えるんだもんなぁ。
「はい、間違いありません! ありがとな、アカネちゃん」
 足首まで届くギャルソンヌ・エプロンの下で拳を握りしめてたのは内緒。
 私は注文を伝えに、父さんが一人で切り回してる厨房に顔をだす。
「父さん、ボンゴレビアンコ二つ」
「……最近、多いな」
 茹で上がりのパスタを味見しながら父さんが言う。
「そうよね。まったく、失礼な話よ」
「いや、客足自体も増えてるし、問題ない」
 ぶっきらぼうに聞こえるかもしれないけど、父さんにそんなつもりはない。
 父さんは今どき珍しい、寡黙で職人肌な男なのだ。私はすごくカッコいいと思ってる。
「うふふ、看板娘のおかげかしらね?」
「……ああ、そうだな」
 それだけ言うと、父さんは忙しく手を動かして、もう私の方も見てくれない。
 それにしても、一体世の中どうなっちゃったんだろう? いつ頃からかははっきり覚えてない。けれどいつのまにか、その言葉をやたら耳にするようになった。たぶん、流行り言葉なんだろうとは思うけど……
 ボンゴレビアンコ。なんの脈絡もなく、文脈すらも無視して使われるその言葉が、確実に私の生活を侵食してきていることに、私はまだ気づいていなかった。



「たたたた、大変だーっ」
 今日も今日とて平和な午後のひと時を、学校帰りのトモの大声がぶち破る。
 料理店経営の我が家では、ディナータイム開店の前のこの時間帯が、貴重な一家団欒の時間なのだ。
「トモ、家の中を走るな」
 リビングルームに飛び込んできた馬鹿息子に父さんの渋い一喝。
「ごめんごめん、だけど、ホント大変なんだよ、すごいんだよ!」
 そんな父さんの言葉にもまったく悪びれないトモは、郵便受けから取ってきたらしい封筒を片手に、興奮がおさまらないようだ。
 ったく、一体なにをそんなに騒ぎ立ててるのやら……
「姉ちゃんが、審査に通ったんだ!」
 は? これは予想外の攻撃。
「審査? なんのことよ?」
「第一回ボンゴレビアンコ全国大会に決まってるじゃないか!」
 またボンゴレビアンコかよっ。というか、全国大会って、なんの話!?
「ぼ、ボンゴレビアンコ全国大会ぃ? トモ、ちょっとそれよこしなさいっ」
 ソファから立ち上がり、私はトモから封筒をひったくった。
 なになに……第一回ボンゴレビアンコ全国大会にエントリーいただきありがとうございました。厳正なる書類審査及び音源審査の結果、スズキアカネ様は本戦出場者に選ばれました。当日、両国国技館にてお待ちしています……って、はぁ?
「音源審査って、私こんなの応募した覚えないわよっ!?」
「ったりめーじゃん、応募したの俺だもん」
 自慢げに笑うなこの馬鹿弟!
「はっ? あんたなに人に無断で勝手なことしてんのよ!」
「大変だったんだぜ、姉ちゃんが店で注文取ってる声隠し録りしてさ。おかげで全国大会出場なんだから、感謝してほしいね」
 隠し録りだなんて卑怯すぎる。姉が勝手にジャニーズ事務所に応募しちゃいました、みたいな阿呆コメントじゃあるまいし、勝手に人の人生引っ掻き回しといて感謝しろとはいい度胸だ。
「感謝って、あんた」
 まずい、怒りのあまり声も出ない。なんでこの私がボンゴレビアンコみたいな意味わからん流行に踊らされてやらなきゃならないの? それもこんな馬鹿弟のために!
 姉弟の間に張りつめた(実際にはトモはへらへらしてるから、私から一方的に張りつめてるんだけど)緊張の糸を完全に無視して、私の手元を覗き込んだのどかな母さんの声が割り込んできた。
「あら、優勝者には賞金もでるのね? えーっと、え、一千万円ですって!」
 い、一千万! 世の中間違ってる、こんな馬鹿げた企画に一千万円投げ出すような人間がいるなんて! がんばれよ累進課税。そんなにお金が余ってるような奴からは1銭残らず搾り取ってくれよ税務署。
「姉ちゃん、頼むよ。勝手に応募したのは謝るからさ、大会でてくれよ。姉ちゃんのボンゴレビアンコなら優勝間違いないって」
「そうよ、減るもんじゃないんだし。アカネ、がんばって優勝してちょうだい」
 おいおいおい、賞金目当てなのかよ、こいつらは……目の色変えて迫ってくる母さんとトモに後ずさりながら、私は唯一沈黙を貫いている父さんに助けを求めることにした。
「父さん……なんとか言ってやってよ」
「……」
 ダメだ、こういう時もびしっと黙って決めるのが父さんなんだ。
 私は力なく肩を落とした。
「あなたも黙ってないで、喜んでちょうだい。トモ、この大会は有名なの? テレビとか、取材もたくさんくるかしら?」
「トーゼン! 今年最大の注目度だよ! 大会の独占生放送が八チャンで、代表選手の姉ちゃんはもちろん、家族だってインタビューとかされちゃうぜ? アユアユが、俺にインタビュー……はあ、待ちきれないぜ」
 トモ……あんたは女子アナ目当てに姉を売りやがったのね……
「すごいじゃない! きっとお店の宣伝にもなるわよ。それに優勝したらもう一回りくらい大きく改装するってのもいいわね」
 まずい、トモ以上に母さんが乗り気だ。
「ちょっ、母さん勝手に妄想膨らまさないでよ!」
「アカネ、母さんあんたのこと応援してるからね」
 お金に目がくらんだ主婦は怖い、怖すぎる。いたいけな女子高生の私には太刀打ち不可能だ。
「って、そんな、私まだ大会に出るなんて一言も……」
「姉ちゃん、今さらなに言ってんだよ。出ないワケいかないだろ、この状況。姉ちゃんの両肩にスズキ料理店の将来がかかってるんだぜ? なあ、親父?」
 トモの声につられて見れば、父さんは新聞をたたんで立ち上がっている。あれ、父さんどこ行くのよ? 何も言わなくていいからせめてそこにいてよー。
「……アカネの思うようにすればいい」
 好きに……できる状況じゃないって、父さん。ああ、私も父さんのような強さが欲しいわ。
「あなた、どちらへ?」
 そのままリビングルームを出て行こうとする父さんに、母さんが声をかけた。
「仕込みだ」
 娘の危機にも店の準備を怠らないなんて、男前すぎだよ、父さん。
「今日は随分早いのねぇ。でもまあ確かに、これでお店も忙しくなるものね。気合いれてがんばってもらわなきゃ」
 ああ、やっぱり私の大会出場は決定事項ですか、母さん。



 両国国技館は人でいっぱいだった。
 テレビ局がスポンサーについてるからってことはあるんだろうけど、日本人ってやっぱり頭悪いかもしれない。こんなわけのわからない大会を見に来て何が面白いのかと、小一時間問い詰めたいよ。
 私はどこにいるかって? はは、名誉ある選手控え室ですよ。ここからは観客席に放送席、試合が行われるステージまでモニタリングできるハイテク設定ですよ……泣きたい。
『さあ、記念すべき第一回ボンゴレビアンコ全国大会、いよいよ佳境に入ってまいりました! ついにベストフォーが出揃いましたここで、本大会の主催者兼審査委員長のミス・ヘミングウェイとともに、各選手の顔ぶれを確認していこうと思います。ミス・ヘミングウェイ、よろしくお願いします』
 アユアユと交際の噂があるとかないとかで、トモに毛嫌いされてる男性アナウンサーが妙に高いテンションでしゃべっている。
『よろしくお願いします』
 それに落ち着いた様子で答えるのは栗色の髪の色素の薄い美女。あいつがこの狂宴の主催者か。ハーフの金持ち美女だなんて、心から納得いかない。これはやっかみだけじゃないはずよ。
『さて、準決勝を前に四強が出揃ったわけですが、ずばり、ミス・ヘミングウェイがもっとも注目してらっしゃるのは誰ですか?』
 ああ、お気づきですね。はいそうです、次は準決勝なんですよー、それを前に私がまだ選手控え室にいることの意味は……言うまでもないですよね。ははははは。
『難しい質問ですね。審査委員長の立場上、ここでそれを明言することは避けましょう。ですが、どの選手も大変な実力の持ち主であることは間違いありません』
 あんな試合のどこに実力とやらが関わってくるのやら。
 だって、やることって言っても、電飾だらけでこっぱずかしいステージに上がって、一対一で会話するだけなのよ? で、会話の中に織り込まれたボンゴレビアンコのセンスとやらを審査委員が協議して、勝者を決めるの。
 正直、なんでここまで勝ち残っちゃったのかわからない。わけわからなさすぎて恥ずかしい……もう帰りたい。
「……なにが、実力よ。あーもう、なんでこんなことになっちゃったかな」
 本音が口をついて出た。
「聞き捨てなりませんわね、その言葉」
 そんな傷心の私をまだ鞭打ちたいという悪魔がいるのだろうか。同じく選手控え室に残っていた人物に私は背後から声をかけられた。
「別にいいでしょ、ほっといてよ……って、あなたは」
 振り向いてびっくり。なんだこの、たて巻きロールのゴスロリ少女は?
「お初にお目にかかります。あたくしはナナカマドユウカ。あなたの敵ですわ」
 えー、自己紹介もぶっ飛んでるよー。
「え、敵って」
「ふっ、とぼけるのはおよしなさい。スズキアカネ、あなたもわかっているのでしょう? 決勝戦のステージで、会いましょう」
 うわぁ、勝つ気満々なんだね、ゴスロリさん。
 颯爽と去ってゆくフリルだらけの少女を見送りながら、私は今日何度目になるか数えたくもない溜め息をおさえられなかった。
 こんな変なルールの試合、やっぱり変人しか勝ち残ってないじゃん。私はその仲間だと思われてるのかしら……明日は学校行きたくない。
 このまま控え室から脱け出してやろうかと真剣に考え始めたところで、無情にも私は試合に呼び出されることになった。
 女子高生らしく制服姿で、私はステージに向かって花道を歩いていく。
 人の視線がこんなに殺傷能力を持つなんて、私は今日初めて知りました。
 期待だか嘲笑だか羨望だか、なんだかもうわからない視線と歓声に晒されながら、私はまばゆくライトアップされたステージにたどり着く。案内役のスリムなお姉さんの指示に従って、趣味の悪い玉座みたいな椅子に腰かければ準備完了だ。
『ただいまより、準決勝第二試合を開始いたします。両選手とも、準備はよろしいですね? 鮮やかなる勝負を! レディー・ファイッ!』
 熱血アナウンサーのコールが試合開始の合図。
 対決する二人の間を仕切っていた目隠し用の幕が上がり、私は準決勝の相手と対峙した。
 ……いきなり萎えた。
「やあやあお嬢さん。この名誉ある準決勝の場において、君のようにかわいらしいお嬢さんに出会うことができて、ボクは本当に幸せだよ」
 ラメ入りサテン生地をふんだんに使用した、一昔前のアイドルみたいな王子様衣装。袖口及び裾には贅沢にレースを施しましたって……すっごい資源のムダだーっ。
「そ、そうですか……どうも」
 いや、ここまでの試合でもまともそうな人にはほとんど当たらなかったけどさ、これはないよ。アリかナシでいったら力いっぱいナシだって。
『おおっと、どうしたスズキ選手。完全に押され気味かっ』
『いいえ、彼女の実力はこんなものではありません。静かにご覧なさい』
 人の気も知らないで勝手なアナウンスが入る。どうでもいいよ、もう。
「ふふ、謙遜することはない。なんといってもこのボクは、君に首ったけ……そう、君につかまってしまったのさ……君の瞳にボンゴレビアンコ」
 さむっ。
『でたっ! サイジョウ選手の必殺技、ボンゴレビアンコ告白ホールドっっ』
『さあ、ここからがおもしろくなりますわ』
 えー、必殺技かよ、今の。こんなのが勝ち上がってきたなんて。私は少しでも現実から逃げるために、ここまで一切の試合をモニター観戦することを拒絶してきたことを後悔した。
 こいつとあたることがわかってたら、トモと母さんに殺されても棄権の道を選んだに違いな……やっぱ無理だったろうな、トモも母さんも目の色変わってたし。うわ、リアルに鳥肌立ってきた。
「いやむしろ、ボンゴレビアンコ・シルブプレ?」
 いやもうすでに意味をなしてないから、その言葉。
『さらに追い討ち!』
 今のが追い討ちかよっ。
「全身全霊ボンゴレビアンコ」
『どうしたスズキ選手! サイジョウ選手の猛攻撃の前に、もはやノックアウト寸前か!?』
 いや実際ノックアウト寸前です。逃げ出したいのは山々ですが、寒すぎて体が動きません。
「ボンゴレビアンコの君を愛す」
 この状況を打開するために、私は口を動かすことに決めた。
「わかった。ちょっと待って。私にも一言言わせてよ」
『ついに、スズキ選手が沈黙を破りました!』
 すうっと、深呼吸。
 推定年齢三十代後半、そこはかとなく生え際のわびしい勘違い王子様に、私は心からの一言を贈る。
「あのさぁ、いい大人がボンゴレビアンコボンゴレビアンコ連呼して、哀しくならない?」
 沈黙が、ステージを制した。
 いや、ステージどころか観客席まで、夢から醒めたように凍りついている。
『こ、これは……』
 熱血アナウンサー君、我にかえったかしら?
『すばらしい切り返しですわ』
 ……主催者殿、めげない女ね、見かけによらず。
 審査委員長たる彼女のコメントにより、会場の空気には再び火がついてしまったようだ。
『さあ、どうでるサイジョウ選手!』
 どうもこうも、さっきみたいな自信と自惚れたっぷりに否定すればいいじゃん。
「くっ……参りました……」
 え、えぇぇぇぇ。
 中年にさしかかった王子様が、私に膝をついていた。
『決まりました! サイジョウ選手まさかの敗北宣言により、スズキ選手の決勝進出決定です!』
 勝っちゃったよ……あああ、また勝っちゃったよぅ。
『すばらしい一言でした。とくに、ボンゴレビアンコの「ビアンコ」と「連呼」の韻の踏み方が秀逸です。サイジョウ選手も投了やむなし、といったところでしょう』
 韻とか踏んだつもりはないの、ねぇ、お願い。私はフツウの人なんです、もう勘弁してください。
『ええ、本当にすばらしい戦いでした。決勝戦も目が離せませんね』
 呆然とした私の姿を、まさかの勝利に対する驚きだと勘違いしたらしい案内役の女性が、間違った気の利かし方でもって私を選手家族席へと引っ張っていく。
 決勝戦までにステージを再装飾しなければならないので、ここで休憩時間をとるらしい。ご家族とごゆっくり、なんて笑顔で言うあなたを恨んでもいいですか?
「姉ちゃん、すげーよ!」
 子犬みたいな勢いでトモが駆け寄ってきた。トモ的には、試合前にアユアユのインタビューを受けられただけで十分満足だったらしいが、私が予想外に勝ち進んでしまったものだから、すっかり賞金にも目がくらんでしまっているのだ。
「やったわね、アカネ。もうひとがんばりよ! 賞金がかかってるんだからね!」
 母さんの両目は最初っからくらみっぱなし。
「もう、やめてよ……ねえ、父さんは?」
 私は助けを求めるように父さんの姿を探した。
「親父? あ、そうだ、なんかもう帰るとか言ってたよ」
「そうそう、仕込みがあるからって。今日くらいお店お休みにしたら、って母さんも言ったんだけどね」
 うわー、職人気質もここまでいくと国宝級だよ、父さん……
「そんな」
 このめちゃくちゃな状況の中で、唯一いつもどおりだった父さんが帰っちゃったなんて。
「あ、でも帰ったのはついさっきだし、まだロビーあたりにいるんじゃないかな? 急げば間に合うかもよ」
 トモ、今だけはあんたのその言葉が正しいことを祈るわ。
「ほんと? 母さん、トモ、私ちょっと行ってくるね!」
 私は会場を飛び出し、ロビーに走った。
 だって、ここで父さんに会わないと、私まで会場の空気に飲み込まれちゃいそうなんだもの。
「父さん!」
 ラッキー。父さんはまだ、ロビーの自動販売機の前にいた。
「アカネか」
 缶コーヒー(男は黙ってブラック)を片手に、父さんはいつもどおりのクールな反応だ。
「もう、なんで急に帰っちゃうのよ」
 父さんだけが普通の世界との命綱だっていうのに。
「……悪いことをしたな」
 いつもより長めの沈黙の後、父さんは私に謝った。
「へ?」
 な、なんで父さんが私に謝るの? 父さんは全然悪くないし、悪いのは勝手に応募したトモと、勝手に盛り上がっちゃった母さんだよ。
「お前、本当は大会に出たくなかったんだろ」
 じっと私の目を見て、父さんは語りかけるように言葉を続ける。
 ……当然、図星だ。
「トモと母さんの無理につきあわせて、悪かった」
 父さん、やっぱり父さんだけはわかってくれてたんだ。
 混乱しきって苛立っていたのが馬鹿みたい。私は少しずつ頭が冷えていくのを感じた。
「待って、次決勝だし、あとちょっとだから」
 決勝の後、父さんに真っ先にお礼を言いたいから。
「仕込みがある。店を休むわけにはいかないからな。すまない」
 私のそんなちっぽけな思いにも、父さんは揺らがない。料理人としてのプライドを貫くために、父さんはどうしても帰らなきゃならないんだ。
 そんな風に芯のとおった父さんのこと、私は大好きだ。
「アカネ。最後くらいはお前の思うようにしろ」
 それだけ言うと、缶コーヒーを飲み干して父さんは行ってしまう。
 うん、ありがと父さん。私、決めたよ。
 ……こんな馬鹿げたお祭り騒ぎ、ぶち壊してやる。



「ごらんなさい、あたくしの言うとおりになったでしょう?」
 宣言どおり、ゴスロリさんは勝ち残っていたらしい。これはこれで大したものだと、今はちょっと冷静に見られるようになったわ。
「そうね」
 だからほら、落ち着いて返事することだってできるのよ。
「手加減はしません。あなたもせいぜい全力でかかってらっしゃいな」
 準決勝前の私とは違うことに、ゴスロリさんも気づいたみたい。きっ、と表情を引き締めて、彼女は私に宣戦布告した。
「そうさせてもらうわ」
 ええ、私なりのやり方でね。
『ただいまより、第一回ボンゴレビアンコ全国大会、決勝戦を執り行います!』
 再装飾を施されたステージは、明るさにして当社比二倍、派手さにして当社比三倍。狂った祭りの最後をしめくくるにふさわしいダメっぽさだ。
『エントリー総数三万七千五百三十六通、全国のボンゴレビアンコ使いの頂点を決する戦いが今、今まさに始まります!』
 熱血アナウンサーの言葉にも、今まで以上の力がこもる。
 三万七千五百三十六人の踊る阿呆に、一億の見る阿呆よ、あなたたちの思いには、私がきっちりケリをつけてあげるわ。
『ついに、ここまできましたね。楽しみです』
 ふふふふふ、奇遇ねミス・ヘミングウェイ、私も今ようやく楽しむ余裕がでてきたところなの。
『今、あなたは伝説の目撃者となる! 天下分け目の最終決戦、レディー・ファイッ!』
 決勝戦には間仕切りの幕はない。コールとともに煽りのドラムロールが絶頂を迎えて止まる、その瞬間が試合開始の合図だ。
「よろしくボンゴレビアンコですわ、スズキアカ……」
 皆まで言わせず。ここは先手必勝よ。
「待って。先に言いたいことだけ言わせてもらうから」
 私はまず、おもちゃじみた玉座を捨てた。
『おーっと、これはどうしたことだ! スズキ選手が席を立ちました! 大会公式ルールにより、席を立ったまま三十秒が経過すると失格になってしまいます!』
 会場のどよめきを代表するように、アナウンスが困惑を伝える。いい気味だ。
「あなた、どういうおつもり!? 座りなさい、こんな勝ち方なんて認めなくてよ!」
 ごめんね、ゴスロリさん。これが私のやり方なのよ。
「失格上等! 私、もうこんな大会やめます。だいたい、どうかしてるわ、なにがボンゴレビアンコよ。みんな踊らされてるの。ボンゴレビアンコ一言でなにがわかるのよ? ただの流行なら別にいいけど、こうまでされたら迷惑だわ! 母さんもトモも、賞金だの女子アナだの、すっかり目がくらんじゃって、まともなのは父さんだけ。私の家族の平和を返してよ! それからね、父さんの料理はなんだって最高においしいのに、ここ最近の注文は馬鹿みたいにボンゴレビアンコボンゴレビアンコ、ボンゴレビアンコの繰り返し! 冗談じゃないわ、あんたたちそんなにアサリ好きなわけ? ホワイトソース専門ですか? いい機会だからはっきり言わせてもらう、スズキ料理店はボンゴレビアンコ 専門店じゃなくて、イタリア料理店です! それからもう一つ、私は、ボンゴレビアンコよりも、ボンゴレロッソの方が好きなのよーっ!」
 あー、すっきりした。
『……こ、これは、大波乱です。と、とにかく優勝者は』
 私の剣幕に気おされたように静まり返る会場に、すっかり弱気な熱血アナウンサーの声が響く。
 これでどうかしら、ミス・ヘミングウェイ。さすがのあなたも怒りのあまり言葉も出な……
『お待ちなさい! 素晴らしいわ! スズキアカネ選手、やはり彼女は特別だったのね。私が見込んだとおりでしたわ』
 な、なんですと?
『み、ミス・ヘミングウェイ?』
『ボンゴレビアンコの根幹を揺るがすその言葉、まさにコペルニクス的転回! 私は本大会の主催者兼審査委員長として、今ここに宣言します。優勝者は、スズキアカネさん、あなたです!』
 いやいやいやいやいや、それはナシでしょう。熱血、なんとか言っておやり!
『い、いやしかし、ミス・ヘミングウェイ、それでは……』
『お黙りなさい、ルールブックは私です。それに、あなたにはこの声が聞こえないのですか?』
 そんな無茶な。
 会場は揺れていた。私は……開いた口がふさがらない。
……ボンゴレロッソ! ボンゴレロッソ! ボンゴレロッソ! ボンゴレロッソ! ボンゴレロッソ! ボンゴレロッソ! ボンゴレロッソ……観客席を埋め尽くす人々が、声を揃えてコールする。それはある意味感動的で、限りなく馬鹿馬鹿しい光景だった。
「ふっ、あたくしの負けのようね。見事だったわ、スズキアカネ」
 えっ、あなたそれでいいんですか?
 会場の歓声にほだされたのか、気高きお嬢様、ナナカマドユウカは悠然と席を立ち、選手控え室へと歩み去る。後に残された私は、呆然と立ち尽くすのみ。
 なんなのよ、これは。



 それからのことは、別に語るまでもない。
 ミス・ヘミングウェイから手渡される予定の賞金目録を、私はきっぱり断った。
 母さんとトモは納得いかないみたいで大騒ぎしてたけど、知ったこっちゃない。父さんの言うとおり、私は私の好きにしたまでのこと。
 これですべては元通り……とは、いかなかった。
「アカネちゃん、注文!」
 スズキ料理店は今日も大繁盛だ。看板娘の私が休むわけにはいかない。それはもちろんわかってるんだけど……
 常連客の指差すメニューを見て、私は心の中だけで小さく溜め息をつく。
「ボンゴレロッソ、お二つですね」
「お願いしまーす! いやぁ、やっぱりアカネちゃんのボンゴレロッソは最高だね!」
 うわー、こいつの顔殴りたいなー。でもお客様は神様、それが接客業の掟だもんなー。私はぐっと怒りをこらえ、愛想笑いでテーブルを離れる。
「お前も大変だな」
 厨房の父さんに慰められた。
 ねえ父さん、娘を憐れに思うなら、メニューからボンゴレロッソを外してはもらえないでしょうか?


Fin




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