1000年の記憶
 乳白の霧が一面を被っていた。ひんやりとした微量の水滴が肌や髪や衣服をしっとりと湿らせる。
 空を仰いでみても、霧のせいで白く霞んで見えない。ただ見えるのは、目の前の鏡のように水をたたえた湖。
 その湖に、一艘の舟が浮かんでいた。二人乗ればそれだけでいっぱいになってしまう、小さな小さな手漕ぎの木舟。舟には一人の青年が乗り込んでいた。
 彼が、手にしていた竿で、とん、と岸を突くと、舟はゆっくりと揺れながら湖面へと流れゆく。
「……嫌……」
 唇から洩れた声が果たして自分のものであったかどうか、舟を見送る彼女には分からなかった。
「行かないで……行かないでよ!!」
 青年は、ただ静かに微笑んでいる。


「……うるせ……」
 フローリングの床の上で、目覚まし時計がけたたましい音を上げていた。半ば殴るようにしてスイッチを止める。入れ違うようにして、今度はテレビの電源が入り、アナウンサーが朝の脳天気なニュースをしゃべり始めた。
 ベッドの中で、彼は一つ溜め息をつく。眠気がまだそこかしこに残っていて、体を重く沈ませていた。のろのろと体を起こし、頭を一つ振る。カーテンを開けると、初夏の陽射しが飛び込んできて、少しだけ眠気を向こうへと押しやってくれた。
 床に散らばった衣服を蹴とばしながら洗面所へと向かう。白い洗面器に張った水は、朝の光をはじいている。それをしばらく見つめていたあと、思い出したように歯ブラシを口に入れた。歯磨き粉の涼味が徐々に頭を冴えさせてゆくのが分かる。
(それにしても……)
 ここ最近、必ず見る夢。正しくは、4月に大学に入ってからのこの二ヶ月間、必ず見る夢。
(俺は女で……男を引き止めようとしている)
 知らない人、知らない風景。
(どっかの民族衣裳か、あれ)
 夢の中での自分は、いや、目の前の男も、長い布の衣をまとっていた。
(てゆーか、そもそも設定がおかしいって)
 考えを振払うように、勢い良く顔を水につけた。


 一限目開始15分前の講義室は、まだ人の陰もまばらで、後ろの方の席を適当に選んだ彼は、そのまま机につっぷした。大学とバイトで疲れている体は、その上奇妙な夢のお陰で睡眠でも体力が回復しきっていない。
(……ねむて−……)
 講義が始まるまで寝ていようかとぼんやり考えていた彼の背中は、いきなり勢い良く叩かれた。
「おー、朝っぱらから寝てんじゃねーよ、だらしねー」
 ヒロだ。不機嫌全開の顔を向けた友人は、ちっともこたえる様子もなく、にやにや笑っている。
「……最近寝てないんだよ……」
「そりゃ結構。なんだ、飲み会か、それともオンナか?オンナなら俺にちゃんと報告しろよ」
「そんなんじゃないって……」
 朝からハイテンションの友人に、辟易しながら答える。
「最近変な夢ばっか見るんだよ。それも毎回同じ夢。まったくまいるぜ」
「夢なんか誰だって見るだろ。俺だって見るぜ。そんなんでまいってんじゃねーよ」
「わかった。わかったから少し寝させてくれ……」
 まだ何かしゃべりたそうな友人を無視して、また彼は机へつっぷした。


「夢、ですかあ?」
 バイトの後輩が首をかしげる。疲れた体をひきずるようにして、大学からバイト先の居酒屋までなんとかたどりついた。途端に襲ってくる眠気と戦っていると、疲れてるんですか、と後輩に声をかけられた。
「そう、変なんだ、これがまた」
 夢の中で自分は女であること、知らない男が行ってしまうのを引き止めようとしていること。知らない風景、見た事もない衣服。その夢が毎日のように続くこと。
「ふーん、確かに変ですねえ」
 彼女が首をかしげるたびに、髪がさらさらと流れる。茶色に染めた髪。
「そういや、夢ん中の男も茶色い髪してたなあ」
「あ、それってもしかしてえ」
 彼女が何か思いついたように、ぽん、と手を合わせた。
「前世の記憶、とか!」
「……前世?」
 突拍子もない話に、彼の思考回路はすぐにはついていかない。
「そうそう、先輩は前世は女の人でえ、しかも日本じゃなくてどっか遠い国の人なんです。で、恋人と離ればなれになっちゃうの。そのシーンが魂に焼き付いているとか!」
「そりゃないだろ……」
 半ば呆れたように後輩の顔を見る。
「きゃーロマンチックぅ!」
 彼女は一人自分の考えにうっとりしているようだった。
「聞けって……」


(前世、ねえ……)
 バイトから帰ってきたら、シャワーもそこそこにベットに沈没した。明日の予習など、到底する気にならなかった。
 またあの夢を見るのだろうか、という考えが頭を過ったとたん、後輩の声がよみがえった。
(ばかばかし……)
 思う間もなく、眠りに引き込まれていった。


 乳白の霧が一面を被っていた。ひんやりとした微量の水滴が肌や髪や衣服をしっとりと湿らせる。
 空を仰いでみても、霧のせいで白く霞んで見えない。ただ見えるのは、目の前の鏡のように水をたたえた湖。
 その湖に、一艘の舟が浮かんでいた。二人乗ればそれだけでいっぱいになってしまう、小さな小さな手漕ぎの木舟。舟には一人の青年が乗り込んでいた。
 彼が、手にしていた竿で、とん、と岸を突くと、舟はゆっくりと揺れながら湖面へと流れゆく。
「……嫌……」
 唇から洩れた声が果たして自分のものであったかどうか、舟を見送る彼女には分からなかった。
「行かないで……行かないでよ!!」
 青年は、ただ静かに微笑んでいる。
 そして。
「忘れないから」
「……え……?」
「絶対に。
 死ぬまで。
 死んでも。
 永遠に眠り続けても。
 生まれ変わっても。
 ずっと。
 ずっと忘れないから」


 がばりと布団をはねのけて飛び起きた。呼吸は荒く、息を吸い込むのでさえもどかしく感じられる。額や首筋には汗が流れ、背中もパジャマが汗で貼り付いていた。 「なんだ、今の……」
 夢が。
「進んで、いる……?」
 震える手で目覚まし時計を掴む。時刻はもうすぐ午前5時半になろうとしていた。起きるにはまだ30分の時間があった。だが、こんな衝撃の後ではとても寝てはいられなかった。
(でも、最初はこんなんじゃなかったよな……)
 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、そのままあおるようにして飲んだ。すぐに水は体中にいきわたり、徐々に汗がひいてゆく。
(確か最初は……)
 一面を霧が被っているだけだった。
(それから、湖が見えるようになって……)
(やがて舟と男が見えるようになった)
(最近になってだよな、引き止めようと叫びだしたのは……)
 そして、今回の夢。
 あきらかに、進んでゆく世界。
(何なんだよ、本当に……)
 もしかして、本当に前世の記憶だったりして。
(だから、ありえないってそれは……)
 それ以上の思考を停止して、のろのろと仕度を始めた。


 できるだけゆっくりと仕度をしていたが、それでも講義室についたのは30分も前だった。
 今日の授業はできるだけ寝ることにしようと、一番後ろの席に座り込む。肩にかかっていた鞄を隣の席に放り投げるようにして置くと、しらずしらずのうちに深い溜め息がもれた。
「なんだよ、今日も朝からお疲れかあ?もしかして、また寝不足ってヤツ?」
 耳に、ヒロのしゃべりたてる声が飛び込んでくる。しゃべりながらヒロは、端に座っていた彼に真ん中へ行けというそぶりを手でみせて、そのまま隣に無理矢理座ってきた。
「そう、また寝不足ってヤツ。マジで最近辛いんだけど。いい加減夢も止まってくれって感じ」
「ああ、夢ね。俺も最近よく見るけどね。疲れっけど、でも所詮夢は夢だし、そんなの誰だって見るんだって言ってっだろ」
「だからさ、俺のはちょっと違うんだって……」
 最初はただの風景だったのが、日が経つにつれて状況が進むようになってきた。知らない世界で、自分は女で、男を引き止めようと叫んでいる。そして今日、
「なんかさ、男が死んでも忘れないから、って言ってんだよ。バイトの後輩が、それって前世の記憶だったりして、とか言ってんだけどさ、それはありえないし、かと言ってただの夢と言って片づけてしまうにはあまりにも変だし、もう誰でもいいから何とかしてくれよ、って言いたいよ、俺は」
「それって、いつからだ?」
「え?」
「だから、その夢を見始めたのは、いつからなんだよ」
 話を聞いたヒロは、なぜかいつになく真剣な顔つきをしていた。その様子に、多少たじたじとしながらも彼はいつだったかと思い出してみる。
「確か、大学入ってすぐだったと思ったけど。そうそう、入学式の前日にガイダンスがあっただろ?あの晩からだよ」
「それって、俺達が初めて会った日だよな」
「?ああ、多分そうだと思うけど……。それがどうしたんだよ?」
 彼とヒロとは、出席番号が一つ違いだった。ガイダンスで席が前と後ろになった彼らは、周囲に知人もいない中で、しごく自然に、どちらともなく話し始め、そして今に至っている。
「言っただろ、俺も夢見るんだって。お前と似たようなもんだよ。ガイダンスの日から見始めて、最初はただの風景だけだったのが、だんだん状況が進むようになってきて。ただお前と違うのが、俺はまったくお前と逆の立場だったってこと。俺は、霧の中湖に浮いた小舟に一人で乗り込んでいる。岸には女がいて、哀しそうな顔で俺を見つめてる。俺が何にも言わないで舟を湖に進めると、女が、行かないで、って叫ぶんだ」
「それって……」
「そして今日の夢だ。俺は女に向かってこういった」
 忘れないから、と。


 絶対に。
 死ぬまで。
 死んでも。
 永遠に眠り続けても。
 生まれ変わっても。
 ずっと。
 ずっと忘れないから。


「なんだよ、それ……」
 信じられない。そんな事があるのだろうか。普通に考えて、ありえない。絶対に。
「もしかして、本当に、前世の記憶、ってヤツだったりしてな」
 薄く笑いながら、ヒロがそう言った。
「そうだとしたら、俺とヒロが前世では恋人同士で、別れ別れになってしまった、ってわけか?」
「そーそー。で、二人とも生まれ変わって、忘れていた記憶がまた出会ったことによって呼び醒まされたってワケ」
「は、はは……」
「あはははは!」
 お互いに、顔を見合わせて笑った。どちらともなく肩を組み合って、笑い続けた。


 絶対に。
 死ぬまで。
 死んでも。
 永遠に眠り続けても。
 生まれ変わっても。
 ずっと。
 ずっと忘れないから。


 ………また逢おう………。